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2007/08/13

奉行と与力と同心と—捕物帳の基礎知識3

ご存知、遠山の金さんが意外に幕末近い頃の人であることを以前ご紹介しましたが、この遠山左衛門尉の同時代人に矢部駿河守定謙*という人がいます。遠山が北町奉行のとき矢部は南町奉行でした。

もともとこの人は矢部彦五郎といいましてさほど大身の家柄ではない。

藤田東湖の『見聞随筆』に矢部と藤田との問答が書かれているそうです。それによれば、矢部はこんなことを藤田に語った。
自分はごく小身から起こった者で、じつは自分の出世というものはみな賄賂でやってきたもので、なにも自分に才力があったわけではない、という。
これに対して、藤田東湖は、「たとい暗い運動をしても、明るい政治家が世の中へ出ればよろしいわけである、あなたほど人が世の中に出るについては、どういう道行を取られたところが苦しくない」(鳶魚江戸文庫1)と答えているそうであります。

ところが、これにつづけて三田村鳶魚は、矢部の出世というものは、もちろん賄賂もつかったに違いないが、むしろその鍵は、配下の人間をスパイに仕立て、敵をくじいたり、陥れたりする謀略にたけていたところにあるのだと言うのですね。
その手口は、細かなことはメンドクサイので省きますが、要は前回紹介したような野心家の副官タイプの与力や同心(ただし奉行所居付の町与力と町同心は転勤も昇進もありませんので、自然、スパイになったのは臨時雇いの方ですね)に昇進の餌をちらつかせながら、汚い仕事をさせるというものでありました。

こうして探偵、スパイをつかっていろいろな仕掛けをつくって手柄を演出することで矢部は三百俵の身上から堺町奉行、大坂町奉行(このときに大塩平八郎の建策を聞いています)、御勘定奉行まで一気に上り詰めて行った。御勘定奉行は役高三千石であります。三百俵取りから一気に三千石の立身出世となったわけです。このあと矢部は水野越前守忠邦(天保の改革の人ね)との確執やらなにやらで一時閑職(西丸御留守役)に追いやられるのですが、狙いを今度は江戸町奉行に定めて、当時は北町奉行が例の遠山、南町奉行が筒井伊賀守でしたけれども、この南町奉行を追い落として後釜に座ったのでありました。

ところが、やはりこうしたスパイ好き、謀略好きという人は、同じくスパイや謀略によって足下をすくわれる。今度は、この矢部を狙って幕閣での出世を果たそうという人間が現れます。
それが、時代小説ファンなら誰でも知っている鳥居耀蔵(ようぞう)であります。

じつはわたしは矢部という人は今回のお勉強まで知らなかったのですが、鳥居耀蔵は「妖怪」としておなじみであった。いまのお坊ちゃま宰相のじっちゃんも昭和の妖怪と呼ばれたお方であるが、こっちの妖怪は、鳥居耀蔵が従五位下甲斐守に叙せられたので耀蔵の「よう」と甲斐守の「かい」を合わせた洒落でありました。あまり大きな声では言いたくないが、わたしがこの鳥居甲斐を知ったのは小池一夫の原作で神田たけ志が描いた劇画「御用牙」が最初でありました。教養の底が知れる。(笑)

さて、この矢部と鳥居とは水野越前守忠邦の改革をめぐっての政敵でありまして、鳥居は目付として矢部を追い込み南町奉行を失脚させたのでありますが、まあ、このあたりの幕閣の政争の凄まじさは小説やら劇画の材料としては面白さ抜群なのですが、なにしろ話が錯綜しすぎていてわけがわからんというのが実際のところであります。いずれにしてもこういう政争というものは、いまもむかしも早い話が密偵やら謀略やらということになります。
なお、矢部は南町奉行失脚後、預かりとなった桑名藩で食を断って憤死。(1842)
鳥居耀蔵も最後はやはり失脚しますが、御一新後も生き残り明治6年(1873)に死んでおります。

話が長くなったので以下結論。
三田村鳶魚が面白いことをいっています。

町方の与力は二百俵取なので本来は旗本として目見以上であってもよいはずです。
じつは町同心と同じ禄である三十俵二人扶持しかない小十人というのが旗本の一番低い位であったのですが、これは目見以上とされていました。
町与力はそれに八九倍する禄を貰い、しかも槍一筋の主でありながら、目見以下に定められていた。さらに彼らは、転勤転役ということを決してさせなかった。つまり、町奉行のように幕閣内で(すなわち表の政治の世界で)出世するということはありえなかった。
なぜか。
かれらは罪人を取り扱う不浄役人であったからだ、というのですね。

なんてひどいことを言うのだ、これだから封建制度は駄目なんだ、といまのわたしたちは思いますが、考えてみれば、町与力、町同心というのは人の後ろ暗いところを探って機密情報にふれるのが役職である。こういう人々が野心をもって表向きの世界で権力を握ろうとすると、それはそれでずいぶん剣呑である。だからかれらは八丁堀の旦那として世間向きでは幅を利かせもし、各方面からそれなりの挨拶、付け届けもあって実入りはよかったとしても、幕閣の中で昇進し奉行や老中になるなどという道は閉ざされていた。これはまた幕政の考えてみなければならない点でもあろう、てなことを三田村鳶魚は書いております。

ひるがえって現代の各国の政治指導者をみるとどうでありましょうか。諜報機関出身の大統領なんてのは珍しくもないが、その国が関与した暗殺なんてことが公やけになると、証拠はなくともどうしても分が悪い。アメリカのミステリでは地方検事なんてのはたいてい政治的な野心をひめているのがお約束になっていて、こういうのは大いなる反感をもって描かれるのが常である。
「不浄役人」という言葉はさすがにひどいとは思うが、公安関係者はやはり表には出ないというのが、その世界の不文律「倫理」であるのかもしれません。

*矢部駿河守定謙は、『ウィキペディア(Wikipedia)』では「さだのり」としておりますが、三田村鳶魚は「さだあき」というルビをふっています。

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