奉行と与力と同心と—捕物帳の基礎知識1
今日から夏休み。
時代劇や捕物帳などの時代小説をもっと楽しむためのお勉強でもしてみます。
教科書は主として『捕物の話—鳶魚江戸文庫〈1〉』から。
ご存知、遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元が町奉行所の長官である北町奉行をつとめたのは天保十一年(1840)から天保十四年(1843)の三年間といいますから、そんなに遠い昔の人ではない。国外に目を向けると中国のアヘン戦争が1942年のことですから、アジアをめぐる国際情勢はなかなかどうして時代劇のお気楽な天下太平のようなものではなかった。
それはともかく、江戸町奉行といういうのは現代で言えば「東京都知事と高等裁判所判事と警視庁長官の権限を一手に掌握する重職であった」(山本博文)そうですな。
江戸には北町奉行所と南町奉行所のふたつがありました。中町奉行所というのも一時あったそうですが、おおむね江戸の町の治安はふたつの町奉行所によって保たれていた。
これは月番制になっておりまして、一方が月番であれば他方は明番(あきばん)となったわけですけれども、これは片方の役所が休みになるという意味ではなくて、簡単に言えば新規の訴訟や案件の受付を月番でやっていたということであります。明番の奉行所も当然懸案の業務を遂行していたわけで、とくに市中の巡回は月番も明番もなかった。
なにしろ、町奉行所というのは先に述べたように東京都庁と東京高裁と警視庁を合体させたような職権の役所でありながらおそろしく少人数で運営されていたのだそうです。
町奉行配下には、与力が南北それぞれ二十五騎の五十人。同心はそれぞれ五十で百人。合わせて百五十人で上記の役所の業務を遂行していたのであります。月番で休めるような安気な職務ではないようで。
与力と同心というのは、明治の初めに武家の家来を士族と卒族にわけたそうですが、そのとき、与力が士族、同心が卒族に分類された、といいますからその間にはきっちりとした格の違いがあったようであります。軍隊の士官と下士官、警察官僚のキャリアとノンキャリアを親子代々続けて行くようなものでありましょうか。
(この項続く)
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