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2007年9月

2007/09/29

呼び捨て、欧米かよ!

英会話の先生(アメリカ人)の話。
日本の生活も長いし、奥さんも日本人なので、みんなに悪気がないことはわかっているんだけど、日本人って名前の呼び方に問題があるんじゃない、って言う。

たとえばこんな場面。

かれの入会している地元のテニス倶楽部では、新しいメンバーが入ってきたときは、コーチが古手の会員を新会員に引き合わせて紹介するというのですね。
ここでは仮にポール・マクローリーくんとでもしておきましょうか。

コーチの紹介は、たいていこうなるのだそうです。
ええと、じゃあ、うちのメンバーのみなさんを紹介しますね。こちら、佐藤さん、山本さん、田中さん、ええとそれからポール、西田さん、中島さん・・・

うーん、わかるなあ、わたしがコーチでもきっとそうするよ。(笑)

「ね、ヘンでしょ。山本さん、田中さん、ときたらマクローリーさんって呼ぶべきじゃん?なんでわたしだけいつも呼び捨て?」
「マクローリーさんってのは言いにくいよ」
「ちっちち、だめだめ、ぜんぜん言いにくくなんかないよ」
「ポールのほうが親しみがこもっているとか」
「じゃあさ、こちら、吉夫、順一、ポール、とか言えばいいじゃん」
「あのねえ、日本人は名前で紹介しないのは、知ってるでしょ」
「じゃあ、なんで、ガイジンはいいわけ?」

以上は、ほぼ実際の会話の流れです。
さて、ざっと考えて、だれかの名前を呼び捨てにするのは、次のような場合でしょう。

(1)その人が自分の身内の人間である場合。「えっ、孝太郎がそんなことを言いましたか」なんていう場合は、その話し手と孝太郎は、親子、兄弟、親戚、親友などであるということが日本人ならすぐわかる。

(2)その人間が犯罪者だったり、あるいは話し手がその人に悪意を持っていたり否定的に見ている場合。「麻原彰晃がやったんだよ、絶対」なんていうのがこれにあたる。

と、ここまではわたしでも説明ができると思うのですが、どっちもポールくんが聞いて「ああ、じゃあまあ仕方ないね」とはならないなあ。そんならよけい酷いじゃん、と言われそうである。

ところが今日、高島俊男さんの『お言葉ですが・・・』を読んでいたら、こんな箇所があった。(どっちがエライ、「君」と「さん」)

昔から、といってもそれほど大昔ではないがともかく戦前から、文士と役者と相撲取りと野球選手とは、名前を呼び捨てにしても失礼でないことになっている。誰が決めたというのでもないが、まずそういうことになっている。

あ、これはイケルと思いましたね。
ただこれを英語で説明するのは、難しいよきっと。(笑)

(3)呼び捨ての方が自然であるという場合がある。「朝青龍さん、今日帰国しちゃったんだってね」とかは丁寧というよりむしろヘンである。「でさぁ、木村拓哉がそこで言ったの」なんて女子高校生が電車の中で喋っていたら、こいつらは映画とかテレビドラマの話をしていることが了解できる。これが「そのとき木村拓哉さんが言ったの」となると、なんだか現実の世界でキムタクが言ったようなニュアンスになって、普通の人はそうではないわけだから、さんをつけることが誤解をわざと誘導するみたいで、かえってその有名人に礼を失するというような感じになる。

さて、こう考えてみると、ポールくんは、日本語で名前の呼び捨ては、上記の(1)か(2)を意味すると知っているからむくれるのね。
一方で、わたしたち日本人の方は、それをあまり悪いことだと思わない(むしろ好意でそうしているつもりである)のは、なんとなくそのガイジンをガイジンであるということで、その人はまったくの無名な人であるのに、(3)のケースの有名人やスターと同じように扱ったつもりになっているからではないか。そう考えるとなんとなく腑に落ちるような気がするんだけどどんなもんでしょう?

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2007/09/27

キーボード

1447504243_abe10b9910 新しいマックのキーボードを買った。
いままで使っていたのは、ときどきキーの隅っこに指が当たると、きちんと底まで押さえられずに、途中でひかかることがあって、ちょっといらいらっとすることがあった。
たぶんストロークの深さが自分のキータッチの癖と上手く合っていなかったのだろう。
それでも長く使っていれば、やがて自分の指の方が馴れるのかもしれないが、残念ながら昼間は会社のPC(デル)だし、家に帰ってからはマックなので、どうも微妙にキーの位置や感触が違うようで、指の方もどっちに馴れていいものか、まごついていたのかもしれない。

キーボードというのは筆記用具と似たとところがある。
考えながら文章をつくっていくときに「ひかかり」があるとどうも気持ちが悪い。
そういうことが一回でもあると、なんだかもう嫌になって、ものを書こうという気が失せたりするのであります。

今度の新しいiMacを見た時、そのキーボードの見た目が、なんだか電子辞書のキーみたいだなあと思って、いまひとつ好きになれなかったのだけれど(キーボードというのはこういうものだという固定観念が抜けないのね)、そんなこんなで、これまでのキーボードにも不満があったので、店頭で実際に使ってみると、こいつは案外悪くない。少なくとも押さえたつもりのキーが途中でひかかってしまうような感じはないように思う。

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2007/09/26

アンナ・ポリトコフスカヤ

『チェチェン やめられない戦争』アンナ・ポリトコフスカヤ/三浦みどり訳(NHK出版)

なぜ自分はこの本を読んでいるのだろう。たとえわたしがなにかを知ったつもりになったとして、それがいったい何になるのだろう—。
空しさと無力感、そして恐怖。

第二次チェチェン戦争は、もし本書の報告にあることのほんの一部でも、それが事実を伝えているならば(わたしはこれをまったく疑わない)、わたしたちは恥ずかしくてチェチェンの老いた母親たちの顔を正面から見て「お気の毒です」などと言うことはできないはずだ。

歴史のなかには数知れない戦争の悪が報告されている。
もちろん報告されずに闇に消されて行った悪も数知れない。
しかしそれを伝えずにおれないとする人間もまた絶えない。ジャーナリストという職業に対して、その名誉と名声に対して、人はどこまでシニカルにこれを見定めるべきかというのは難しい問題だ。しかし、どこかで「わかった。おれはあんたを信じるよ」という跳躍がなければ話はすすまない。
そういう跳躍を多く人にさせたのがアンナ・ポリトコフスカヤだった。彼女のような人間が存在したことでわずかな希望が未来につながれる。

9・11以降の国際的な対テロ戦争というプロパガンダを、ロシアの一部の政財界の勢力がどのように利用したのか、歴史は徐々に明らかにしていくだろう。同時代のわれわれにはこれを見届ける義務がある。

Anna アンナ・ポリトコフスカヤ(Anna Stepanovna Politkovskaya)は1958年、ソビエト社会主義連邦共和国の外交官の娘としてニューヨークに生まれた。1980年モスクワ大学ジャーナリスト学科を卒業後、1982年イズベスチヤ紙に入社。1999年、ノーヴァヤ・ガゼータ紙に移り、第二次チェチェン戦争を報道。
2002年10月のモスクワ劇場占拠事件で、チェチェン武装勢力からロシア当局との仲介を依頼され、人質釈放の交渉に当たった。
昨年2006年10月7日、モスクワの自宅アパートで射殺された。
ロシア当局は事件の全容解明を約束し、先月も実行犯グループなどの情報を発表しているが、これに対する国際的な信頼は低いと思う。

photo by Anna MR.

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2007/09/23

フランシス・フクヤマ補遺

『アメリカの終わり』の訳者解説から。
フランシス・フクヤマは名前から日系であることは明らかだが、本書の訳者合田弘継さんはあるときフクヤマ氏にこんなことを訊ねられた。
「私の母方の祖父で、河上肇という社会主義者の友人だったカワタ・シロウをご存知ですか」

河田嗣郎(1883-1942)という人は、今回までわたしは知らなかったけれど、京都大学の経済学部のときに河上肇と同僚の教授で、のちに大阪商科大学(大阪市立大学の前身)の初代学長となった人物。山口県柳井市の出身だから河上肇と同郷ということもあり親交を深めたものと思われる。河上肇(1879ー1946)より四歳ばかり年下になるが、戦中に亡くなっている。二人の墓所はともに法然院にあるそうです。

この河田嗣郎の孫には、関西大学学長の河田悌一氏もおられる。

悌一氏によれば、河田家では、京都帝国大学を「恩賜の銀時計」を得て卒業した嗣郎氏を最も彷彿とさせるのがフランシスであると言われてきた。その博覧強記ぶり、「抽き出しのたくさんある頭脳」が似ているのだという。

河田嗣郎の孫であるお二人(従兄弟にあたる)の写真を並べてみました。いかがでしょうか、似ているかなあ。

左がフランシス・フクヤマ氏(1952生)、右が河田悌一氏(1945生)。

Granson_1

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フクヤマ『アメリカの終わり』

フランシス・フクヤマの『アメリカの終わり』(『America at the Crossroads』)は、邦題は「なんだかなあ」ですが、中身の方はなかなか面白かった。

ネオコンの思想的な系譜をたどりながら、冷戦終結後のアメリカの外交政策を実質的に動かすことができるようになったとき、かれらが、その巨大な力を「善意による覇権」として世界に押し進めようとしたいきさつがなんとなく、等身大の人間の行いとして理解できるような感じがした。

もともとトロツキストで、やがて共産主義の「悪」への嫌悪から激しい反共感情を抱くようになったネオコンというのは従来の右派とはかなり異なるというのはなんとなく腑に落ちる。たとえば冷戦のとき、主流派の右派は「封じ込め」という戦略をとった。今日のネオコンにつながるグループは、そういうプロフェッショナルな冷徹な大人の戦略(ジョージ・ケナンとかキッシンジャーとかをここで想起すればよい)にはあきたらなかった。冷戦時代の外交政策の主流は自らリアリストをもって任じ、ソビエトの体制が「悪の帝国」であるとか、ベルリンの壁を崩壊させて東ヨーロッパを解放すべきだというような「幼稚」な言説をアマチュアっぽいガキの発想として軽蔑していたが、意外にもレーガン政権下で、正しいのはむしろこのアマチュアの言説であることがはっきりした。

冷戦時代の大部分の期間、ネオコンは小さな、蔑まれた少数派であることに慣れてしまっていた。ネオコンの思想の多くが最終的にはレーガン政権によって実行に移されたが、アメリカ外交政策のエスタブリッシュメントである、国務省の官僚機構を動かす人たちや情報活動にあたる諸機関、国防総省、数多くの外交顧問やシンクタンクの専門研究家や学者らは、およそネオコンを無視していた。ネオコンは、ヨーロッパ人からも「単純すぎる道徳論者」や「向こう見ずのカウボーイ」、あるいはそれ以下の者として見下げられるのが通常であった。ネオコンは誰もが常識としていることを打ち捨て、可能性すらまったく想定できないと皆が思うような打開策を目指していた(ダブル・ゼロやベルリンの壁を崩すというのがそれだ)。
共産主義の突然の崩壊で、そうした考え方の多くが正しかったということになり、一九八九年以降は主流派として、当然の存在と見られるようになった。

フクヤマはネオコンには四つの原則があるという。

  1. 体制(レジーム)の性格が政治の中心的な問題であるという考え方
  2. アメリカ国家の力は道義的な目的のために国際問題に対して使われるべきであるという国際主義
  3. 大胆な社会改造計画に対する不信
  4. 安全保障や正義の実現における国際法・国際機関への懐疑

なんとなく、のび太クンが突然ドラえもんの力で地球の危機を救うようになったオハナシみたいな感もあるが、わたし個人はわりとこれらの原則には共感できる。(とくに3については同意見)フクヤマ自身も、もちろんネオコンのイデオローグとみなされていたわけだから、この原則そのものについて批判しているわけではない。本書でフクヤマは、しかしブッシュ政権の9・11以降の対テロ戦争への傾斜についてネオコンはその対応を誤ったと見ている。
とくに冷戦終結と「棚からぼた餅」的な勝利が、どうもかれらに脅威を過大にみる傾向をあたえたようだと考えている。

共産主義崩壊後のネオコンは、アメリカが直面する脅威の程度を過大評価しがちだった。冷戦時代、ネオコンがソ連の脅威について、軍事面でも道義的悪という面でも悲観的に見たのは正しかった(と私は思う)。だが、ソ連が崩壊し、アメリカが唯一の超大国となった後も、多くのネオコンが世界にはまだ危険だが過小評価されている脅威がいくつも存在すると考えた。

たまたまいまちびちびと読み進めている新訳の「エセー」でモンテーニュがこんなことを言っている箇所に出くわした。ああ、これだなとおかしかった。

川を見たことがない人間は、初めてこれを目にして、大海原ではないかと考えた。われわれは、自分が知っているもののうちで最大のものを、その種類のなかで、自然が作りあげた極限のものだと判断しがちなのである。
宮下志朗訳『エセー』
第26章「真偽の判断を、われわれの能力に委ねるのは愚かである」より

フクヤマの見立ては以下のような発言に集約されていると思える。
「なーんだ、後出しジャンケンじゃないっすか」という非難もあるそうですが。(笑)

アメリカは軍事的優位性を利用して、世界の戦力的に重要な地域に「善意による覇権」を打ち立てるべきだ―。一九九〇年代の後半、多くのネオコンはそう主張した。イラク戦争では、ブッシュ政権は偏狭な自己利益のために行動しているのではなく、世界のすべてが益を得る「全地球規模における公益」を提供していると考えていた。自分たちの善意に確信を持っていたため、戦争に対し、世界から激しく否定的な反応が出るとは、まず予想もしていなかった。

「第四次世界大戦」だとか「テロに対する世界戦争」だとか、そんなことを言うのはもうやめたほうがいい。確かに、われわれは現在、アフガニスタンやイラクで聖戦を掲げる国際的勢力と激しいゲリラ戦を戦っており、この戦いに負けるわけにはいかない。しかし、この戦いを、かつての世界大戦や冷戦に匹敵する地球規模の大きな戦争だなどと考えるとすれば、それはアラブ人世界・イスラム世界の大部分を敵に回しているかのようであり、明らかに問題の範囲をひろげすぎた見方である。

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2007/09/18

チェチェン補遺

Kavka_b_2 チェチェンを地図で確認しておこう。
コーカサス山脈は、黒海とカスピ海を結んでいる。これは地政学的にはロシアと中東とを分ける線である。それは今日ではイスラーム世界と非イスラーム世界が入り交じる境界でもある。
チェチェンはこのコーカサス山脈の北側の山麓と平地に位置する小さな国だ。面積は岩手県にほぼ等しい。近隣国との位置関係は次の通り。
西はチェチェン人と同系統の民族が住む小さなイングーシ共和国。東はカスピ海に面した多民族国家のダゲスタン共和国。
山脈を越えて反対側である南はグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンである。
なお、チェチェンは本来は形容詞であり正式の地名は「チェチニア」と言うのだそうです。ロシアとの何百年にもわたる戦闘がこの国の男に、格闘技への愛好と勇気と不屈の精神を植え付けた。
前回に紹介した『誓い』のハッサン・バイエフも、高校時代にソ連のジュニア柔道大会のチャンピオンであり、この柔道の功績で奨学金を得て学業をつづけることができた。
彼は他のチェチェンの男たちと同じく敬虔なイスラーム教徒であり、メッカへの巡礼(ハッジ)も行っているが、ソ連邦で医学教育を受けた外科医でもある。当然、イスラーム原理主義には与しない。ソ連で学んだヒポクラテスの「誓い」を己の行動指針にして、負傷者には敵味方の区別を一切許さず治療にあたったために、ロシア連邦軍からは「ならず者の医者」として手配され、チェチェン人の過激派からは「裏切り者」として拉致されほとんど暗殺される寸前まで行く。
現在はアメリカ在住。たしか昨年、日本へも招待されていたのではなかったかな。
二度にわたるチェチェン戦争のなかで戦火の祖国に留まり医療活動を続けた。その想像を絶する手記を読むと、チェチェン人といえばマフィアやテロリストやアルカイーダと同一視(ハリウッドとクレムリンの合作だね)してしまいがちなわれわれの横つらを張り飛ばして正気に戻してくれるような力がある。

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2007/09/17

コーカサス、コーカサス

駅で見たことで一つだけコーリカが黙っていたことがある。揚水所の先の引き込み線の奥に止まっている奇妙な列車のことだ。その列車に行き当たったのは偶然だった。線路沿いにプラムの実を集めて行くと、暖房貨車の格子のはまった窓から誰かが呼んだのが聞こえた。顔をあげると見えたのは眼だ。初めは眼だけしか見えなかった。男の子のか女の子のか、黒いキラキラした眼、それから口と舌と唇が、見えた。口を外に突き出して、ただひとつ「ヒーッ」と奇妙な音を発している。コーリカはびっくりして、青みがかった固いプラムを握った手を開いてみせた。「これ?」何かねだっているのは明らかだった。プラム以外に何もないんだ、これに決まっている。
「ヒーッ!ヒーッ!」声が挙り、生気のなかった貨車の中身が突然生き返った。格子に子供たちの手や眼や口が次々はりつき、入れ替わり立ち替わりお互いに押し退け合っているようで、その度に不気味な声のうなりは大きくなり、まるで象のお腹がグーグー鳴っているようだ。
コーリカは飛び退いて、あやうく転びそうになった。その時、武装した兵士がどこからともなく現れた。兵士は拳で車両の板壁をたたいた、強くではなかったが、声はすぐにおさまり、死のような静けさが訪れた。手も消えた。ただ恐怖に満ちた眼だけが残った。

Book_kiniro02 『コーカサスの金色の雲』プリスターフキン(群像社)の印象的な情景。
第二次大戦末期、ソ連はすでにナチス・ドイツのファシストどもを国土から追い払い、戦線はヨーロッパへと移っているが、ここモスクワの孤児院では、子どもたちはほとんど餓死寸前だ。戦争で国は荒廃し、町には孤児があふれている。孤児院に割りあてられたはずのなけなしの配給パンは、当然、孤児院の院長や係官が横領し、子供たちのところまではまわってこない。
10歳そこそこのサーシカとコーリカという双子(?)の兄弟は、パン切り場の保管倉庫を襲おうと地下トンネルを掘るが、この横穴が兵隊に見つかってしまった。このままでは、どっちにしても犯人として挙げられるのは必至だ。ずらからなきゃ。どこへ?
コーカサス、コーカサス。美しい山脈。肥沃な土地。

 巨人のような巌の胸で
 金色雲さん 一夜を過ごし
 夜の明け初めに
 発って行った
 るり色の空で楽しげにきらめきながら

山って見たことないが、たぶん孤児院の建物くらいでかいんだろう。その山と山のあいだにパン切り場はいくらでもあって、鍵だってかかっちゃいないんだ。いくらでも好きなだけパンを食べていい。
「行く。おれたち兄弟。コーカサスへ」
よし、こいつら、コーカサス行きだ。なんせ、年長の奴らコーカサス行きを申し渡すとみんな脱走しやがる。自分から行くなんて感心じゃないか。
幸いコーカサスは恵まれた土地が「敵」の手から解放されつつある。あそこに行きゃあ、おまえらだってたらふく食えるんだ、行け、コーカサスへ!
こうして二人は他の500人の孤児(ヤマイヌども)と列車に乗せられ放逐された。孤児には五日分のパンと食料を与えるよう書類が発行されていたが、もちろん孤児どもにはなんの食料も渡されない。飢え死にとの戦いの長い長い旅がかれらを待っている。
孤児の世話を口実にして軍務を免れ、人口削減のために追い払う孤児の旅のあいだだけの食料さえ横流しする共産党の役人ども。北朝鮮でいまおこっていることと同じだろう。

このまま放っておけば、こいつら飢えて死んじまう。機関士は、田園地帯で列車を緊急停止させる。ヤマイヌどもは勝ちどきをあげて突進し、畑から生の野菜を食えるだけ腹に詰め込む。
「一生に一度ぐらい腹一杯喰ったって、ロシアの損にはならねえよ‥‥」機関士がつぶやく。
すでに衰弱していた子どもたちの胃腸が生の野菜をうまく消化できるわけもなく、そのあとは語るも悲惨な下痢下痢特別列車の誕生だ。やむをえず、一時休息をとらせるために、孤児どもの列車は引き込み線に退避し、ここで数日をつぶす。
冒頭の謎の車両にコーリカが遭遇したのが、ここの駅の待避線であった。

Book_chikai

10歳のコーリカは知らなかった。
コーカサスに行けばなぜたらふく食えるはずなのか。
祖国ソ連が、農民の最良の友スターリンが駆逐している「敵」が誰であるのか。

孤児たちを乗せた列車が南へ南へ向かうのと反対に北へ北へ向かう家畜運搬車が何百何千と編成されていた。
ハッサン・バイエフの『誓い チェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語』(アスペクト)から。

第二次世界大戦が終末に近づくころ、スターリンの少数民族弾圧政策がはじまった。スターリンはチェチェン人が戦後の独立を意図してナチスドイツに協力したと非難し、チェチェン民族全体をカザフスタン、キルギスタン、シベリアへ移住させることを命令した。一九四四年二月二十三日、ロシア内務省軍隊がなんの警告もなくチェチェンの山野に現れると、老齢者や身体の不自由な者を処刑したあと、百万人におよぶチェチェン人を家畜運搬用貨車に詰め込んで、遠い僻地へ移送した。六週間にわたる移送のあいだに、チェチェン民族の心に刻まれている記憶によれば、総移送数の約半分、五十万人が死亡したという。ロシア警察の記録文書によると、この強制移住の人数は全体で六十万人、うち二十万人が移送の途中で死亡したと記されている。
(ニコラス・ダニロフによる序説[解説])

コーリカが聞いた「ヒーッ」は、「水」と意味のチェチェン語であった。水さえ十分には与えられず、車中で男女の別もなくぎゅうぎゅう詰めに立たされ、全員が車中で排便するしかなく、妊婦は出産し、あるいは死産し、死んだ人間は線路脇に投げ捨てられた。

「無人」となったコーカサスの肥沃な土地に、追い払われた人々の家に、ロシアの各地から口減らしで送り込まれた入植者が入った。だが、チェチェン人で強制移送を逃れた人々も少なからずいた。かれらは山岳地帯に逃げ込みゲリラとなってロシアからの入植者を襲った。大人の入植者たちは知っていた。自分たちが他ならぬ侵略者であり、他人の土地や家や財産を奪っていることを。だれだってよほど食い詰めなければ、いつ土民に殺されるか知れないチェチェンなんぞにやってくるものか——。

この『コーカサスの金色の雲』と『誓い』とは、語られる時代はまったく違うが、それにもかかわらず本質的にはなにひとつ変わらない同じ一つの巨大な不正義を、ロシア人の視点だけでもなく、チェチェン人の視点だけでもなく、限りなくクリアに描いている。

チェチェン問題は、これからも国際政治上の大きな火種になるだろう。
ロシアは大きな道義上の負債を負っている。
ほとんど返済不能なほどの。

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2007/09/15

相関図をつくる

Whenwe

ときどきなんだけど、英語の小説を読んでいて登場人物の関係がよく理解できないときには人物のリストをつくる。さらに複雑な場合は単純なリストにとどまらず相関図を自分なりにつくってみる。

これは本当はかなりメンドクサイので、できればやりたくない。

しかし、まあ、すでに読んだ頁を繰って「えっと、どこかに、この人物について説明があったはずなんだけどなあ。ええいどこだっけ、見つからんぞぉ」なんてイライラしてもう一回かなり長く読むはめになるよりは、急がば回れで、最初にこういう登場人物のリストや相関図を用意しておくと、とくに長編小説の場合はずっと読みがはかどるので、いわば読書のテクニックとして、こういうものをつくるのであります。(同じようなことを丸谷才一さんも言っておられます)
日本語の場合は、文章として読み返さなくても、一回読んだところは、頁を一瞥すればだいたい必要な箇所が飛び込んで来るのだが、英語ではそういうわけにはいかないので仕方がないのですね。

ところが、こういうモノゴトの常として、このリストやら相関図づくりはメンドクサイにもかかわらず(というか、たぶんメンドクサイがゆえに)読書そのものより熱が入ってしまうことがある。なんか、楽しいのであります。

アン・タイラーの『Back When We Were Grownups』は、久しぶりに、この相関図づくりにまではまり込んでしまった本でありました。

あ、もちろん本の内容の方も、この作家らしい、あたたかくてほろ苦い、とても面白い小説。
『あのころ、私たちはおとなだった 』(文春文庫)というタイトルで中野恵津子さんが翻訳されているようですね。

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2007/09/11

東子・カウフマン自伝

小さいときから昆虫学者になりたかったこの少女は、将来の準備のために津田塾で英語、英文学をまず学ぶ。人文系の勉強を楽しんだとはいえないが、有益だったと著者は書く。
卒業し、自活するため、上海に渡る。上海市議会の秘書となる。おそらく父親のコネであろう。なんのアテもなく渡航したはずがないからである。その仕事をやめ、ドイツ通信社の仕事につく。まもなく戦争が始まり、上海は日本軍に占領される。著者は軍に睨まれて、スパイ扱いを受ける。明日には逮捕されるという情報を知らされ、逃亡生活に入る。まもなく戦争が終わり、一九四九年、上海からイスラエルに渡る。ヘブライ大学のボーデンハイマー教授のもとで昆虫学を学ぶためだったという。著者はまだ三十二歳である。
これが始めの三章の要約である。読んでいて、実に記述が短いと思う。人文系の人なら、ここまでをすでに波瀾万丈の物語に仕立てるはずである。それをかくも短く要約されると、読者としての私のイマジネーションが、逆に極度に動き出す。

1357946434_38b92905de 『虫取り網をたずさえて—昆虫学者東子・カウフマン自伝』青木聡子訳(ミネルヴァ書房)の解説から。書いているのは養老孟司。6頁ほどのごく短いものだが、なるほど本というのはこういう具合に読んで、こんな風に紹介するものかと感心するが、あらためて一読者がなにか書こうという気がほとんど失せてしまうので困ってしまう。

著者はその名前からもわかるように、ドイツ人の父親と日本人の母親の間に生まれた女性である。1917年、青島のドイツ租界に生まれ、日本で基礎的な教育を受け、戦中は上海で日本軍から「上海のマタハリ」とマークされ、戦後はエルサレムで昆虫学を学び、さらにミュンヘンで博士号を取り、アメリカを生活のベースにして、ガーナ、アラスカ、タンザニア、ニジェール、ナイジェリアなどで昆虫の研究を行い、70歳のときに終の住処としてケニアのナクルを選んだ。2003年逝去。享年83歳。
ずいぶん面白い人生だったのだろう、本書のなかの著者の最後のパラグラフ—。

私は自分がどれくらい生きるのかわかりません。幸運にも私は健康に恵まれ、この健康が続く限り研究を続け、同時に猫と平和に暮らし、静かで澄み切った夜に星を見つめ、魂を天にまで高めるつもりです。幸せに生きてきたので、その時が来たら、幸せにこの世を去るでしょう。流れ星を虫取り網で捕まえて、ちょうど何光年か前、突然この世に生み落ちたときと同じくらい突然に、地球のはるか上の方で消えてしまいさえできたら、どんなに素晴らしいでしょう!

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2007/09/04

出版社のたのしいお仕事

Screenshot_2 あはは、と笑ったあとで、しかし、うーん、と考え込むような話題。
とりあえず、なんにも言わずに、この本のラパーを見ていただきたい。できればクリックして拡大した写真をどうぞ。
絵は「DEATH NOTE」の小畑健。
ええとですね、太宰の人間失格です。念のため。
これが、すごい売れ行きだそうで。やり手の若手の企画がみごとにあたりました、ということらしい。
本の中身?そんなモンなんだっていいんですよ。いまはカバー、カバーで売るんですよ、先輩!

不景気な出版業界の明るい話題として慶賀にたえないが、「いやまあ、君らの時代だ、好きなようにやればいいさ」と言い残し、ヒットを出せずにリストラされた古手がさびしげに社を去る姿が目に見えるようで涙を禁じえない。(笑)
Screenshot_1_2 あ、もっとも、同じ集英社ですが蒼井優ちゃんのナツイチ2007限定カバーは、なかなかよろしい。
言うことに一貫性がないような気もするが、おっさんなんてそんなもんである。

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2007/09/03

短歌研究新人賞、応募作を読む(下)

今回の短歌研究新人賞の選考委員は以下の6名。

 岡井隆
 佐佐木幸綱
 馬場あき子
 高野公彦
 石川不二子
 穂村弘

前回述べたように、約520編の応募作を、作者名などを消した上で、年齢、性別などの偏りを極力排して均等にわけて一次選考を行う。小説の新人賞などの場合は、選考委員が応募作全部を読むわけにはいかないので、下読みを専門にやる人がいるように聞いているが、短歌の場合は、選考委員が分担して全部目を通すということらしい。

計算すると一人の選考委員が87編くらいの作品を読むことになる。なんとなく信頼できる弟子なんかに下読みをさせているんじゃないかなあ、とわたしなどは勘ぐるが、これはあくまで推測。

「短歌研究」の説明によれば、選考委員は一次選考として、自分が分担した応募作の中から、4編を選び、1位から4位までの順位をつけて、第二次選考に上げることになっているそうである。

6人の委員が4人の候補者を出すということは24人が最終選考に進むことになるはずだが、今回は25人が候補となっている。説明をよく読むと一人の委員が5名を推薦したと書かれている。(これについては最後にわたしの考えを書く)

さて今回の応募作のうち最終選考にのこったこれらの25人の作品については、一人を除き、ここでは取り上げない。同時代の短歌のもっとも生き生きとした動きは、このレベルの作品群にあるのだろうなあ、と観察し納得もした、とだけ感想を書いておく。

ということで、わたしは最終選考には惜しくも進めなかった佳作のなかで、これはいいなと思ったものをここで取り上げようと思う。三人、おられる。3首ずつ抜いてみる。

井ノ上法子 平2生 高校生(所属なし)
一瞬が冴えゆく今朝の花冷えの四月は堕ちる夢をよく見る
叶わない夢を知ったよ微笑んで待っても咲かない薔薇の芽を捥ぐ
不器用なわたしのためかいつまでも咲かないあれは誰のひまわり

敷田千枝子 昭11生 主婦(泱・運河)
鎮めかねる心に摘めば山椒の香は指先をきしきしと刺す
散骨を望む方針に変はりなし今日の終はりに一行記す
春菜茹でる厨に平穏なる日々よ還りこよ無傷のこころ伴ひ

深森未青 昭36生 会社員(日月)
社殿なか蝋燭灯は点き消えぬわれはなににも待たれてをらず
放擲の儀式のための暗い部屋青磁の馬が夜ごと訪ひくる
さざめきて高い円柱を立てませうその先端に月を召ぶため

 (円柱:ポール)

上記の最終選考に残った25人のなかで一人だけは選考委員が選考規程(一人4編)をまげて候補に入れたということを上に書いた。少々思うこともあるので、最後にこれについて書いておきたい。この人がそれであるという証拠はなにもないのだが、たぶんこれだろうな、と思える作品がある。
誌面には10首掲載されているが、6首をここで紹介する。

「追憶―広島」
加瀬和男 昭8年生 奈良市 元会社役員(房)
焼き付きし着衣の柄を背に残す女蓮池に死にてゐたりき
溢れきし口いつぱいの黝き血を両掌のなかに吐きこぼしたり
全身の絶える間のなきけいれんに口も歪みて開かずなりぬ
我が走る足にケロイド無き夢の覚めて悔しき思ひ募り来
我が姉の死にしあたりか原爆のドームに近き場所に佇む
原爆の朝人多く死にてゐし蓮池あとに家建ち並ぶ

思うことと言うのは、たいしたことではないのだが、こういう短歌を前にすると、アンドロイドがどうしたこうしたとか、機兵士がなんたらかんたらとか、記憶チップがほおやれほう、というような短歌がどうでもよくなるなあ、ということ。
ただ、これを新人賞の応募作としてもってこられても選考委員は正直困るだろうなあ、と思う。

「空気読め」という言葉には、おおげさに言えばファシズムの響きがある。

しかし、まあ、そういう気分もときどきおこるのも事実で、わたしは、今回の応募作を何百首と通して読んで、正直、こころをゆさぶられたのは、この方の「追憶―広島」だけなのだが、しかし、あのですねえ、ここはそういうのを出されても、ちょっと困るんですよねえ、うーん、という気分もあるのですね。あくまで気分としてであって、その気分についても、いやそういう気分がもしかして問題なのかなあ、という微妙な思いもある。つまり、この方の作品を、あえて最終選考作品のなかに並べるというところが、すでにひとつの批評になっていると言ってもよい。

最終選考に残った人のなかで、この人にだけにはだれも票を投じていない。

わたしの考えでは、おそらく誰かが(岡井さんだとわたしは思うが根拠はない)「これはまあ、今回の新人賞の候補作に入れるのはまずいだろうが、わたしのわがままとして、どうか最終候補作の最後に掲載してほしい」とでも言って頭を下げられたのではないか、と想像する。

そして、そうであろうとなかろうと、この作品を誌上で読む機会が得られたことを、わたしは心からよいことであったと思うのであります。

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2007/09/02

短歌研究新人賞、応募作を読む(上)

今年の短歌研究新人賞は、吉岡太朗氏の「六千万個の風鈴」に決定した。
吉岡氏は昭和61年8月28日生まれ。応募締め切り時点で二十歳。もちろん若い人には違いないが、去年の受賞者、野口あや子さんは十八歳だったし、そもそも、この短歌研究新人賞の前身である短歌研究50首詠の初期の受賞者である寺山修司も当時十八歳だった。

現在、この賞は未発表30首というのが公募条件。今回の応募総数は591編、うち有効数が519編。内訳は男性42%、女性58%とのこと。

「短歌研究」9月号での選考結果発表と作品掲載は次のようなかたちになっている。

1)新人賞      吉岡太朗   30首掲載
2)次席       石橋佳の子  30首掲載
3)次席       浦河奈々   30首掲載
4)上位候補作    川口慈子   19首掲載
5)候補作      3名     12首掲載
6)最終選考通過作品 18名    10首掲載

以上25名が最終選考に残った候補者である。
なお「短歌研究」には、この最終選考まではいかなかった人たちの作品も次のようなかたちで掲載されている。

7)佳作     63名       5首掲載
8)予選通過作品 約350名     2首掲載

ということで今回「短歌研究」に名前が出た人たちは全部で約440人ということになる。
応募総数との関係でみれば、有効応募数約520のうち440人が予選通過というわけで、まあ規定に適った応募さえすれば、85%の人は、少なくとも短歌研究新人賞予選通過者という「肩書き」が得られるということになりますね。
いやこれは、「短歌研究」の雑誌社としての営業手法(懸賞当選などで雑誌に名前を載せると、その人や知人が1冊以上は買ってくれる、というのは昔からの雑誌商売のからくり)を批判しているのではまったくない。むしろ、このやり方をわたしは好意的に見ている。ただ応募者が、この事情をよく知らない人に「わたしもねえ、短歌研究新人賞、予選通過まではなんとか行ったんです」なんてしょうもないはったりをかますのはやめていただきたい。(笑)

さて、この短歌研究新人賞、最終選考にあがった人たちの作品をみれば明らかだが、一首、一首ずつ歌としての美しさ完成度を見るというよりも、まとめて三十首全体で、どんな心的世界を作者がつくりあげているかが競われているように見える。俳句においてもそういう傾向はとくに新人賞などには多少あるようにも思うが、この傾向は短歌のほうにおいてより強い。俳句では新興俳句のときの、「連作」というのはどうもうまくいかないという反省が、いまでも影響しているのかもしれない。違うかもしれない。

だから、たとえば本誌から、下位の作品の中にもいい歌がまだまだ隠れているのではないかという観点で、8)予選通過作品のところを丹念に見ていってもいいのだが、それはあまりよい鑑賞とはならないように思った。
あくまで30首を通して読んで、その作者の狙いがわかる。たまたま選者が抜いた2首だけで、その作者の資質まではとてもわからないと思うからだ
逆に、そうであればこれらの作品2首だけを読んでなんらかの感想を抱くことには、ほんとうは慎重でなければならない。
それを言った上で、しかしわたしの率直な感想を言えば、上記の8)予選通過作品の大半はまったく感心できない。
選者は6名で、応募者を隠して男女、年齢などを極力偏らないようにして均等に分けて、選をしていくらしいが、まあ、わたしだったら、とてもじゃないが出来ない仕事である。なんという徒労、なんという消耗。

ということで、まあ短歌の目利きが選んだ現代短歌とはどんなものかを知るには、おそらく上記の7)佳作から上の88名を見ていけばよいのではないかと思った。
(この項続く)

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2007/09/01

8月に読んだ本

『Harry Potter and the Deathly Hallows』J.K.Rowling(Arthur A. Levine Books/2007)
『刺繍する少女』小川洋子(角川文庫/1999)
『風流べらぼう剣—続 女泣川ものがたり』都筑道夫(文春文庫/1990)
『あなたに不利な証拠として』ローリー・リン ドラモンド/駒月雅子訳(早川書房/2006)
『捕物の話—鳶魚江戸文庫〈1〉』三田村鳶魚(中公文庫/1996)
『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ(早川書房/2006)
『句集 今昔』飯田龍太(立風書房/1981)
『エセー〈1〉』ミシェル・ド モンテーニュ/宮下志朗訳(白水社 /2005)
『至福のとき—莫言中短編集』吉田富夫訳(平凡社/2002)
『嫋々の剣』澤田ふじ子(中公文庫/2007)
『敵討の話 幕府のスパイ政治—鳶魚江戸文庫〈8〉』三田村鳶魚(中公文庫/1997)
『大正デモクラシー—シリーズ日本近現代史〈4〉』成田龍一(岩波新書/2007)
『科学とオカルト』池田清彦(講談社学術文庫/2007)
『打ちのめされるようなすごい本』米原真理(文藝春秋/2006)
『読書の学』吉川幸次郎(ちくま学芸文庫/2007)
『茶と美』柳宗悦(講談社学術文庫/2000)

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8月に見た映画

ケリー・ザ・ギャング(2003)
監督:グレゴール・ジョーダン
出演:ヒース・レジャー、オーランド・ブルーム、ジェフリー・ラッシュ、ナオミ・ワッツ

グローリー・ロード(2006)
監督:ジェームズ・ガートナー
出演:ジョシュ・ルーカス 、デレク・ルーク、ジョン・ヴォイト

リトル・ミス・サンシャイン (2006)
監督:ジョナサン・デイトン 、ヴァレリー・ファリス
出演:グレッグ・キニア 、トニ・コレット 、スティーヴ・カレル 、アラン・アーキン 、ポール・ダノ 、アビゲイル・ブレスリン

オーシャンズ13(2007)
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
出演:ジョージ・クルーニー 、ブラッド・ピット 、マット・デイモン 、アンディ・ガルシア 、ドン・チードル 、エレン・バーキン 、アル・パチーノ 、エリオット・グールド

フラガール(2006)
監督:李相日
出演:蒼井優、松雪泰子、豊川悦司、山崎静代、岸部一徳、富司純子

アークエンジェル(2005)
監督:ジョン・ジョーンズ
出演:ダニエル・クレイグ 、エカテリーナ・レドニコワ

アガサ・クリスティーの奥さまは名探偵 (2005/フランス)
監督:パスカル・トマ
出演:カトリーヌ・フロ 、アンドレ・デュソリエ 、ジュヌヴィエーヴ・ビジョルド

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