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2007/09/23

フクヤマ『アメリカの終わり』

フランシス・フクヤマの『アメリカの終わり』(『America at the Crossroads』)は、邦題は「なんだかなあ」ですが、中身の方はなかなか面白かった。

ネオコンの思想的な系譜をたどりながら、冷戦終結後のアメリカの外交政策を実質的に動かすことができるようになったとき、かれらが、その巨大な力を「善意による覇権」として世界に押し進めようとしたいきさつがなんとなく、等身大の人間の行いとして理解できるような感じがした。

もともとトロツキストで、やがて共産主義の「悪」への嫌悪から激しい反共感情を抱くようになったネオコンというのは従来の右派とはかなり異なるというのはなんとなく腑に落ちる。たとえば冷戦のとき、主流派の右派は「封じ込め」という戦略をとった。今日のネオコンにつながるグループは、そういうプロフェッショナルな冷徹な大人の戦略(ジョージ・ケナンとかキッシンジャーとかをここで想起すればよい)にはあきたらなかった。冷戦時代の外交政策の主流は自らリアリストをもって任じ、ソビエトの体制が「悪の帝国」であるとか、ベルリンの壁を崩壊させて東ヨーロッパを解放すべきだというような「幼稚」な言説をアマチュアっぽいガキの発想として軽蔑していたが、意外にもレーガン政権下で、正しいのはむしろこのアマチュアの言説であることがはっきりした。

冷戦時代の大部分の期間、ネオコンは小さな、蔑まれた少数派であることに慣れてしまっていた。ネオコンの思想の多くが最終的にはレーガン政権によって実行に移されたが、アメリカ外交政策のエスタブリッシュメントである、国務省の官僚機構を動かす人たちや情報活動にあたる諸機関、国防総省、数多くの外交顧問やシンクタンクの専門研究家や学者らは、およそネオコンを無視していた。ネオコンは、ヨーロッパ人からも「単純すぎる道徳論者」や「向こう見ずのカウボーイ」、あるいはそれ以下の者として見下げられるのが通常であった。ネオコンは誰もが常識としていることを打ち捨て、可能性すらまったく想定できないと皆が思うような打開策を目指していた(ダブル・ゼロやベルリンの壁を崩すというのがそれだ)。
共産主義の突然の崩壊で、そうした考え方の多くが正しかったということになり、一九八九年以降は主流派として、当然の存在と見られるようになった。

フクヤマはネオコンには四つの原則があるという。

  1. 体制(レジーム)の性格が政治の中心的な問題であるという考え方
  2. アメリカ国家の力は道義的な目的のために国際問題に対して使われるべきであるという国際主義
  3. 大胆な社会改造計画に対する不信
  4. 安全保障や正義の実現における国際法・国際機関への懐疑

なんとなく、のび太クンが突然ドラえもんの力で地球の危機を救うようになったオハナシみたいな感もあるが、わたし個人はわりとこれらの原則には共感できる。(とくに3については同意見)フクヤマ自身も、もちろんネオコンのイデオローグとみなされていたわけだから、この原則そのものについて批判しているわけではない。本書でフクヤマは、しかしブッシュ政権の9・11以降の対テロ戦争への傾斜についてネオコンはその対応を誤ったと見ている。
とくに冷戦終結と「棚からぼた餅」的な勝利が、どうもかれらに脅威を過大にみる傾向をあたえたようだと考えている。

共産主義崩壊後のネオコンは、アメリカが直面する脅威の程度を過大評価しがちだった。冷戦時代、ネオコンがソ連の脅威について、軍事面でも道義的悪という面でも悲観的に見たのは正しかった(と私は思う)。だが、ソ連が崩壊し、アメリカが唯一の超大国となった後も、多くのネオコンが世界にはまだ危険だが過小評価されている脅威がいくつも存在すると考えた。

たまたまいまちびちびと読み進めている新訳の「エセー」でモンテーニュがこんなことを言っている箇所に出くわした。ああ、これだなとおかしかった。

川を見たことがない人間は、初めてこれを目にして、大海原ではないかと考えた。われわれは、自分が知っているもののうちで最大のものを、その種類のなかで、自然が作りあげた極限のものだと判断しがちなのである。
宮下志朗訳『エセー』
第26章「真偽の判断を、われわれの能力に委ねるのは愚かである」より

フクヤマの見立ては以下のような発言に集約されていると思える。
「なーんだ、後出しジャンケンじゃないっすか」という非難もあるそうですが。(笑)

アメリカは軍事的優位性を利用して、世界の戦力的に重要な地域に「善意による覇権」を打ち立てるべきだ―。一九九〇年代の後半、多くのネオコンはそう主張した。イラク戦争では、ブッシュ政権は偏狭な自己利益のために行動しているのではなく、世界のすべてが益を得る「全地球規模における公益」を提供していると考えていた。自分たちの善意に確信を持っていたため、戦争に対し、世界から激しく否定的な反応が出るとは、まず予想もしていなかった。

「第四次世界大戦」だとか「テロに対する世界戦争」だとか、そんなことを言うのはもうやめたほうがいい。確かに、われわれは現在、アフガニスタンやイラクで聖戦を掲げる国際的勢力と激しいゲリラ戦を戦っており、この戦いに負けるわけにはいかない。しかし、この戦いを、かつての世界大戦や冷戦に匹敵する地球規模の大きな戦争だなどと考えるとすれば、それはアラブ人世界・イスラム世界の大部分を敵に回しているかのようであり、明らかに問題の範囲をひろげすぎた見方である。

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