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2007年10月

2007/10/25

月見る月は多けれど

この夕刻、月を見あげて、おや今日の月はでかいな、と思ったあなたはなかなか鋭い。

2007_1025

7時過ぎに会社を出たとき、大阪の空に大きな満月がかかっていた。
ああ、そういえば、今日の月は今年一番のでかい月だと、SpaceWeather. comのニューズ配信にあったっけと思い出した。

The Moon's orbit is an ellipse with one side 30,000 miles closer to Earth than the other. The full Moon of Oct. 25-26 is located on the near side, making it appear as much as 14% bigger and 30% brighter than lesser full Moons we've seen earlier in 2007.

そう思って見上げるせいかどうか、たしかにでかい—ような気がした。
みなさんのところも、もし晴れていたら今日明日の月をどうぞお見逃しなく。

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尾張の杜国をめぐって(下)

さて、女房殺しで打首となった坪井庄八と、芭蕉の愛弟子杜国すなわち坪井庄兵衛が、兄弟ではないかという疑いが「鸚鵡籠中記」から浮かび上がった、というのが前回までのオハナシ。
これに気づいたのは最初に申し上げた国文学者の大磯義雄さんですが、これは興奮するでしょうね。
当然、裏付調査に熱が入る。

まず疑問となるのが、「鸚鵡籠中記」の坪井庄八のもとに嫁した女房は、「近江守家来野々村喜蔵の女」となっているので、あきらかに武士の息女である。縁組としては相手も武家であるのが自然である。だからもし尾張藩の家中に坪井姓があれば、これは町代でもあった杜国・坪井庄兵衛とは無関係であろう。

坪井庄八の父隠斎は「清須越よりみそのの住」という小書があるので、大磯さんがまずあたったのは、清須城主松平忠吉の家臣が下級武士まで載っている『清須分限帳』。ここには坪井姓なし。
つぎに尾張藩士の家系を詳細に記した『士林泝洄』をあたる。同じく坪井姓なし。
享保頃あるいはややそれより時代の下ると思われる『尾張藩名古屋敷鑑』(写本)登載の武士と見なされる者約1600名をすべて見る。坪井姓なし。
尾張藩における諸士の刃傷を記録した『紅葉集』およびその補遺『柿の落葉』にも、坪井姓の記録は見出せない。
一方、御園町というのは富裕な商人が居住する地域であり、現に杜国・坪井庄兵衛もここの町代を務めていたことは先に述べました。

以上の調査に基づき大磯さんの出した結論は、坪井庄八は武士ではなく町人である、というもの。これは肯けますね。
おそらく、野々村喜蔵は言葉を発することのできない娘を不憫に思い、かなりの持参金と心をゆるせる家老をつけて、格式の高い町人に嫁がせたのではないか。そのような例もあると大磯さんの考証がありますが、これは煩瑣なれば省略。

以上をふまえて、大磯さんの推理―

これを試みに杜国の追放と関係づけて解してみよう。杜国が家督を相続し、庄八は御園町の家に同居していた。杜国は米問屋の主人として家業にたずさわる一方、名古屋の富家に生育した者の常として趣味の道を楽しみ、庄八も遊芸にこって太鼓などをよく打ち、藩主が御能を観覧する際など格式高い町人として地方に加わって出演することを許されていた。ところが空米事件がもち上がって杜国が追放になり、家屋敷も没収されたので、庄八も追い出されることになり、続けて御園町界隈に住むことも憚られるので、郊外ともいうべき出来町に借家を求めて移住した。このように解すれば庄八の太鼓も零落も出来町住も一応解釈がつくのである。
(中略)
そこでわたしの想像であるが、杜国が追放に処せられたとき、併せて闕所になり、家屋敷のみならず財産も没収されたに違いない。杜国は三河の畑村に屏居、庄八は出来町に移住、生活が楽ではない。いままでの大金持ちの生活に慣れた庄八としては何としても金が欲しい。その上、町人の身分の悲哀を身にしみて感じたに相違ない。そこで金に目がくらみ、また武士の娘ということで口のきけぬ女を女房とした。しかし家老付の女房では何かと悩みが多く、ついに乱心して身の破滅を招いた・・・・

わたしはこれはかなりいけるのではないかと思うのですが、その後(大磯さんのこの論文の発表は1970年3月「連歌俳諧研究」)どのように評価されているのかはまったく不案内であります。ご存知の方はご教示ください。

貞享元年(1684)、芭蕉が「冬の日」五歌仙を興行し蕉風を確立したとき、杜国はその連衆であった。二十九歳か三十歳。家は米商で裕福、町代を勤めるほどの人望、力量もそなえた男であった。まさに人生の絶頂期といってもよい。
ところが、わずか一年後、空米事件によって杜国はすべてを失い追放された。さらに二年後、今度は弟が殺人事件をひきおこし打首になってしまった。杜国の心中はいかばかりであろう。師、芭蕉と巻いた「冬の日」、あの時代こそが、杜国の人生の輝かしい記憶ではなかったか。
おれの人生は終ってしまった。おれはもう死んでいるんだ。おれは生きるしかばねにすぎない。杜国ならずともこんな風に思うのではないか。
そこに自分を尋ねてきてくれたのが芭蕉である。

  鷹一つ見付てうれしいらご崎

このような文脈において、芭蕉と杜国をみるとき、「嵯峨日記」の「夢に杜國が事をいひ出して、悌泣して覚ム」という記述もまた、しみじみと味わい深いのでありますね。
なにが、芭蕉と杜国クンのラブラブ旅行だ。バカモン。(笑)

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2007/10/24

尾張の杜国をめぐって(中)

今日の話は昨日の続き。
鸚鵡籠中記の貞享四年(1687)四月十三日と同年六月十一日の条にはなにが書かれていたのか。

まず、四月十三日。

出来町坪井庄八乱心、女房(近江守家来野々村喜蔵の女にて新左衛門姉なり)と村田角兵衛(野々村がおとな也。娘に付て庄八が処に居せり)を切殺。召仕女にも手負す。庄八は被召捕籠舎。庄八、父は隠斎とて清須越よりみそのの住なり。大金持なり。後零落す。庄八太鼓等打、御前へも出。喜蔵が女唖也。故金を付て庄八に嫁す。)

さほど読みにくいところはありませんが、整理しますと—

  • 出来町の坪井庄八という者が乱心し女房と村田角兵衛を斬り殺し、召使いの女にも怪我をさせた。
  • 坪井庄八の女房というのは、近江守の家来で野々村喜蔵という者の娘であり、新左衛門の姉である。
  • 村田角兵衛は野々村家の家老(おとな)である。野々村の娘の付き人として庄八の家に居していた。
  • 庄八は召し捕られ、牢に入れられた。
  • 庄八の父親は隠斎という号をもち、清須越より御園町に住んでいた。もともとは大金持ちだったが、のちに零落した。
  • 庄八は太鼓などもたしなみ、藩主の御前でも御能の地方(じかた)として出演をしたことがあるような人物であった。
  • 殺された野々村喜蔵の娘は唖者であったので、持参金をつけて庄八のところに嫁したものである。

  という内容であります。なおカッコ内は原本では小書二行になっている由。

六月十一日の該当の条は短く、

坪井庄八打首に成り、尸は親類へ被下。

「尸」は「し」または「かばね」と読むのでしょう。いずれにしても、坪井庄八が処刑されその屍は親類へ引き渡されたという内容であります。

さて、普通の人にとっては、今日の三面記事のような事件に過ぎませんが、なぜ俳諧研究の国文学者がおもわず目をむいたのか。それにはもっともな理由があります。

「俳文学大辞典」(角川書店)から杜国の項目の一部を転記します。

杜国(とこく)俳諧作者。?~元禄三(一六九〇)・三・二〇。享年三〇余か。本名、坪井庄兵衛。尾張国名古屋御園町の町代を務めた富裕な米商。早くより先輩の荷兮らと同じく一雪系の貞門俳諧や江戸談林俳諧に遊んだと思われるが、初期の俳歴は未詳。貞享元年(一六八四)冬、名古屋に立ち寄った芭蕉を迎え、野水、荷兮らとともに『冬の日』五歌仙を興行し蕉風草創に参画、初めてその名が顕れる。翌年八月、延米商いの罪に問われ領内追放となり、三河国保美村に隠棲。(以下略)

つまり、この杜国についての基本的な知識をもっている人が、鸚鵡籠中記の貞享四年の事件の記事を読むと、「おいおい、ちょっとまってくれ」となるのは無理もない。

乱心して女房とその付き人を切り殺したのは坪井庄八という男。杜国の本名は坪井庄兵衛ですから同姓の上に、名前の上の一文字が共通です。しかも、ふたりとももともと尾張国名古屋御園町の富豪の家柄である。時代もぴったりとあう。

杜国が空米事件で追放の刑に処せられたのが貞享二年八月十九日、庄八の殺人事件が貞享四年四月十三日、処刑が六月十一日、芭蕉が杜国を伊良胡に見舞ったのが、その十一月中旬である。すなわち、時代的に無理がなく、両者が兄弟であって差し支えない。
『芭蕉と蕉門俳人』大磯義雄

少々長くなったので、結論は次回に持ち越し。

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2007/10/23

尾張の杜国をめぐって(上)

 鷹一つ見付てうれしいらご崎  芭蕉

芭蕉、四十四歳、『笈の小文』で愛弟子杜国(とこく)との再会を詠んだ句であります。
うーん、獺亭さん、もしかして芭蕉の男色についての話題ですか、そんなのもう聞きあきましたよ、と言う声が聞こえるような気がする。(笑)
いかにもごもっともで、『笈の小文』の旅で万菊丸と名を変えて吉野の旅に同行した杜国が、芭蕉と衆道の関係にあったというのは別に目新しい説ではない。

え、そんなの聞いたことがない、なんて方がもしいらっしゃれば、たとえば、こちらの「俳聖・松尾芭蕉の純粋な純粋な恋」という記事などを読みいただくと現代のゲイのみなさんからみた美しいラブストーリーの構図が見えて面白いかもしれない。

まあ、わたしはこの作者の視点は、読者の興味を惹くためとはいえ、まったく感心しませんけれどもね。
芭蕉と杜国はたしかに衆道関係にあったと思いますが、この旅が二人のハネムーンのようなものであったとはちと考えにくいようですよ、というのが実は今回のオハナシなんであります。上下二回くらいに分けて書こうと思っとります。

元ネタは『芭蕉と蕉門俳人』大磯義雄(八木書店/1997)に収録された「杜国関係の資料か‐『鸚鵡籠中記』の一記事」という短い論文。

「鸚鵡籠中記」は尾張徳川家の御畳奉行、朝日重章の数十年にわたる詳細な日記です。
この朝日さん、さほど身分の高い役職ではなかったようですが、それだけに市井の噂話などにもよく通じておられた。筆まめで好奇心旺盛、情報通ということで、その日記は世上の出来事やらゴシップが盛り沢山の元禄期の貴重な資料となりました。

しかし、内容の一部に生類憐愍令への批判があったり、藩主一族の不名誉な記事などもあったために、ながらく尾張藩に秘蔵とされ、その全文が一般に公開されたのは1969年、名古屋市教育委員会が刊行した「名古屋叢書」の第9巻から第12巻がそれであった。ただし、これはおそらく原本の印影本のことだと思われますので、機会があったとしてもわたしなどには読めないものと思います。

神坂次郎が『元禄御畳奉行の日記』(中公新書)という本を出していますが、半分ほど読んで面白くなくて放り出した記憶あり。(笑)まあ、若いときだったので、いま読むとまた違った感想を抱くでしょうな。

さて、この「鸚鵡籠中記」の貞享四年(1687)四月十三日と同年六月十一日の条に、大磯義雄さんという国文学者が、おもわず身を乗り出すような記事があった—というところで、以下次号。

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2007/10/21

にんにんでござる

ウェブ版のニューヨークタイムズには、MOST POPULARというコーナーがあって、その日一番よく読まれた記事のランキングが出ている。
今日の一番人気は東京発。

Fearing Crime, Japanese Wear the Hiding Place

隠れ家を「着る」ってなんのこっちゃと記事を見たら、思わず、あははと笑ってしまうようなこの写真。

2007_1021_1

ツキオカ・アヤさん(29)デザインの自動販売機カモフラージュ服であります。スカートにこの仕掛けが仕組まれているのだそうな。写真拡大すると手前の自動販売機からつま先が覗いているのがよくみえるでしょ。リンク先のページにはこの変身過程の写真やその他の変身グッズもあって大笑いできますが、なんだかなあ・・・(笑)

暗い夜道の帰り道、いざというときの隠れ蓑。もう知らない人に追いかけられても大丈夫、ってホントかね?いや、もちろんこんなもん役に立たないことは、作ってる方も承知の上なんだけど、しれっとこういうアイデア(もちろんオリジナルは忍びの道具ですが)をホントにしちゃうところが、いかにも日本人だよなあ、なんて内容の記事であります。
なかなか手の込んだ意地の悪い記事でありますが、それでもやはり笑ってしまう。

ちょっと前の「 ニューズウィーク(日本版)」に東京特派員の告白というのが載っていて、日本の紹介記事は、かならず本国のデスクがちょっと笑わせるような味付けを求めてくる、というのがありました。真面目な日本の政治経済の分析なんかいらんよ、そんなんより、こっちが読みたいのは、ゲイシャ、スモー、アニメ、オタク、チカンのサラリーマンなんて記事なんだから、そこんとこよろしく、というのがもう疲れちゃうよ、というのであったが、笑っていいのか、同情した方がいいのか、はたまたいっそ怒るべきなのか、複雑な感想を抱いたものであります。

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2007/10/15

闇の夜は

   闇の夜は吉原ばかり月夜哉

『江戸俳諧にしひがし』飯島耕一・加藤郁乎(みすず書房)のなかで、其角のこの句について、加藤さんが数頁にわたって語っているのだが、やや不審な点があるので、以下、覚えとして。

其角は寛文元年(一六六一)の生まれだから明暦三年(一六五七)の振袖火事に全焼した元吉原を知る由もない。この句は芝居や戯作ほかに採られるなどして俳諧以外でもひろく知れわたっているが従来の解釈の大方は闇の夜でも吉原ばかりは明るく華やいだ月夜のような不夜城だという意味にのみ受け取っている。それはそれでよいが、高木蒼梧『其角俳句新釈』大正十四年刊は、吉原は明暦三年(一六五七)から夜間の営業が許されたとし、延宝、天和のころになって散茶つまり中等の女郎が沢山できて夜店を張るので「夜も自然明るくなったのであらう。それを珍しいことに見たので、闇の夜でも吉原だけは月夜である、と云ったのであると評釈した。
(中略)
ところで月夜と見紛うばかりの吉原の明るさは鰯から採った魚油による灯火照明だったと鳶魚の一書により教えられた。上方の人が見ると仰天するほど明るく見えたので其角もいささか江戸自慢の気味をこめてこの句を詠んだらしいと言っているが、これは俳文学者の誰もふれずだった新見というものだろう。
加藤郁乎「隣人其角」
『江戸俳諧にしひがし』p.132

後半の、吉原の夜間照明は鰯の魚油の灯火であったというのは、長辻象平の『元禄いわし侍』(講談社)を読むとよくわかる。これについてはとても面白い話なのだが、長くなるので今回はとりあえずパス。なお、この本はオススメです。

さて、わたしが加藤さんの文章を不審とするのは、この発句の鑑賞として、「従来の解釈の大方は闇の夜でも吉原ばかりは明るく華やいだ月夜のような不夜城だという意味にのみ受け取っている。それはそれでよい」としている点である。

たとえば、この発句については、次のような紹介がある。

この句は、夜間営業をしている吉原の明るさを詠んだもので、闇夜でも吉原は月夜のようである、といった趣向だろう。放蕩児である其角らしい句である。
しかし、そう解釈するのは「闇の夜は」で切って読むからで、「闇の夜は吉原ばかり」で切って、「月夜かな」と読むと意味が逆になる。この世は月夜だが、吉原は暗黒の夜だ、の意となり、これは言葉遊戯の「聞き句」といって、俳句の手法である。一つの句に意味が正反対になる仕掛けをするのが其角の腕で、この手は『新古今和歌集』よりの和歌の伝統でもある。古典落語の「芝浜」にもこの句が出てくるから、昔はよく知られていた。
嵐山光三郎『悪党芭蕉』

つまり、切れがスイッチのような働きをして、どこで切るかによって、空想の中で江戸の町全体が闇に沈んだり、逆に煌煌と月に照らされたりする、その機知を味わうのがこの句の醍醐味だと言うことだろう。
わたし自身、そういう一種のことばのマジックとしてこの句を頭の中で唱えては、ぱちん闇夜、ぱちん月夜と映像や意味が、一瞬で反転するのを面白がっていたのであります。

ところが、加藤さんは本書の中で、前者の情景の意味にのみ受け取るのが大方の読み方で、それはそれでよいとおっしゃるわけです。
「大方は闇の夜でも吉原ばかりは明るく華やいだ月夜のような不夜城だという意味にのみ受け取っている」としているのは、当然、別の解釈があることは知っているが、という含みがあるわけですから、ここで加藤さんはあえて、そんな落語家のような読み方はおれはしないよ、とおっしゃっているように思えます。

不審というのはここのことで、たしかに切れによって意味がかわってしまうのは駄目だという考え方をとる人もおられるようですが、はたして加藤郁乎ほどの人が—現代俳句のちまちましたお利口さん風の偽善を嫌う俳人が、そういうけちなことをおっしゃるだろうか。

やはりこの句は、其角が、どうだい、この「切れスイッチ」の利き。いいだろ。わっははは、という感じのお遊びをしているとわたしは思うのですけれど。

ま、それはダメよ、と加藤郁乎は言っているのでありましょうね。さて、なぜだろう。

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2007/10/10

良寛詩集

図書館で『良寛詩集』入矢義高訳註(東洋文庫)をぱらぱとめくり、気に入ったものをいくつかノートに書き写す。
ようやく秋の訪れを実感する今日この頃でありますね。

 粛々天気清
 哀々鴻雁飛
 草々日西頽
 浙々風衣吹
 我亦従茲去
 寒々掩柴扉

 粛々として天気清く
 哀々として鴻雁飛ぶ
 草々として日は西に頽(くず)れ
 浙々として風は衣を吹く
 我も亦た茲(ここ)より去り
 寒々として柴扉を掩(とざ)す

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2007/10/08

桂信子とその時代

伊丹市にある柿衛文庫で「女性俳句の世界—桂信子とその時代」という特別展をやっている。

女性俳人として常に第一線で活躍した、桂信子が平成十六年十二月十六日に没し、所蔵の近現代の俳句史料が、翌十七年十一月三日をもって柿衛文庫に寄贈されました。
その中には、大阪空襲の際に桂信子が自ら防空壕へもって入って難を逃れた、第一句集『月光抄』のもととなった句槁、また山口誓子の「激浪」を綴った帳面など、貴重な資料が含まれています。
本展覧会では、桂信子の句帳・原稿・色紙や句集をはじめ、桂信子にあてた橋本多佳子や飯田龍太らの手紙や葉書などの資料を中心に、明治・大正・昭和の時代に生きた女性俳人にスポットをあて紹介します。  
   出品一覧の「ごあいさつ」より

2007_1008 たいへんよくまとめられた展覧会で感心した。
いろいろな資料は「へえ」と思わず手にとってみたくなるのだが、いかんせんガラスケースの向こうにあってもどかしいような思いにかられる。たとえば「旗艦」の第一号だとか、「火山系」第一号、「天狼」第一号なんてのは、目録によればすべて俳句文学館の所蔵のようだが、保存状態もよいように見受けた。

上記の「ごあいさつ」にある橋本多佳子筆の桂信子宛書簡は、なんという紙かわたしは書にはうといのでよくわからないが、特別の便箋に達筆で書かれたもので、もちろん美しいものであるが、同時に平畑静塔が多佳子をさして、彼女の俳句には「ヴァニティ」があるなんて意地の悪いことを言ったことなんかも連想しておかしかった。桂信子に出した私信には違いないが、どうも第三者の目を意識したような豪華さがあるように少なくともわたしの目には見える。まあ、やはり男というのは美人で才女という存在にはきびしいのかもしれない。(笑)

なかでも一番、興味深かったのは、高柳重信からの葉書(S23.4.10)とこれに対する桂信子の「返信」である。近畿車両株式会社(桂は昭和21年31歳でこの会社の秘書に雇われた)のうすぺっらな社内便箋を使用し、一葉の横書きの用紙を縦書きにして、見方によれば走り書きのようなあんばいで書かれている。

わたしはあまり深く考えずに、最初この桂信子の「返信」を実際のものと考えて、「あれま、ずいぶん乱雑な手紙だなあ」と思ったのだが、もちろんこれは下書きか、または自分用の控えである。自分の送った手紙は普通は手元に戻ってはこない。
というわけで、その雑な体裁からも重信宛に送られた実際の手紙ではありえないが、下書きかそれとも控えか。わたしは、おそらく、下書きではなくて控えであろうと思った。目録でも「桂信子筆高柳重信あて返信の控え」となっている。昭和23年当時には、控えはゼロックスでというわけにはいかなかった。

なぜ、これを控えだと思うかというのは、文面の内容に関わる。

残念ながら正確な引用はできないのだが、これは高柳の葉書が、桂信子の俳句観を批判するような内容だったので、これに対する反駁というか、抗議といった内容なんだなあ。「あなたはわたしを浅薄だなどとおっしゃまいすが、わたしはそんなことをおっしゃるあなたのほうがよっぽど浅薄だと思います」(記憶なので不正確)なんて感じの文面である。
やあ、怒ってる、怒ってる、と思わず吹き出してしまった。

たぶん、そういう内容だから、どんなことを相手に書いて送ったのか、自分用にも控えをつくっておこうと思ったのだろうし、やがてそういうことがあったのが自分でもおかしくて、なつかしくて、捨てずに手元に高柳の葉書とあわせて保存しておられたのでないでしょうか。

柿衛文庫の柿衛は「かきもり」と読みます。おなじ建物内に伊丹市立美術館があり21日まで「銅版画の巨匠・長谷川潔展—神秘なる黒と白」を開催中。この長谷川潔展がまた結構なものでした。

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2007/10/05

なんぼ英語がペラペラかて

前回のお話の田中訪中と日中国交回復は1972年9月のできごとですが、日本の親分のアメリカのほうはこれより七ヶ月前の2月21日にニクソン大統領が訪中を果たしている。この歴史的な訪中のお膳立てを隠密外交で見事に仕上げたのがキッシンジャー国務長官ということになるわけですが、そのときに毛沢東の英語通訳であったのが前回出てきたナンシー・タンこと唐聞生である。

さて今回のお話はニクソン訪中よりさらに一年ちょっと前のこと。
1970年12月18日、『中国の赤い星』で一躍名を高めたエドガー・スノーが毛沢東に会見し、その模様を「ライフ」誌に掲載した。まあ、これもニクソン訪中の露払い的な役として米中双方に選ばれたという含みは当然あったのでしょう。
スノーは中国語もある程度できるはずですが、このときは英語でインタビューした。当然、唐聞生が通訳であった。
このインタビューを朝日新聞が買い取って1971年4月に六回にわたって独占掲載したのだそうです。
そのなかにこんな一節がある。

主席は丁重に私を送り出しながら、自分は複雑な人間ではなく、実はとても単純な人間なのだと語った。いわば、破れガサを片手に歩む孤独な修行僧にすぎないのだと・・・・・。

いやカッコいいですね。1970年といえば、まだ文化大革命のさなかです。いまでこそ、この時代をよく言う人はまずいないでしょうが、この時代は、まだまだ西側諸国でも毛沢東に対しては個人崇拝というほどではなくとも、漠然と偉人というイメージをもつ人間は珍くなかった。
ここで簡潔に描写される毛沢東の姿はなんだか南画の中の枯淡な僧侶のような印象。

こういう、別れ際の一言をそのインタビュー全体の基調にしてしまうやり方は、おそらく英米の記者の有名人探訪記の定石でありますね。
例をあげましょう。

わたしを見送るためにフロイトは、山の別荘から街へと通じる石段を、妻と娘と一緒に降りてきた。さよならの手を振ったとき、彼は悲しく寂しそうに見えた。
「わたしをペシミストに見えるようには書かないでください」と最後の握手を交わしたあと、彼は言った。
「わたしは世界を軽蔑してはいません。世界に対して軽蔑を表明することは、聞いてもらいたい褒めてもらいたいために世界に擦り寄る別の方法に過ぎません。わたしはペシミストではありません。子供たちがいて、妻がいて、花が咲いている間は」
『インタヴューズ』
ジョージ・シルベスター・ヴィーレック『偉人瞥見』(1930)より
岸田秀訳

なんだか、これでぐっとフロイトがいい人に見えるでしょ。
いやフロイトはこの際どうでもいい。問題は毛沢東である。この、自分は「いわば破れガサを片手に歩む孤独な修行僧にすぎない」発言は、じつにうまく効いています。ほとんど高潔な人格者のイメージをこの一言によってつくりあげている。

ところがですね、これ、まったくの勘違いだというのです。大間違いもいいとこ。

このとき毛沢東が言ったのは「和尚打傘」というものでありました。
これを唐聞生は「いわば僧が傘をさしているようなもの」と英語に直訳してスノーに返し、これをまたスノーはえらく哲学的に解釈して上記のような別れ際の言葉に仕立てた、ト。

「和尚打傘」というのは、じつはなぞなぞの前半で、これは普通の中国人なら誰だって知っている言葉なんだそうです。「和尚打傘」とくれば省略された後半は「無法無天」に決まっている。意味はメチャクチャやりほうだい。

坊主が傘をさしているのだから「無髪無天」。すなわち、坊主は頭を剃っているから無髪、傘をさして空がかくれたから無天。髪と法は、どちらもほぼ同音の「フア」なので、和尚打傘といえば無法無天とみんな面白がって言い慣わす。法律も無視するし、天理(道徳)も無視する。ムチャクチャやりほうだい。

日本語でもそんな言葉ってあるかなあ、としばらく考えたが、いいのは思いつかない。ちょっとくるしいが―
「うちの親方がどんな人かって?まあ、屋根屋のふんどし、カエルのしょんべん」
「ははは、大人物なのね」
なんてところかなあ。

つまり毛沢東のほうは、おれは単純な人間なんだよ。ムチャクチャやりたいほうだいやってきただけさ、というだけのことであった。ぜんぜん違うじゃん。(笑)

唐聞生という人は中国語のサイトを少々眺めると(読んだわけではないよ)1943年生まれのようですから、このとき27歳くらいでしょうか。英語はぺらぺら(ために毛沢東は彼女のことを「アメリカ人」とからかって呼んでいたことを前回紹介しました)だったのでしょうが、いかんせん下世話な庶民の生きのいい中国語を聞いて育ったわけではなかったのか、「和尚打傘」を意訳せず、よくわからないまま、スノーに伝えたものと思われます。
なんぼ、英語がしゃべれても、これではダメでありますな。
ま、怪我の功名で、毛沢東の神秘的なイメージ形成には役立ったのかもしれません。

今回のネタは高島俊男さんの『お言葉ですが・・・(7)漢字語源の筋ちがい』に収められた「孔子様の引越」から。小生、目下、高島先生マイブーム。(笑)
なお、わたしは和尚打傘、無法無天を単純になぞなぞと書いていますが、こういう言葉は「歇後語(けつごご)」と言うのだそうです。くわしくは、ホンモノの高島先生の本をどうぞお読みくださいませ。

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2007/10/04

女の同志が不満でね

時は1972年9月27日の夜といいますから今からちょうど35年ばかり昔。ところは北京の最高指導者が執務する中南海―といえば、ああ日中国交正常化の話かね、と勘のいい方はお分かりになるだろう。

この夜、毛沢東の書斎に招き入れられたのは、田中角栄首相、大平正芳外相、二階堂進官房長官である。
中国側の出席者は毛沢東主席のほかに周恩来総理、姫鵬飛外相、廖承志中日友好協会会長であった。

歴史的な「共同声明」の調印は、翌々日の9月29日ですから、この夜の政治的な重要さは想像にあまりある。このとき日本側の事務方の出席はなかったと伝えられる。事務方は共同声明の文言について最後の詰めを行っていた。
(以下は、「人民中国」の特集(横堀克己)と、21世紀中国総研「田中角栄の迷惑、毛沢東の迷惑、昭和天皇の迷惑」(矢吹晋)を参考にいたしました)

会見も終わりに近くなって、毛沢東がふと思い出したように、「添了麻煩」の問題はどうなったのか、と言い出した。
これは田中首相が中国訪問の初日の歓迎会の席上で「過去数十年にわたって日中関係は、遺憾ながら、不幸な経過をたどってまいりました。この間、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私はあらためて深い反省の念を表明するものであります」と演説したのだが、この中の「多大のご迷惑をおかけした」という表現を、日本側の通訳が「添了麻煩」と訳したことが、波紋をよび、少なからぬ問題となっていたのであります。

わたしは中国語の細かな点まではもちろんわからないが、「麻煩」(マーファン)というのは初級の会話でもよく出てくる言葉であることは知っている。
この表現は、女性のスカートにあやまって水をこぼしてしまったというくらいの迷惑をあらわすのに手ごろな表現であって、とても日本の軍部がおこなった大陸での非道を形容するような言葉ではない。「迷惑とはなんだ迷惑とは」てな感じでありましょうか。中国の態度は硬化した。

この表現をめぐって、いや日本語の「迷惑」は中国語の「麻煩」ではなくて、反省ともう二度としないという謝罪のニュアンスがこもっているんだとかなんとか、いろいろやり取りがあって、結局表現は中国側の受入れられるところまで修正されたのだそうです。

もちろん毛沢東はそのあたりのことは逐一知っていて、ああ、そういえばあれはどうなったかね、なんてとぼけたものでしょう。
そしてそのときに、だしにつかったのが、若い通訳の女性たちであった。

「なにしろ一部の女性の同志が不満なのですよ。とわりけ、あのアメリカ人はニクソンを代表して話すもんでね」

そう言って毛沢東は唐聞生を指した、と言います。(唐聞生はアメリカからの「帰国子女」で毛沢東の英語通訳であった。英語ではナンシー・タンという。この人のことは、わたしも『毛沢東秘録』か『キッシンジャー回顧録』かほかの中国現代史関係の本の中で何回かみかけたことがあるような気がする。名前に覚えがあるのですね。)

これはなんとなく、雰囲気がわかりますね。

なぁに、わたしたちはもういいのですがね、どうも、こういう女の子連中というのは、これでなかなか強硬でしてね、わかるでしょう、てな感じでしょうか。
こういうのは、われわれの日常でもよくやりますね。
じつは若い女性が目を光らせているもんだから、心ならずも、あなたがたに無理を強いるので申し訳ないね、でもまあ、ほら女にゃ逆らえんでしょ、といった冗談めいた場の演出。若い女をだしにして男同士を一種の「共犯関係」でなごませるわけですな。

さて、この唐聞生の通訳にまつわるお話。次回に続く。

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2007/10/02

野中亮介さんの俳句

「俳壇」10月号にリレー競詠として野中亮介という方の作品「白木柱」が載っている。へえ、これいいじゃないかと思った。
ただし、わたしの見るところ、偶然かもしれないが、前半に佳い句が集まっていて、うまくこの人の頁に目がとまるようになったのだと思う。後半の句から始まっていたら見落としていたかもしれない。

こんな句だ。

  空海の筆勢夏に入りにけり
  山々も胡座をかけり冷し酒
  夕立が馬穴の尻を打ち騒ぐ
  分校の廊下走るな羽抜鶏
  でぼちんの瓜盗人でありつるよ
  柳家も三遊亭もどぜう鍋
  雨乞の幣のもつとも日焼けしぬ

作者は「野中亮介(馬醉木)」となっていて、お名前は「りょうすけ」とお読みするのだろうと思ったが、現代俳句協会の作者データベースによれば「きょうすけ」というよみがながついている。こちらには「苗代と死者を隔つる白襖」という句をあげてあるだけで、生年、句集名などの情報はない。

一方、ウェブ上の「俳句人名辞典」によれば
野中亮介(のなか・りょうすけ)1958(昭和33)・3・30−・「馬酔木(あしび)」「花鶏」・『風の木』・<鹿の斑のかそけき梅雨に入りにけり>
となっている。

昭和33年生まれだとすると、わたしより三つばかり若いが、まあ、ほぼ同世代に近いと見てもいいだろう。なんとなく作品に親近感(ああ、おれもこういうのが詠みたいんだよねという)を抱いたのは、そういうことも多少影響しているのかもしれない。

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2007/10/01

9月に読んだ本

『江戸の白浪—鳶魚江戸文庫〈6〉』三田村鳶魚(中公文庫/1997)
『明るい旅情』池澤夏樹(新潮文庫/2001)
『誓い/チェチェンの戦火を生きたひとりの医師の物語』ハッサン・バイエフ/天野隆司訳(アスペクト/2004)
『下山事件—最後の証言』柴田哲孝(祥伝社 /2005)
『虫取り網をたずさえて—昆虫学者東子・カウフマン自伝』青木聡子訳(ミネルヴァ書房 /2003)
『海』小川洋子(新潮社 /2006)
『Back When We Were Grownups』Anne Tyler(Ballantine Books/2004)
『コーカサスの金色の雲』プリスターフキン/三浦みどり訳(群像社 /1995)
『物語が、始まる』川上弘美(中公文庫)
『消えた女—彫師伊之助捕物覚え』藤沢周平(新潮文庫)
『漆黒の霧の中で—彫師伊之助捕物覚え』藤沢周平(新潮文庫)
『アメリカの終わり』フランシス・フクヤマ/会田弘継訳(講談社 /2006)
『お言葉ですが…〈9〉芭蕉のガールフレンド』高島俊男(文藝春秋/2005)
『悪党芭蕉』嵐山光三郎(新潮社/2006)
『チェチェン やめられない戦争』アンナ・ポリトコフスカヤ/三浦みどり訳(NHK出版/2004)
『エセー 2 』ミシェル・ド モンテーニュ/宮下志朗訳(白水社 /2007)
『ささやく河—彫師伊之助捕物覚え』藤沢周平(新潮文庫)
『お言葉ですが…』高島俊男(文春文庫)

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9月に見た映画

マルクス兄弟 オペラの夜
監督:サム・ウッド
出演:グルーチョ・マルクス、チコ・マルクス、ハーボ・マルクス、アラン・ジョーンズ、キティ・カーラル

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