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2007/10/25

尾張の杜国をめぐって(下)

さて、女房殺しで打首となった坪井庄八と、芭蕉の愛弟子杜国すなわち坪井庄兵衛が、兄弟ではないかという疑いが「鸚鵡籠中記」から浮かび上がった、というのが前回までのオハナシ。
これに気づいたのは最初に申し上げた国文学者の大磯義雄さんですが、これは興奮するでしょうね。
当然、裏付調査に熱が入る。

まず疑問となるのが、「鸚鵡籠中記」の坪井庄八のもとに嫁した女房は、「近江守家来野々村喜蔵の女」となっているので、あきらかに武士の息女である。縁組としては相手も武家であるのが自然である。だからもし尾張藩の家中に坪井姓があれば、これは町代でもあった杜国・坪井庄兵衛とは無関係であろう。

坪井庄八の父隠斎は「清須越よりみそのの住」という小書があるので、大磯さんがまずあたったのは、清須城主松平忠吉の家臣が下級武士まで載っている『清須分限帳』。ここには坪井姓なし。
つぎに尾張藩士の家系を詳細に記した『士林泝洄』をあたる。同じく坪井姓なし。
享保頃あるいはややそれより時代の下ると思われる『尾張藩名古屋敷鑑』(写本)登載の武士と見なされる者約1600名をすべて見る。坪井姓なし。
尾張藩における諸士の刃傷を記録した『紅葉集』およびその補遺『柿の落葉』にも、坪井姓の記録は見出せない。
一方、御園町というのは富裕な商人が居住する地域であり、現に杜国・坪井庄兵衛もここの町代を務めていたことは先に述べました。

以上の調査に基づき大磯さんの出した結論は、坪井庄八は武士ではなく町人である、というもの。これは肯けますね。
おそらく、野々村喜蔵は言葉を発することのできない娘を不憫に思い、かなりの持参金と心をゆるせる家老をつけて、格式の高い町人に嫁がせたのではないか。そのような例もあると大磯さんの考証がありますが、これは煩瑣なれば省略。

以上をふまえて、大磯さんの推理―

これを試みに杜国の追放と関係づけて解してみよう。杜国が家督を相続し、庄八は御園町の家に同居していた。杜国は米問屋の主人として家業にたずさわる一方、名古屋の富家に生育した者の常として趣味の道を楽しみ、庄八も遊芸にこって太鼓などをよく打ち、藩主が御能を観覧する際など格式高い町人として地方に加わって出演することを許されていた。ところが空米事件がもち上がって杜国が追放になり、家屋敷も没収されたので、庄八も追い出されることになり、続けて御園町界隈に住むことも憚られるので、郊外ともいうべき出来町に借家を求めて移住した。このように解すれば庄八の太鼓も零落も出来町住も一応解釈がつくのである。
(中略)
そこでわたしの想像であるが、杜国が追放に処せられたとき、併せて闕所になり、家屋敷のみならず財産も没収されたに違いない。杜国は三河の畑村に屏居、庄八は出来町に移住、生活が楽ではない。いままでの大金持ちの生活に慣れた庄八としては何としても金が欲しい。その上、町人の身分の悲哀を身にしみて感じたに相違ない。そこで金に目がくらみ、また武士の娘ということで口のきけぬ女を女房とした。しかし家老付の女房では何かと悩みが多く、ついに乱心して身の破滅を招いた・・・・

わたしはこれはかなりいけるのではないかと思うのですが、その後(大磯さんのこの論文の発表は1970年3月「連歌俳諧研究」)どのように評価されているのかはまったく不案内であります。ご存知の方はご教示ください。

貞享元年(1684)、芭蕉が「冬の日」五歌仙を興行し蕉風を確立したとき、杜国はその連衆であった。二十九歳か三十歳。家は米商で裕福、町代を勤めるほどの人望、力量もそなえた男であった。まさに人生の絶頂期といってもよい。
ところが、わずか一年後、空米事件によって杜国はすべてを失い追放された。さらに二年後、今度は弟が殺人事件をひきおこし打首になってしまった。杜国の心中はいかばかりであろう。師、芭蕉と巻いた「冬の日」、あの時代こそが、杜国の人生の輝かしい記憶ではなかったか。
おれの人生は終ってしまった。おれはもう死んでいるんだ。おれは生きるしかばねにすぎない。杜国ならずともこんな風に思うのではないか。
そこに自分を尋ねてきてくれたのが芭蕉である。

  鷹一つ見付てうれしいらご崎

このような文脈において、芭蕉と杜国をみるとき、「嵯峨日記」の「夢に杜國が事をいひ出して、悌泣して覚ム」という記述もまた、しみじみと味わい深いのでありますね。
なにが、芭蕉と杜国クンのラブラブ旅行だ。バカモン。(笑)

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コメント

定年再出発のみずまくらです。コメント、トラックバックありがとうございました。杜国の記事拝見、とても面白くよみました。へえ、の連発。
さて、この先生の論文はその後どういう評価となったのでしょうか。興味あるところです。おそらく、俳壇や学者たちはこれを否定したのでしょうね。ちょっと調べてみたくなりました。

投稿: mizumakura | 2009/05/06 10:47

mizumakura さん
こんにちわ。「定年再出発」のバックナンバーには面白い記事がたくさんありますね。ゆっくり拝見させていただきます。今後ともどうぞよろしく。
ブログ「定年再出発」はこちら。↓
http://mizumakura.exblog.jp/

投稿: かわうそ亭 | 2009/05/06 13:04

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