桂信子とその時代
伊丹市にある柿衛文庫で「女性俳句の世界—桂信子とその時代」という特別展をやっている。
女性俳人として常に第一線で活躍した、桂信子が平成十六年十二月十六日に没し、所蔵の近現代の俳句史料が、翌十七年十一月三日をもって柿衛文庫に寄贈されました。
その中には、大阪空襲の際に桂信子が自ら防空壕へもって入って難を逃れた、第一句集『月光抄』のもととなった句槁、また山口誓子の「激浪」を綴った帳面など、貴重な資料が含まれています。
本展覧会では、桂信子の句帳・原稿・色紙や句集をはじめ、桂信子にあてた橋本多佳子や飯田龍太らの手紙や葉書などの資料を中心に、明治・大正・昭和の時代に生きた女性俳人にスポットをあて紹介します。
出品一覧の「ごあいさつ」より
たいへんよくまとめられた展覧会で感心した。
いろいろな資料は「へえ」と思わず手にとってみたくなるのだが、いかんせんガラスケースの向こうにあってもどかしいような思いにかられる。たとえば「旗艦」の第一号だとか、「火山系」第一号、「天狼」第一号なんてのは、目録によればすべて俳句文学館の所蔵のようだが、保存状態もよいように見受けた。
上記の「ごあいさつ」にある橋本多佳子筆の桂信子宛書簡は、なんという紙かわたしは書にはうといのでよくわからないが、特別の便箋に達筆で書かれたもので、もちろん美しいものであるが、同時に平畑静塔が多佳子をさして、彼女の俳句には「ヴァニティ」があるなんて意地の悪いことを言ったことなんかも連想しておかしかった。桂信子に出した私信には違いないが、どうも第三者の目を意識したような豪華さがあるように少なくともわたしの目には見える。まあ、やはり男というのは美人で才女という存在にはきびしいのかもしれない。(笑)
なかでも一番、興味深かったのは、高柳重信からの葉書(S23.4.10)とこれに対する桂信子の「返信」である。近畿車両株式会社(桂は昭和21年31歳でこの会社の秘書に雇われた)のうすぺっらな社内便箋を使用し、一葉の横書きの用紙を縦書きにして、見方によれば走り書きのようなあんばいで書かれている。
わたしはあまり深く考えずに、最初この桂信子の「返信」を実際のものと考えて、「あれま、ずいぶん乱雑な手紙だなあ」と思ったのだが、もちろんこれは下書きか、または自分用の控えである。自分の送った手紙は普通は手元に戻ってはこない。
というわけで、その雑な体裁からも重信宛に送られた実際の手紙ではありえないが、下書きかそれとも控えか。わたしは、おそらく、下書きではなくて控えであろうと思った。目録でも「桂信子筆高柳重信あて返信の控え」となっている。昭和23年当時には、控えはゼロックスでというわけにはいかなかった。
なぜ、これを控えだと思うかというのは、文面の内容に関わる。
残念ながら正確な引用はできないのだが、これは高柳の葉書が、桂信子の俳句観を批判するような内容だったので、これに対する反駁というか、抗議といった内容なんだなあ。「あなたはわたしを浅薄だなどとおっしゃまいすが、わたしはそんなことをおっしゃるあなたのほうがよっぽど浅薄だと思います」(記憶なので不正確)なんて感じの文面である。
やあ、怒ってる、怒ってる、と思わず吹き出してしまった。
たぶん、そういう内容だから、どんなことを相手に書いて送ったのか、自分用にも控えをつくっておこうと思ったのだろうし、やがてそういうことがあったのが自分でもおかしくて、なつかしくて、捨てずに手元に高柳の葉書とあわせて保存しておられたのでないでしょうか。
柿衛文庫の柿衛は「かきもり」と読みます。おなじ建物内に伊丹市立美術館があり21日まで「銅版画の巨匠・長谷川潔展—神秘なる黒と白」を開催中。この長谷川潔展がまた結構なものでした。
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