尾張の杜国をめぐって(中)
今日の話は昨日の続き。
鸚鵡籠中記の貞享四年(1687)四月十三日と同年六月十一日の条にはなにが書かれていたのか。
まず、四月十三日。
出来町坪井庄八乱心、女房(近江守家来野々村喜蔵の女にて新左衛門姉なり)と村田角兵衛(野々村がおとな也。娘に付て庄八が処に居せり)を切殺。召仕女にも手負す。庄八は被召捕籠舎。(庄八、父は隠斎とて清須越よりみそのの住なり。大金持なり。後零落す。庄八太鼓等打、御前へも出。喜蔵が女唖也。故金を付て庄八に嫁す。)
さほど読みにくいところはありませんが、整理しますと—
- 出来町の坪井庄八という者が乱心し女房と村田角兵衛を斬り殺し、召使いの女にも怪我をさせた。
- 坪井庄八の女房というのは、近江守の家来で野々村喜蔵という者の娘であり、新左衛門の姉である。
- 村田角兵衛は野々村家の家老(おとな)である。野々村の娘の付き人として庄八の家に居していた。
- 庄八は召し捕られ、牢に入れられた。
- 庄八の父親は隠斎という号をもち、清須越より御園町に住んでいた。もともとは大金持ちだったが、のちに零落した。
- 庄八は太鼓などもたしなみ、藩主の御前でも御能の地方(じかた)として出演をしたことがあるような人物であった。
- 殺された野々村喜蔵の娘は唖者であったので、持参金をつけて庄八のところに嫁したものである。
という内容であります。なおカッコ内は原本では小書二行になっている由。
六月十一日の該当の条は短く、
坪井庄八打首に成り、尸は親類へ被下。
「尸」は「し」または「かばね」と読むのでしょう。いずれにしても、坪井庄八が処刑されその屍は親類へ引き渡されたという内容であります。
さて、普通の人にとっては、今日の三面記事のような事件に過ぎませんが、なぜ俳諧研究の国文学者がおもわず目をむいたのか。それにはもっともな理由があります。
「俳文学大辞典」(角川書店)から杜国の項目の一部を転記します。
杜国(とこく)俳諧作者。?~元禄三(一六九〇)・三・二〇。享年三〇余か。本名、坪井庄兵衛。尾張国名古屋御園町の町代を務めた富裕な米商。早くより先輩の荷兮らと同じく一雪系の貞門俳諧や江戸談林俳諧に遊んだと思われるが、初期の俳歴は未詳。貞享元年(一六八四)冬、名古屋に立ち寄った芭蕉を迎え、野水、荷兮らとともに『冬の日』五歌仙を興行し蕉風草創に参画、初めてその名が顕れる。翌年八月、延米商いの罪に問われ領内追放となり、三河国保美村に隠棲。(以下略)
つまり、この杜国についての基本的な知識をもっている人が、鸚鵡籠中記の貞享四年の事件の記事を読むと、「おいおい、ちょっとまってくれ」となるのは無理もない。
乱心して女房とその付き人を切り殺したのは坪井庄八という男。杜国の本名は坪井庄兵衛ですから同姓の上に、名前の上の一文字が共通です。しかも、ふたりとももともと尾張国名古屋御園町の富豪の家柄である。時代もぴったりとあう。
杜国が空米事件で追放の刑に処せられたのが貞享二年八月十九日、庄八の殺人事件が貞享四年四月十三日、処刑が六月十一日、芭蕉が杜国を伊良胡に見舞ったのが、その十一月中旬である。すなわち、時代的に無理がなく、両者が兄弟であって差し支えない。
『芭蕉と蕉門俳人』大磯義雄
少々長くなったので、結論は次回に持ち越し。
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