闇の夜は
闇の夜は吉原ばかり月夜哉
『江戸俳諧にしひがし』飯島耕一・加藤郁乎(みすず書房)のなかで、其角のこの句について、加藤さんが数頁にわたって語っているのだが、やや不審な点があるので、以下、覚えとして。
其角は寛文元年(一六六一)の生まれだから明暦三年(一六五七)の振袖火事に全焼した元吉原を知る由もない。この句は芝居や戯作ほかに採られるなどして俳諧以外でもひろく知れわたっているが従来の解釈の大方は闇の夜でも吉原ばかりは明るく華やいだ月夜のような不夜城だという意味にのみ受け取っている。それはそれでよいが、高木蒼梧『其角俳句新釈』大正十四年刊は、吉原は明暦三年(一六五七)から夜間の営業が許されたとし、延宝、天和のころになって散茶つまり中等の女郎が沢山できて夜店を張るので「夜も自然明るくなったのであらう。それを珍しいことに見たので、闇の夜でも吉原だけは月夜である、と云ったのであると評釈した。
(中略)
ところで月夜と見紛うばかりの吉原の明るさは鰯から採った魚油による灯火照明だったと鳶魚の一書により教えられた。上方の人が見ると仰天するほど明るく見えたので其角もいささか江戸自慢の気味をこめてこの句を詠んだらしいと言っているが、これは俳文学者の誰もふれずだった新見というものだろう。
加藤郁乎「隣人其角」
『江戸俳諧にしひがし』p.132
後半の、吉原の夜間照明は鰯の魚油の灯火であったというのは、長辻象平の『元禄いわし侍』(講談社)を読むとよくわかる。これについてはとても面白い話なのだが、長くなるので今回はとりあえずパス。なお、この本はオススメです。
さて、わたしが加藤さんの文章を不審とするのは、この発句の鑑賞として、「従来の解釈の大方は闇の夜でも吉原ばかりは明るく華やいだ月夜のような不夜城だという意味にのみ受け取っている。それはそれでよい」としている点である。
たとえば、この発句については、次のような紹介がある。
この句は、夜間営業をしている吉原の明るさを詠んだもので、闇夜でも吉原は月夜のようである、といった趣向だろう。放蕩児である其角らしい句である。
しかし、そう解釈するのは「闇の夜は」で切って読むからで、「闇の夜は吉原ばかり」で切って、「月夜かな」と読むと意味が逆になる。この世は月夜だが、吉原は暗黒の夜だ、の意となり、これは言葉遊戯の「聞き句」といって、俳句の手法である。一つの句に意味が正反対になる仕掛けをするのが其角の腕で、この手は『新古今和歌集』よりの和歌の伝統でもある。古典落語の「芝浜」にもこの句が出てくるから、昔はよく知られていた。
嵐山光三郎『悪党芭蕉』
つまり、切れがスイッチのような働きをして、どこで切るかによって、空想の中で江戸の町全体が闇に沈んだり、逆に煌煌と月に照らされたりする、その機知を味わうのがこの句の醍醐味だと言うことだろう。
わたし自身、そういう一種のことばのマジックとしてこの句を頭の中で唱えては、ぱちん闇夜、ぱちん月夜と映像や意味が、一瞬で反転するのを面白がっていたのであります。
ところが、加藤さんは本書の中で、前者の情景の意味にのみ受け取るのが大方の読み方で、それはそれでよいとおっしゃるわけです。
「大方は闇の夜でも吉原ばかりは明るく華やいだ月夜のような不夜城だという意味にのみ受け取っている」としているのは、当然、別の解釈があることは知っているが、という含みがあるわけですから、ここで加藤さんはあえて、そんな落語家のような読み方はおれはしないよ、とおっしゃっているように思えます。
不審というのはここのことで、たしかに切れによって意味がかわってしまうのは駄目だという考え方をとる人もおられるようですが、はたして加藤郁乎ほどの人が—現代俳句のちまちましたお利口さん風の偽善を嫌う俳人が、そういうけちなことをおっしゃるだろうか。
やはりこの句は、其角が、どうだい、この「切れスイッチ」の利き。いいだろ。わっははは、という感じのお遊びをしているとわたしは思うのですけれど。
ま、それはダメよ、と加藤郁乎は言っているのでありましょうね。さて、なぜだろう。
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コメント
句の切り方で意味が変わる。パチンパチンというスウイッチを楽しむ遊びというのは、其角ならやりかねない。面白い話ですね。
「さて、なぜだろう」とあったので、続きを期待していたのですがー。
スイッチ説の難点は、「闇の夜は吉原ばかり」で切ると解釈がむつかしいことですね。夜間営業が許されている吉原が「闇の夜」というのは、まさか「不景気だ」といっているのではなし、此処は「吉原は遊女にとっては苦界(闇)」という意味くらいしか浮かびません。しかし当時(17世紀後半)の俳人たちに、遊女たちを「苦界」だと同情するヒューマニティーがあったろうか?それはもう少し下って、文化文政以降の、歌舞伎芝居などが人情を扱うようになってからのことの様に思えます。(元禄文化は明るくて、化政期となると翳りを求めるようになるというのは、一般に言われています。元禄には江戸に関する限り、性病が未だ到達していなかったからだという説を聞いたことがありますが)
加藤「隣人其角」を読んでいないので、あるいは「(略)」とされたあたりにそういう解説があったのでしたら、お許し下さい。
投稿: 我善坊 | 2007/10/19 06:29
俄然坊さん
わたしもそのように思います。
のちの時代の人びとと同じように、吉原が「闇の世」と見えたかどうか。この解釈には慎重であるべきだというのが、加藤郁也の立場だろうと思います。
ということで、これはにわかには判断ができない。
吉原が闇の世であるというような解釈あるいは表現が、いつごろまで遡れるかを知るのが、とりあえず宿題になっているのであります。
ただしわたし自身は、元吉原のころからこういう見方はあったのじゃないかなあ、という予想ですけれど。
なお、略した部分(結構長いのですが)は、散茶と牛太郎についての蘊蓄で、其角が吉原のしきたりに通暁していたことが書かれております。今回の件に関連する記述はないようです。
投稿: かわうそ亭 | 2007/10/19 21:27
「闇の夜は吉原ばかり」に関して、幸田露伴が「闇夜のように煌々と明かりを灯しているのは、吉原だけだ」というような解釈をしています。わたしはこの解釈が最も機転が利いていてよいと思います。つまり、「吉原のような繁華街だけが高価な燈油を月夜にもかかわらず灯していられる」ということで、その他の庶民にとっては月明かりだけが夜に家事などを行える明かりであって、闇夜には黙って寝込むしかないことがうかがえます。いかがですか。
投稿: taka84 | 2016/01/07 08:53