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2007年11月

2007/11/29

G5中年漂流記(5)

13日目。救助。
Appleサポートセンターの手配で26日(月)に引き取り、先方で修理を終えて28日(水)に帰ってきました。
不具合の箇所はロジックボードとパワーユニット。
再セットアップ、アプリケーション(そんなにないけど)の再インストール、バックアップしていたデータの再構築などを行う。
この過程で、一度、またフリーズして強制的に電源を落とすことになり肝を冷やしたが、その後はとくに問題なく半日の作業を終える。
もう少し、様子をみないと安心は出来ないが、なんとか遭難前の状態に復旧しつつあります。
幸い、リペアエクステンション・プログラム(期限切れまであと数日でしたが)の対象でしたので、費用の負担はまったくなくてすみました。
なお、今回のAppleサポートの対応は、担当者の応答スキル、ロジスティックの精確さなど、納得のいくものでありました。
たいしたもんだ。
以上、ご報告まで。

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2007/11/25

G5中年漂流記(4)

漂流10日目。手短に。
外付HDにOSをクリーンインストールしてそこから起動させるという環境で、しばらくうまく行ったので、「やった、これで原因判明、内臓HD交換でもとどおりだあ」とガッツポーズしたのもつかの間、この環境でもフリーズしてカーネルパニックを起こしたり、起動しなかったりの不具合発生。
ということで、前から気になっていた、初期のiMacG5にある(とAppleが公式に認めている)ロジックボードの不良の可能性が急浮上。
わたしの愛機のシリアルはこちらのリペアエクステンション・プログラムの対象になりますので、サポートセンターにコールし、明日、検査に引き取ってもらうことになりました。
さて、どうなりますことやら。

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2007/11/21

G5中年漂流記(3)

漂流6日目。
前回は、原因は内蔵ハードディスクのある部位が破損したために、ここに書き込まれるOSの一部が、セーフブートでは切り離されて影響しないが、通常のブートでは組み入れられてしまうので、これが障害を引き起こしているのだと仮説を立てたところまででした。
めんどくさいけど今の音楽ファイルや写真データやメール・ボックスなどのデータを外付けのHDに退避させ、その上で内蔵HDを初期化してOSを再度インストールすれば、なんとかなるでしょ、という規模のダメージ・コントロール予想。

さて、今日は休日なので朝から、データのバックアップをして、OSX10.4のクリーンインストール(HD初期化とOSインストール)を実施。
インストールが無事終了して、再起動すると・・・・

なんと、起動せず。(笑)
いや笑いごとではないな、これは。(泣)

いつものようにグレーのリンゴマーク画面で歯車が回り初め、続いて画面全体がブルーになったかと思うとブラックアウト、以後、完全に応答なしとなります。
念のためインストールディスクからディスクのアクセス権やらディスクの検証もし、さらにHDの初期化も再度行って、もう一度OSをインストールしましたが、まったく症状はかわらず。
さらに念には念を入れて増設メモリーの不具合の可能性も考え、筐体をあけて、メモリーを購入時の256Mに戻して再起動したり、一本ずつ付けては外す試験をしてみましたが、状態はまったく同じですので、増設メモリーは障害の原因から除外してもいいような気がするな。

さて今後の対策は、先述のディスカッション・ボードでアドヴァイスをもらったように

  1. FireWireで外部から起動できる外付HD(手持ちの外付HDはこのタイプではないので)を一時的に入手できないか検討
  2. 入手できれば、それにOSをクリーンインストールし
  3. そこからiMacを立ち上げることができて、しかも長時間使って問題なければ、おそらく問題は、いまの内蔵HDそのものの障害であろう
  4. 新品を買って、HDの交換に挑戦

Imac_damage

という感じでしょうか。ダメージ・コントロールのレベルがひとつあがってオレンジくらいの感じかな。 ま、こういうコンピュータのトラブルは、これを一種の遊びとして楽しむように発想をかえなきゃ仕方がないなあ、やれやれ。

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2007/11/19

G5中年漂流記(2)

漂流4日目。
いろいろ調べてみると、今回、画面に現れたエラー・メッセージはカーネル・パニックと呼ばれていることがわかりました。ハングして画面上で薄い膜のようなものがさーと降りてきてこんなのが出てくる。めったに見られないものらしいが、よかった見ることができて—って違うだろ。(笑)Kernel_p_2

コンピュータの用語でカーネルと聞いただけで、わたしなどは「あ、パス」と思うが、カーネル(kernel)というのは、もともとは果物の種である。梅干の硬い種の中味と思えばよい。つまりはそういう一番芯のところで不具合が起こっているわけだ。やれやれ。

さて、今回のトラブルの原因については、現在のところ「Apple Support Discussion」ボードの回答はふたつの可能性を示唆しておられる。

  • ひとつは増設メモリーの不具合である。
  • もうひとつはハードディスクの不良である。

昨日まではわたしはセーフ・ブートするとあとは問題なく使えることから、ハードディスクは問題がないのだと思っていた。だが、セーフ・ブート・モードで異常がないなら、むしろメモリーは正常で、HDのほうがくさいのではないかという教示を得た。

増設メモリーが原因であると特定できれば、ある意味では話は簡単で、その故障した増設メモリーを外してしまえば復旧するはずである。そしてその後、問題が再発しなければ、もう一度新品のメモリーをつければよい。

やっかいなのはハードディスクに問題があると思われる場合ですね。
この場合は、ふたつの可能性がある。

  • HDを初期化すれば解決できるケース
  • 機器そのものの不良で、初期化しても解決しないケース。

最後の場合は、内臓HDの交換が必要ですから、ここまでくると自分でやるのはめんどくさいので買い替えを真剣に検討しますな、わたしは。(笑)

さて現時点でのわたしの予想は、原因はハードディスクの不良でOSをクリーン・インストール(イコールHD初期化)すれば直るんじゃないかな、というもの。

その理由は

  • 3年使ってきたメモリーが壊れるのと、3年使ってきたHDが不具合を起こすのとでは後者のほうが可能性が高いだろう。
  • AHT(Apple Hardware Test)をインストール・ディスクから実行させてみた結果、メモリーの検査はパスした。
  • HDのトラブルでは初期化することでエラーが修復されるケースのほうが多いだろうという楽観主義。(笑)

ということで、これを検証する手順ですが、うーん目下思案中なり。

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2007/11/18

G5中年漂流記(1)

およそ三年にわたってほとんどトラブルもなく堅牢無比に仕えてくれたわが愛機iMacが突然の不調。
いろいろ手を尽くしているのですが、なかなかうまくいきません。
マックユーザーでない方にはほとんど興味のない話題で申し訳ないが、わたしのところで起こっているトラブルはきっとほかでも起こるであろう。
無事、わたしの文房四宝のひとつとして復活してくれるか、それともいささか早い引導を渡さなければならないことにあいなるか、記録として残しておけば、先々どなたか困った方がググってお役にたつことになるかもしれない。
ご指導いただける方がもしいらしたらぜひコメント欄に書き込みをしていただければと存じます。

まずは愛機iMacの概要。
2004年12月に購入したG5(1.6ギガ)モデルで、1Gのメモリーを増設しています。
その後、2005年5月にOSX10.4(Tiger)をインストール。
2007年10月にキーボードのみアルミの新型に変更。

◆現在のトラブル状況と対応の経過

  1. 家人が使用中にフリーズしたらしく、電源スイッチを押し続けていったん強制終了させました。(これはそう頻繁にはありませんが、過去にも何度かやっています)
  2. その後、電源を入れて立ち上げようとしましたが、青い画面のまま起動しなくなった―というところでわたしが引継ぎ。何度やっても同じ状態。
  3. この時点では、よくわからなかったので手元の初心向けのiMac解説書のトラブルシューティングを参考にして、OSの再インストールというのをやる。「アーカイブしてからインストール(ユーザとネットワークの設定をそのまま残す)」を使用。
  4. 無事立ち上がるようになったところで、とくに問題がないようなのでソフトウェアの更新で、OSX10.411をインストール。これをしないといま使っているiTuneが立ち上がらないため。
  5. 無事更新が終了したので、再起動させると、起動しなかったり、無事起動しても5分くらい使用すると、フリーズして、やはり強制的に電源を落とさざるを得なくなる。(ここまでが1日め)
  6. 翌日セーフ・ブート・モードというのがあることを知り、シフトキーを押しながら電源スイッチを入れて起動。
  7. 無事セーフ・ブート・モードで起動してとくに長時間使用しても問題なし。
  8. しかし、セーフ・ブート・モードを終了させて、通常の再起動をさせると上記5の状態がやはり改善されていない。
  9. ディスク・ユーティリティで「ディスクアクセス権を検証」させると2つばかりエラーがあったので「ディスクアクセス権を修復」させる。ただし、その後の再起動でも5の症状に変化なし。(2日め終了)

◆G5中年の下手な考え(休むになんたら)

  • セーフ・ブート・モードというのは、iMacのもともとの基本ハードだけを使ってブートすることらしいので、これに問題がないということはなにかあとで付加したモノが怪しいということか。
  • セーフ・ブート・モードでいくつかのソフトを試してみたときに、グーグルアースがやたら動作が遅くなっていたことから推理して、もしかしてセーフ・ブートしたときは増設のメモリは使用しないのかな。
  • ということは今回の原因は増設メモリが原因か。
  • でも筐体あけてメモリーいじるのは気が重いなあ。

といった内容を「Apple Support Discussion」のボードにあげました。回答のアドヴァイスで無事「こっちに戻って」くれることになりますかどうか、結果が出るまで連載予定。(笑)

まあいまは、とりあえずセーフ・ブートさせれば(これに5、6分かかるのを我慢すれば)一応こうしてブログへのアップもできるし、メールの受発信もできるので「いいじゃないの、パソコンの不調なんて、最悪、買い換えればすむことでしょ」と、多少太っ腹である、貧乏なくせに。(笑)いや、ホントは買い換えるのはすごく困る、もちろん。

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2007/11/14

種芋の歌仙

 萱草の色もかはらぬ戀をして     半残
  秋たつ蝉の啼しにゝけり      翁
 月暮れて石屋根まくる風の音     良品
  こぼれて青き藍瓶の露       土芳
 蕣の花の手際に咲そめて       翁 (蕣:あさがほ)
  細や鳴來る水のかはりめ      半残

『定本 柳田國男集 第十七巻』の「俳諧評釈」、「種芋の歌仙」初折裏第七句から折端まで。
「午ノ年伊賀の山中春興」なる前書きがあります。
翁はいうまでもなく芭蕉翁。
半残、良品、土芳はいずれも伊賀の門人で、気心も知れた郷里の俳友である。
午ノ年は、年表をみると元禄三年(1690)庚午(かのえうま)ですので、奥の細道の翌年の春でありますね。
柳田國男の言うところでは、楽しく巻き上げた歌仙ではあろうが、門人三人の技量にはややものたらぬところもあり、完成品と目してよいかどうかは疑問なきにしもあらずとの評価である。
にもかかわらず、柳田はこの四吟歌仙にはいくつか捨てがたい佳句もあり、これを知った人々が珍重したことも自然であり、この一巻が世に遺ったことは「何れの點から見ても」有難いことであった、と言う。
おそらく柳田がかく言うことの理由の一つが、上記の初折裏の後半の運びにある。

 萱草の色もかはらぬ戀をして   残

じつはこの句の前に三句恋句がつづいている。萱草は忘れ草、花の色がいつまでも変わらぬものもあわれである、と、さらに情痴の世界に耽溺してしまうのも、気のあった連衆ならではのこと。
しかし、そこをずばっと非情に断ち切る芭蕉。

  秋たつ蝉の啼しにゝけり    翁

お前たちいつまでにゃんにゃんやっているんだ。はや蝉も啼き死んだこの秋の気配に気がつかないか。師のきびしい切っ先に、弟子たちは、はっと我に返った。月の座も繰り下げられている。

 月暮れて石屋根まくる風の音   品

寂寞たる秋の夕暮れ。石で押さえた屋根を風がはためかす。

 こぼれて青き藍瓶の露      芳 

その強い秋風に、紺屋の藍瓶もたぶつき青い珠が露と結ばれる。

 蕣の花の手際に咲そめて     翁

秋の朝顔の花の色をここで取り合わせる。

   細や鳴來る水のかはりめ   残 

朝顔の咲く垣根の近く谷水を引く筧を取り替えて、はじめ細々とやがて高く音のなりゆくさまではないかと、柳田の評釈。ここはちとわかりづらい。

さて、ここでぜひ注目しなければならぬのは、お気づきになったかどうか、芭蕉の「蕣の花の手際に咲そめて」であります。
歌仙には式目という約束事がいろいろありまして、この折端(表十八句の末尾の句)の一つ手前は花の定座である。さらに俳諧連句の約束としては、この花の定座は、なんの花でもよいというわけにはいかなくて、かならず「正花」でなければなりません。「正花」とは簡単に言えば桜であるが、これも「桜」と詠んではならない。かならず「花」と詠むのが約束なんである。なかなか、うるさいのであります。

ところが、ここのところで芭蕉は「蕣の花」をもってきたのですね。
ここのところ、柳田の評釈を引きましょう。

古來花といへば正花(しょうはな)、必ず櫻であり春の季でなければならぬといひ、近世の宗匠も之を墨守して居るのを、芭蕉は平然として前例を破つたのである。是だけは是非とも援用しなければならない。月の座はすでに四季に通じて居るのに、花の座だけ春に限つたのは融通のきかぬことだつた。こゝに何の花でも詠じ得られるやうになつたら、連句はきつと今一きは面白くなると思ふ。

芭蕉の言葉に「格に入りて格を出でざるときは狭く、また格に入らざる時は邪詠にはしる」(俳諧一葉集)というのがあると加藤郁乎の本で教えられましたが、なんかそういうのを連想させるこの捌きでありますね。

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2007/11/13

古本屋を怒らせる

『古本屋を怒らせる方法』林哲夫(白水社)に、古本屋が嫌う客のことが縷々書かれております。
いくつかを。

買った本を返品する客。これを業界用語では「ションベン」と称する。
大きな荷物を抱えた客。
風邪引いた客。(来るなよ)
カップルでくる客。(開店早々こういうのがくるとその日はダメというジンクス)
店の中で体を前後に揺する。
未整理の本の束を勝手に触る。
本を抜き出しては値段だけを確認する奴。
ハンバーガー食いながら本を見て歩く。(まさかいないだろ、そんなの)
店内で携帯電話を使う。
経営についていろいろアドヴァイスしたがる。(けえれ!(笑))

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2007/11/12

犬は勘定に入れません

1964815587_0ad3dbd774 コニー・ウィリスの『犬は勘定に入れません』は、とてもたのしい小説だった。二段組みの542頁というのは、それなりに読み応えのあるボリュームなんだろうけど、欲を言えば最低でもこの倍くらいあるともっと嬉しい。(笑)
悠然とこういうオハナシを読んでゆくのは精神衛生上、じつによろしいようで。

前作『ドゥームズデイ・ブック』、これいつごろ読んだんだっけなあ。初版が1995年だから、たぶんその数年後、もう10年くらい昔のことか。あっちのほうは、黒死病で人がばたばたと死に絶えてゆく陰気な物語だが、本書は死んでしまうのは金魚くらいのもので、いたって安全、快適な読書の旅であります。もっとも本書の主人公のほうは、安全はともかく、快適は保証されていないようなのが気の毒ではありますが。

題名を見れば、本書が不朽の名作『ボートの三人男』へのオマージュであること、イギリス文学に多少親しんだ方ならすぐにおわかりになりますが、じっさい主人公たちがドタバタ喜劇を繰り広げるのは、1888年の6月の陽光ふりそそぐテームズ川の河畔や地方都市である。まさにジェローム・K・ジェロームの世界。さらにそこで猛威をふるうのが、上流階級のご夫人連で—

ウォルトンの教会には、鉄の「おしゃべり轡」がある。これは昔、饒舌な女の舌を抑制するために使われたものである。今日では、こういうものは使われなくなった。これはたぶん、鉄が乏しくなり、鉄以外の丈夫な材料はまだ見つかっていないためだろうと思う。

『ボートの三人男』の大好きな一節である。いや、なにもこれ、わたしの意見と言うわけではないのですがね、はい。(笑)
ジーヴスもののファンのみなさんは、アガサ伯母さん、ここにも登場と大喜びされるに違いない。さよう、本書の重要な骨格はあきらかにP.G.ウッドハウスである。『ボートの三人男』も『ドゥームズデイ・ブック』も、必ずしも本書を読む前に読んでおいてね、とは言わないが、ウッドハウスのジーヴスもののどれか一冊は読んでおいた方が、本書は絶対に楽しめます。
あとづけの独りよがりだけど、わたしなんか、今頃になってようやく本書を読んで(つまりウッドハウスを楽しんだ後でという意味だけど)ほんと、正解だったと思っているんだなあ。

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2007/11/03

服部真澄『清談 佛々堂先生』

2007_1103 服部真澄の『清談 佛々堂先生』(講談社文庫)は、あまり期待せずに手に取ったのがよかったのか、けっこう面白く読むことができた。
「和のトリビア満載のミステリー」というのが腰巻きのキャッチフレーズで、別にこれという事件が起こるわけではないのだが、その世界では知る人ぞ知る通人で数寄者の佛々堂先生が行き詰まった芸術家の新境地を開いてやったり、骨董の不思議な縁を結んでやったりというような内容。
本書には4話の短編が収録されている。それぞれラストにちょっとしたひねりが加えられて、たしかに一種のミステリー仕立てになっている。
この作家、処女作の『龍の契り』が評判になったときに読んで、そのときも感心したことだけはおぼえているのだが、その後はすっかり忘れていた。本書なども軽く読めるのだが、そのネタの仕込みはなかなか軽くはないだろうと思われる。
たとえば、わたしが「ほう」と思ったのは、酒井抱一の下絵で蒔絵師の原羊遊斎の印籠(の贋作)がモチーフになる話(「遠あかり」)で、この原羊遊斎が所蔵していた抱一の下絵集が散逸を免れて大和文華館とボストン美術館に一冊ずつ収蔵されている、なんて箇所である。
大和文華館は隣町にあり、ときどきはその収蔵品を見に行くこともあるが、そんな話は初耳だった。
酒井抱一は、これもなかなか面白い人で、絵師と言いながら、その身分は播州姫路藩主の次男である。吉原通いで有名な通人で、酔った従者を籠に乗せ、自分は歩いて屋敷まで帰ったとか、あるときは暴れ馬をなんなく取り押さえたなんて逸話があったかと記憶する。

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2007/11/01

10月に読んだ本

『真昼のプリニウス』池澤夏樹(中公文庫)
『花まんま』朱川湊人(文藝春秋 /2005)
『お言葉ですが…〈5〉キライなことば勢揃い』高島俊男(文藝春秋/2001)
『お言葉ですが…〈6〉イチレツランパン破裂して』高島俊男(文藝春秋/2002)
『お言葉ですが…〈7〉漢字語源の筋ちがい』高島俊男(文藝春秋/2003)
『お言葉ですが…〈8〉百年のことば』高島俊男(文藝春秋/2004)
『プーチニズム 報道されないロシアの現実 』アンナ・ポリトコフスカヤ/鍛原多惠子訳(NHK出版 /2005)
『お言葉ですが…〈2〉「週刊文春」の怪 』高島俊男(文春文庫/2005)
『お言葉ですが…〈3〉明治タレント教授』高島俊男(文春文庫/2002)
『逆説の日本史 13 近世展開編江戸文化と鎖国の謎』井沢元彦(小学館/2006)
『お言葉ですが…〈4〉広辞苑の神話』高島俊男(文春文庫/2003)
『江戸俳諧にしひがし』飯島耕一・加藤郁乎(みすず書房/2002)
『マリナー氏の冒険譚 (P・G・ウッドハウス選集 3)』岩永正勝/小山太一(文藝春秋/2007)
『お言葉ですが…〈11〉』高島俊男(連合出版/2006)
『鳶魚江戸学 座談集』朝倉治彦編(中央公論社/1998)
『探偵ガリレオ』東野圭吾(文春文庫/2002)
『予知夢』東野圭吾(文春文庫/2003)
『自来也小町—宝引の辰捕者帳』泡坂妻夫(文春文庫/1997)
『逆説の日本史 12 近世暁光—天下泰平と家康の謎』井沢元彦(小学館/2005)
『人生は廻る輪のように』エリザベス・キューブラー・ロス/上野圭一訳(角川書店/1998)

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10月に見た映画

恋は五・七・五!(2005)
監督:荻上直子
出演:関めぐみ、小林きな子、蓮沼茜、もたいまさこ、杉本哲太
俳句監修:夏井いつき

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