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2007/11/14

種芋の歌仙

 萱草の色もかはらぬ戀をして     半残
  秋たつ蝉の啼しにゝけり      翁
 月暮れて石屋根まくる風の音     良品
  こぼれて青き藍瓶の露       土芳
 蕣の花の手際に咲そめて       翁 (蕣:あさがほ)
  細や鳴來る水のかはりめ      半残

『定本 柳田國男集 第十七巻』の「俳諧評釈」、「種芋の歌仙」初折裏第七句から折端まで。
「午ノ年伊賀の山中春興」なる前書きがあります。
翁はいうまでもなく芭蕉翁。
半残、良品、土芳はいずれも伊賀の門人で、気心も知れた郷里の俳友である。
午ノ年は、年表をみると元禄三年(1690)庚午(かのえうま)ですので、奥の細道の翌年の春でありますね。
柳田國男の言うところでは、楽しく巻き上げた歌仙ではあろうが、門人三人の技量にはややものたらぬところもあり、完成品と目してよいかどうかは疑問なきにしもあらずとの評価である。
にもかかわらず、柳田はこの四吟歌仙にはいくつか捨てがたい佳句もあり、これを知った人々が珍重したことも自然であり、この一巻が世に遺ったことは「何れの點から見ても」有難いことであった、と言う。
おそらく柳田がかく言うことの理由の一つが、上記の初折裏の後半の運びにある。

 萱草の色もかはらぬ戀をして   残

じつはこの句の前に三句恋句がつづいている。萱草は忘れ草、花の色がいつまでも変わらぬものもあわれである、と、さらに情痴の世界に耽溺してしまうのも、気のあった連衆ならではのこと。
しかし、そこをずばっと非情に断ち切る芭蕉。

  秋たつ蝉の啼しにゝけり    翁

お前たちいつまでにゃんにゃんやっているんだ。はや蝉も啼き死んだこの秋の気配に気がつかないか。師のきびしい切っ先に、弟子たちは、はっと我に返った。月の座も繰り下げられている。

 月暮れて石屋根まくる風の音   品

寂寞たる秋の夕暮れ。石で押さえた屋根を風がはためかす。

 こぼれて青き藍瓶の露      芳 

その強い秋風に、紺屋の藍瓶もたぶつき青い珠が露と結ばれる。

 蕣の花の手際に咲そめて     翁

秋の朝顔の花の色をここで取り合わせる。

   細や鳴來る水のかはりめ   残 

朝顔の咲く垣根の近く谷水を引く筧を取り替えて、はじめ細々とやがて高く音のなりゆくさまではないかと、柳田の評釈。ここはちとわかりづらい。

さて、ここでぜひ注目しなければならぬのは、お気づきになったかどうか、芭蕉の「蕣の花の手際に咲そめて」であります。
歌仙には式目という約束事がいろいろありまして、この折端(表十八句の末尾の句)の一つ手前は花の定座である。さらに俳諧連句の約束としては、この花の定座は、なんの花でもよいというわけにはいかなくて、かならず「正花」でなければなりません。「正花」とは簡単に言えば桜であるが、これも「桜」と詠んではならない。かならず「花」と詠むのが約束なんである。なかなか、うるさいのであります。

ところが、ここのところで芭蕉は「蕣の花」をもってきたのですね。
ここのところ、柳田の評釈を引きましょう。

古來花といへば正花(しょうはな)、必ず櫻であり春の季でなければならぬといひ、近世の宗匠も之を墨守して居るのを、芭蕉は平然として前例を破つたのである。是だけは是非とも援用しなければならない。月の座はすでに四季に通じて居るのに、花の座だけ春に限つたのは融通のきかぬことだつた。こゝに何の花でも詠じ得られるやうになつたら、連句はきつと今一きは面白くなると思ふ。

芭蕉の言葉に「格に入りて格を出でざるときは狭く、また格に入らざる時は邪詠にはしる」(俳諧一葉集)というのがあると加藤郁乎の本で教えられましたが、なんかそういうのを連想させるこの捌きでありますね。

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