漱石の「猫」に、とある上天気の日曜日、苦沙弥先生が吾輩の横に腹這いとなり、うんうん唸って、天然居士の墓碑銘を撰する箇所がありますね。
天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である
苦沙弥先生、一気呵成にこう書き流し、声を出してこれを読み、「ハハハ面白い」と笑うが、「うん。鼻汁を垂らすはさすがに酷だ、焼き芋も蛇足だ」と線を引き。結局「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」だけにしたころで、これではあまりに簡単すぎると全部ボツにして、原稿用紙の裏に「空間に生れ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士、噫」と書き連ねていると、いつものように迷亭がやって来る、てな場面。
この天然居士は、「猫」では曾呂崎という男だということになっているがれっきとしたモデルがあるそうですな。名前を米山保三郎という。
『森銑三遺珠1』(研文社)に「天然居士の墓」という一文がありまして、森銑三が駒込蓬莱町の養源寺にある米山の墓を訪ねたことが書かれてある。
昭和14年頃、森翁が訪れたとき、墓は安井息軒の大きな墓と相対していたそうですが、さてそれから70年近くたった現在でも残っているのでしょうか。
実際の墓銘は漱石ではなく、重野成斎が撰し巌谷一六が書した。重野成斎、安繹は、『逆説の日本史』シリーズなどでも井沢元彦が、その史料を厳格に使用する実証的史学で、これもあれも史実にあらずと抹殺していくので「抹殺博士」と罵られた話を紹介しておりましたが、米山の東大のときの先生であったそうな、ふーん。
森翁の掃苔録には、この墓銘を写してあるが、さすがに洟を垂らすだの焼き芋が好きだなどという文字は見えない。(当たり前だ)
ただし、洟をたらしていたのは本当のことだそうですな。
またこの米山の破天荒なエピソードとして、学生時代、一晩中かかって試験の答案を書いた話がある。
箕作佳吉博士の博物学の試験に、全員答案を出し終えた後も、平然と答案を書き続けているので、先生は助手に後をまかせて帰ってしまった。やがて夕方になったが、米山はまだ答案を書いている。助手も面倒だから、小使を呼んできて、番をさせて帰ってしまった。気の毒なのは小使で、まさか偉い学士さまの卵に催促がましいことは言えない。延々と答案を書き続ける米山の番をさせられた。翌朝になって箕作博士が出勤して、まだやっている米山を見つけてあきれて「もうよかろう」と答案を取り上げた。(笑)
正岡子規もこの米山には脱帽したくちで、哲学をやってもこんな男がいたのではとてもかなわんと方向を転じたのであった。まあ、そうかもしれぬ。
米山の訃報を漱石は熊本で聞いた。明治30年(1897)5月29日。享年二十九歳。
その年、6月8日に漱石は知人宛の手紙にこう書き記した。
米山の不幸返す返すも気の毒の至に存候。文科の一英才を失ひ候事、痛恨の極に御座候。同人如きは文科大学あつてより文科大学閉ずるまで。またとあるまじき大怪物に御座候。蟄龍未だ雲雨を起さずして逝く。碌々の徒、或は之をもつて轍鮒に比せん、残念。
森翁はまた、漱石が米山と一緒に撮った写真を引き伸ばし米山の半身像に追悼の句を題したことを書かれてあるが、その句がなんであるか、いま資料をもたぬわたしはこれを詳らかにしない。
写真はおそらくこれであろう。
平気で洟をたらしていた男には見えないなあ。(笑)
なかなかいい写真である。
右が米山、左が漱石だとのこと。
(写真は東北大学附属図書館「夏目漱石ライブラリ/漱石の生涯」より)
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