アジア・太平洋戦争
岩波新書で出ている「シリーズ日本近代史」の第六巻は吉田裕の『アジア・太平洋戦争』。このシリーズについては、今年の4月に第一巻の『幕末・維新』井上勝生について簡単な感想を書いた。(こちら)
そのときに、この幕末維新史が、「明治国家はけなげであった」という素朴な歴史観(わたしの場合は主として司馬遼太郎を読むことで形成された)に真っ向から礫を投げつけるようなものである、という印象を書いた。好悪は別のこととして(つまりわたしはあまり好きではない)その志やよしと思ったのであります。
今回の『アジア・太平洋戦争』についても、似たようなものを感じる。
著者はわたしと同年代の研究者だから、自分自身の体験として戦争のことを語ることはできない。
しかし直接に体験はしていなくても、戦争の現実、戦場の現実に対する想像力を身につけることはできるのではないだろうか。そもそも、直接に体験していない事象を想像することができないとすれば、歴史学という学問は成り立たないだろう。
正論だが、同時にそんなあたりまえのことをわざわざ前書きに書かなければならないところに、大東亜戦争を歴史的に分析する困難さもあるだろうな、と複雑な思いも去来する。
それはそれとして、現在のわたしたちにも大きな思想や判断の準拠枠を与えているこの戦争の時代について、ひとつの暗黙のオハナシがあるような気がする。
こんなものだ。
大日本帝国憲法の下にあって、その法制をもっともよく理解していたのは昭和天皇だった。昭和天皇は個人としては英米との戦争はもとより、中国大陸への侵攻も望んでいなかった。領土的な野心をこの人物は個人としては持っていなかった。しかし、同時に昭和天皇は天皇というものを国家の一機関であると認識していたから、正統な政府が決定した内政および外交方針については、たとえそれが自分自身の意に沿わないものであっても、それを決裁することが通例であった。すなわち、軍部が統帥権を錦の御旗として国政を壟断したことと対照的に、昭和天皇自身は親政というかたちで自分の意思を通すことをきびしく自分に禁じていた。わずかな例外のひとつが連合国のポツダム宣言の受諾と無条件降伏の国策決定であった。
ほかの人にとってはどうか知らないが、わたしにとってはこのオハナシは耳に快い。
ところが、本書『アジア・太平洋戦争』はこうした通俗的な昭和天皇像に対して、いやどうもそんなんじゃなかったみたいよ、という天皇像をいろいろと提示してみせる。
その具体的な史料等については、ここではいちいち取り上げないが、上記のようなオハナシが心地よい(わたし自身がそうであることはすでに書いた)向きには、ちと都合が悪い内容である。
こういうことを明示的に書くのはいまでも注意しなければならないだろうから、さすがに著者もはっきりとそう書いているわけではないが、あきらかに著者の立場は、天皇には戦争責任があるというものだろう。それも形式的な法制上の責任者であるという消極的な責任ではなく、能動的君主として開戦を決断し、戦争を指揮したという責任である。
専門家向けではなく、わたしのようなごく普通の読者を想定した新書の現代史では、率直に言ってかなり踏み込んだ内容だと思う。好悪は別として志は買うというのがわたしの感想。
それ以外にも、いろいろ示唆に富む切り口があって本書は面白かった。
ふたつ例をあげる。
ひとつは、アメリカ合衆国はこの第二次世界大戦では唯一戦争によって国力を向上させた強国であり、この「成功体験」がいまにいたるまで大きな影響を与えているという指摘。口ではなんと言っても、かれらはいまでも戦争はよいものだと思っている。
もうひとつは敗戦直前、特攻で消耗させられた兵力の大半が学徒動員兵であったという事実。職業軍人は同じ職業軍人をかばい一般社会から徴発した市民(それこそかれらが命がけで守るべきものであったはずだが)を消耗品のようにすり潰したが、それによって、ほかならぬ学徒動員の生き残りの戦後のエリート層に軍隊への嫌悪と忌避を決定的に植え付けたという視点。たしかにそうだったんだろうなあ、と具体的なあの人、この人の顔を想起しながらそう思う。
| 固定リンク
「b)書評」カテゴリの記事
- ヒラリー・マンテル『ウルフ・ホール』(2016.12.15)
- 『忘れられた巨人』(2015.07.26)
- 地べたの現代史『ツリーハウス』(2015.04.20)
- 笑える不条理小説『末裔』(2015.04.19)
- 『夏目家順路』(2015.04.16)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
昭和天皇についてのオハナシ、私は吉田裕氏の見方にやや近い印象を持っています。
1)立憲君主制というのは、君主の権限を何らかの意味で制約し、結果的に君主の責任を軽くするものですが、明治憲法は天皇の権限を全く制約していません。衆議院議員以外の文武百官はすべて天皇の直接間接の任免によるもので、天皇は人事権者として最終責任があります。(相談相手である重臣もまた天皇の任命による)
予算以下の財政も立法も、法律以上に権限のある勅令によって覆す事も可能です。
もちろんこうした国家は、明治天皇が望んだのではなく、伊藤山縣井上毅以下の藩閥有力者が、国家の意思をいつまでも自分とその後継者のものに留めて置きたいがために創ったものではありますが。
2)昭和天皇が「自分は立憲君主として振舞った」というのも、半分は本当かもしれないが、半分は戦後の作り話です。
彼らが昭和天皇に立憲君主教育をほどこしたのは当然ですが、昭和天皇自身も此の憲法では自分は一切の責任を負わねばならないと承知していた。それだから、陸軍省の課長クラスの人事まで指示を出していたのです。
昭和天皇の没後に発見(?)された所謂「独白録」からは、戦後に天皇制を東京裁判から守るためのストーリー創りのプロセスが歴然と読み取れます。2.26のときの話も敗戦受諾の経緯も、その為の傍証として強調されるに過ぎない。
つまり昭和天皇は、立憲君主でありたいと願いつつも、明治憲法はそれを許していない事を十二分に承知していたということになります。
3)おそらく昭和天皇は個人としては、最も私心のないひとりで、官僚的な有能さも兼ね備えた人物であったろうと思います。しかしそのことと、明治憲法下の天皇の立場とは切り離して考えないと、我々はまた同じ間違いを繰り返すことになります。
昭和天皇は、自分の一身はどうなっても祖宗から受け継いだ天皇制を守るためにはあらゆる手段を惜しまなかった、それが見事に成功して今日オハナシとして定着した、ということでしょう。
投稿: 我善坊 | 2007/12/20 16:57
我善坊さん
そのとおりだと思います。
終戦工作の時点で問題になっていたのは、おそらくただ一点だけだったというのがわたしの理解です。
すなわち「国体護持」。
天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。
このような、日本国憲法下の戦後体制が戦前の「国体」とどの程度連続し、どの程度切断されているのかは、わたしにはよくわかりませんが、素人の浅薄な考えを述べれば、戦前の「国体」のコアは戦後に連続していると感じています。
それを「無事、見事に連続した」と見るか、「残念ながら連続してしまった」と見るかは難しいところですが、個人的には政治というのはあくまで結果であってみれば、少なくともこの連続が国民の大多数を不幸にしたとはいえないように思います。
吉田茂が昭和天皇に対して「臣茂」と称したのは、その戦前戦後の連続性を明示的にあらわしたものだと思いますし、行政官庁の長官職を大臣(むかしふうに言えば「おとど」であります)と言うことをさして異様なことにも感じない(むしろ誇らしくありがたく思う)のは、こういう連続を無意識ながら国民が認めているからではないかとも感じます。
今回の吉田裕氏の『アジア・太平洋戦争』では、天皇の戦争責任に大胆に踏み込んだことで議論を呼ぶと思いますが、それをきちんと指摘したことには敬意を表したいと思います。ただその天皇の戦争責任論と、上記のような「オハナシ」を必要とした国民の「ニーズ」とは、いまはまだ、同じ土俵で議論をするべきことではないかも知れない。あるいは、そろそろ議論すべき時期に来ているかもしれない、ような感じがしています。(どっちやねん(笑))
そろそろ議論をしてもいいかな、というのは(慎重にものを申しますが)天皇制が自然の条件で永続しない可能性をうすうすと感じているからです。
投稿: かわうそ亭 | 2007/12/20 19:00