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2008年1月

2008/01/29

連句、鈴木漠という詩人

『連句集 壷中天』鈴木漠編(書肆季節社)という本を奈良の古本屋でもとめたのは、もともと内容や作者に関心があったからではない。たんに手にとったときの感じがよかったからにすぎなかった。箱入りの美しい本だが、その重さや大きさも、わざわざ立派な箱を誂えるまでもないような百頁ばかりの薄さも好ましかった。つまりは装丁にひかれて買ったというわけだ。
本を蒐めることにさほど執着のないわたしにしては珍しいことであります。

ところが、この連句集、読んでみてなかなか面白かった。

俳諧連句というのは、たとえば芭蕉七部集をそのまま読んで十分に楽しめるという人はほとんどいないと思う。現代のわたしたちが、これを読むときには、幸田露伴や安東次男の評釈に頼ることになるのが自然である。しかし、露伴にしても安東にしても、その評釈の精緻というか嫌味なまでの博覧強記に毒気を抜かれ、いかん、連句などというのはとても素人の手に負えるものではないと、かえって読者を遠ざけるような気配もないとは言えぬ。

なるほど、俳諧連句の評釈というものはありがたいものである。だが、芭蕉や蕪村の時代にまでさかのぼるならばともかく、現代の人々が巻いた歌仙を読むのであれば、なにも古今の典故に通じた博雅な人物でなければ、それを読んでも楽しむことはできぬと決めつけたものでもないだろう。

Baku_suzuki 俳句や短歌や和歌のような短詩であれ、近代詩、現代詩であれ、漢詩や翻訳詩であれ、すべて詩というものは、もし評釈があればわたしたちはそれを読んで、なるほどそんな出典がこの詩句の背後には隠されていたのか、と興を覚えることはあるだろうが、しかし、そういう評釈などなくても、詩を読む楽しみは味わえると思っているはずだ。
同じように、現代作家による連句も、もっと気軽に読んで、なんかいい感じだなあ、とか、なんかいまいちだなあ、これは、とか思えばいいのだと思う。

偶然に知った、この鈴木漠という詩人の詩句が、連句の中でもよく利いているなあと感心したので、現代詩文庫(162)の『鈴木漠詩集』を探し出して読んでみて、さらに興味をそそられた。詩というのは、読者との相性というのもあるのだろうが、じつにいいのである。ちなみに、この『鈴木漠詩集』に収められた「作品論・詩人論」の筆を執っているのは塚本邦雄と清水哲男である。もっと一般の読者に知られるべき詩人だと思う。

(たとえば塚本邦雄が絶賛する 『妹背』は、こちらで読むことができるようだ)

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2008/01/22

フレッツ光をつなぐ

フレッツのADSLからフレッツ光に乗り換え。
なにしろ長澤ますみちゃんがかわいいもので、つい。(笑)いやなに、マンションの管理組合が工事NTT持ちなので導入をしてくれたのであります。

NTT西日本の「フレッツ速度測定サイト」で計測すると、だいたい58Mbpsくらい出ていることになっているが、この計測サイトはNTTの回線のなかだけでのスピードなので、実際にインターネットを介して、いろんな経路で接続されたときの速度とは別物。まあ、ちゃんとつながっていますよという意味くらいしかないらしい。

じつはインターネットにある速度測定サイトで計測すると、ADSLのときが4Mbpsくらいで、今回FTTHに切り替えたあとで計測しても、いいときで9Mbps、たいていは4Mbpsなので、あまり変わりはないのですね。
実際、ブックマークしているサイトを表示しても、体感的にはほとんど変化はない。

じゃあ、ダメじゃん、かというと、やはり違いはありまして、具体的にはポッドキャスティングのダウンロードなんかがぜんぜん違う。
BBCとかABCの長さが30分程度のニュースをダウンロードするときに、以前は1本おとすのに2、3分かかることもあったのが、ほとんど数十秒で終わってしまう。
あるいは、大きなサイズの写真をFlickrやCreativePeopleにアップロードするのが、かなり速くなっている。
2211636746_6018e9d4f0 つまり、ある程度大きなデータをインターネットを介して上げたり下ろしたりするときには、なんだか太いパイプでデータが流れる感じなんだけど、それ以外でふつうにブログを見ていくような使い方ではほとんど変わりがないということのようです。

まあ、切り替えの理由はむしろコストが(電話も光にしたので)すこし安くなるからだったので、とくに不満はないのですけれど。
あ、あえて言えば、NTTのレンタルの機器を3台並べないといけないのですが、このバラバラなデザインをなんとかできないのかなあ。(笑)

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2008/01/19

クラウド・コンピューティング

「CNET Japan」のビル・ゲイツのインタビューを読んでいたらクラウド・コンピューティングという言葉がでてきた。
なんでクラウド(雲)というのかよくわからないけれど(インターネットを雲の形で表すんだとかいうのだが、なんのこっちゃ)これは要するに、現在そうであるように一台ごとのパソコンに組み込むかたちでのOSや、そのOSの上でしか動かないアプリケーションには未来はないみたいね、ということだろう。

どんなパソコンだろうと、携帯端末であろうと、ウェブにつながれば、ウェブ上のアプリケーションで文書を書いたり表計算をしたりベータベースをつくったりできる。自分専用の音楽も写真も映画もウェブの中だけで楽しんだりデータをためたり管理できる。

わたしたちに必要なのはブラウザーだけ。

つまりいまでも普通のユーザーにとっては、パソコンというものは、つまるところ見やすいディスプレイ、手になじむキーボードとマウス、そして必要ならプリンターという機器があればそれでいいのだと思う。これまで、わたしたちが大仰にコンピュータの「本体」なんて言っていたものは、たとえば万年筆や腕時計やブローチくらいの大きさのデバイスにできるだろう。あるいは携帯電話の機能のひとつに統合するほうが現実的かもしれない。
会社や自宅や街中のカフェに、ディスプレイとキーボードだけが置いてあれば、この小さな「本体」デバイスを差し込んで(あるいは無線でコネクトして)、いつでもどこでもシームレスにやりかけの作業が、まったく同じコンピュータ環境で継続できる、というのは当面の未来像だろう。その先は?まあ空想できることはあるけれど、いまはやめておく。

OSやアプリケーションのバージョンアップは「雲」の上で行われる。わたしたちの「本体」デバイスは、インターネットにつなぐだけ。こうなりますと、最新OSの発売というおなじみのイベントは無意味になりますな。
わたしたちはついにOSのバージョンアップやらアプリケーションのインストールから解放されるのでありましょうか?

ビル・ゲイツが言う近い将来のクラウド・コンピューティングというのは、たぶんそんな意味だと思うのだが、これを、これまで、ユーザーをOSとそのアプリケーションに縛り付けることで、悪辣に稼いできたマイクロソフトの(かつての)親玉が言うのだから、恐れ入る。

こんな風にOSレベルまでもが「雲」の上に行ってしまうと、一般のユーザーにとってはコンピュータがまったくのブラックボックスになってしまって問題だという意見もあるらしい。まあ、わたしにとっては、いまでも十分にブラックボックスでありますから、別に変わりはないのですが、コンピュータ・サイエンスの学生なんかは、かえってMS-DOSのファンがいたりするらしい。なんとなくわからないでもないけれど。

かつて、SF作家のアーサー・C・クラークは、こんなことを言っておりました。

十分成熟した技術というものは、すべて魔法と見分けがつかない。

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2008/01/17

人それをカモと呼ぶ

金余りのアラブの王族やら中国の共産党が、外貨準備を大胆に運用する政府系ファンドというのが、なにやら射倖心をあおったのか、自民党のなかでこの日本版を創設しなきゃいかんという議論になってるそうで。

自民党の山本有二前金融担当相と田村耕太郎前金融担当政務官は5日、東京市場の国際競争力強化のため、日本に政府系投資ファンド(ソブリン・ウェルス・ファンド=SWF)を創設することを求める議員連盟を党内に設立した。参加者は42人。来春をめどに中間報告で提言する考え。
自民党の議連の名称は「資産効果で国民を豊かにする議員連盟」で、山本前金融担当相が会長、田村前政務官が事務局長を務める。政府系ファンドは、シンガポールで実績があるほか、外貨準備を膨らませる中国や中東の産油国などが相次ぎ設立している。
5日の党本部の設立総会には、渡辺喜美金融・行政改革担当相が出席し、「官と民の資産をどう運用していくかがこの議連の眼目だろう」とあいさつした。そのうえで、官から民への資金の流れを進めるとともに、1550兆円の個人金融資産の活性化によって「(金融担当相と行革担当相の役割は)コインの裏表の関係でやる」との考えを示した。
(ロイター)

「資産効果で国民を豊かにする議員連盟」という名前からしていかがわしさ全開だが、連想するのは、ばあちゃんの貯金をちょっと貸してくれたら競艇でばっちり稼いで楽をさせてやるからなというあんちゃんたちであります。そういうあんちゃんたちに限って、なぜかエルメスだのルイヴィトンだのブランドものが大好きというのも、政治家のみなさんに似ている。

お役人様におまかせして大丈夫でごぜえますか、と百姓のひとりとしてはいささか心配だが、なにそういうのは外国からプロ中のプロを集めてこのファンドを運用させるから大丈夫なんだよ、と胸をはっていらっしゃるとか。

「フォーヴス」でビル・ゲイツと一、二位を争う資産を、まったくのゼロから一代で築いたウォーレン・バフェットという投資家の神様みたいな人がおりますが、この人があるとき、こんなことを言ったそうな。

ポーカーのテーブルについて15分たって誰がカモだかわからなかったら、あんたがカモなのだ。

笑ってみていていいのかどうかわからないが、「資産効果で国民を豊かにする議員連盟」なんてのはカモの中のカモであることは、いくら素人のわたしにだってわかるぞ。

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2008/01/16

答えはもうある

「ユリイカ」の1月号の特集は南方熊楠。
池上高志と茂木健一郎の対話「われわれは皆クマグスである !?」のなかで、池上さんがこんな発言をしている。

だけど、本当に解きたい問題がある時は答えはもうあるということをなんとなく知っていることは結構大事だと思う。答えがあるかどうかを考える時は、それはすでに無意識に確認されているというか。

昨日、NHKの「クローズアップ現代」を見ていたら、例の人工多能性幹(iPS)細胞の発表で、再生医療の分野の研究に画期的なブレイクスルーを果たした京都大学再生医科学研究所教授の山中伸弥さんを国谷キャスターがインタビューしていた。
ほとんど無限にあるはずの遺伝子の組み合わせのなかで、このiPS細胞を作り出すたった四つの因子をどうやって特定していくのか、素人にはもちろんよくわからないが、山中教授のグループがヒトの皮膚細胞からこのiPS細胞をつくりだしたことを発表したちょうど同じ日に別のアメリカの研究グループもほぼ同じ結果を発表したそうだから、本当に解きたい問題に答えがあるときは、答えがあることがあらかじめわかっているというのはなかなか説得力のある知見であります。

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走れトロイカ

この頃は冬になってもそんなに寒さが厳しくなくて、あまりそういう気分がでないのだけれど、むかしは冬の歌の定番といえばダークダックスの「雪の降る町を」であった。(いつの時代やねん(笑))これは内村直也作詞・中田喜直作曲。
ほかにも、子供向けのたのしい歌としては北原白秋作詞・山田耕作作曲の「ペチカ」なんてのがなつかしい。「雪の降る夜は たのしいペチカ ペチカ燃えろよ お話しましょ」。
もうひとつ、よく歌われていたのがロシア民謡の「トロイカ」ではなかろうか。
「雪の白樺並木 夕日が映える 走れトロイカ ほがらかに 鈴の音高く」。

以下は米原万里の『真昼の星空』(中央公論新社)から。(「御者とタクシードライバー」)

米原さんはご存知のように小学校三年からプラハの外国共産党幹部子弟のためのソビエト学校に通った。授業はすべてロシア語。
中学二年の三学期に日本に帰国したが、ちょうどその頃、音楽の授業で「トロイカ」を習ったというのですね。
ところが、米原さんはそれがソビエト学校でも教えられた「トロイカ」の日本語版とはまさか思わなかった。
音楽の先生は「元気いっぱい陽気に歌いましょう」と指導し、歌詞も、ほがらかに鈴の音高く粉雪を蹴って恋人の待つ楽しい宴に向かう若人を描いている。

しかし、元のロシア語の歌は、もの悲しいというよりも陰鬱な響きで貫かれている。なにしろ歌詞の内容は、トロイカの御者が客の旅人にぶちまける悲恋物語なのだ。農奴上がりの御者が愛しい許嫁を、地主の旦那に奪われてしまった悔しさ惨めさがひしひしと胸を打つ。

これを読んで、わたしはなるほどそうだったのかと納得した。子供のころから、この歌にはどうも嘘っぽい感じがしてならなかったのである。
だって全然楽しそうじゃないじゃん。ロシア人というのはやっぱりあんまり寒いところに暮らしているから、なんか無理して必死で楽しいふりをするんだろうか、なんて思っていたのであります。(笑)
なんだ悲恋物語のメロディでしたか。それなら日本語でもちゃんとそういう歌詞にすりゃいいのにさ。

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2008/01/15

糸巻き

20080115a 奈良町の古本屋で三冊ばかり本を買った帰り、同じ商店街の古着屋の店先に置いてあって前から通りかかるたびに気になっていた糸巻き(なにか使い道がないかなあと思って気になっていたわけ)を買う。

たぶん、昔の織物屋で使っていたものだと思うのですが(「横山」という屋号の焼き印が二カ所ある)こういう道具はどこか味がありますね。
とりあえずブックエンドにでもしようかと思っているのですが、ネットで検索すると、これをランプにして「糸巻行灯」というネーミングで販売している会社もあるようです。ほかにもいいアイデアがあるかもしれない。

なお、奈良町の古着屋では籠のなかに無造作に放り込んでありますが、一個300円であります。

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栗木京子『けむり水晶』

『けむり水晶—栗木京子歌集』 (角川書店)を読む。
昨年、迢空賞(第四十一回)、山本健吉文学賞(第七回)、芸術選奨文部科学大臣賞(第五十七回)のトリプルクラウンに輝いた歌集。
栗木さんの歌では第一歌集の『水惑星』の一首

 観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生

を愛唱しているが、同じ世代(栗木さんは1954年10月生まれ)の歌人として、もっとも親しみを感じる歌人のお一人である。短歌誌をぱらぱらと拾い読みするときにも、この方の頁では目をとめてゆっくりと拝見するのがつねだ。本書についても、共感が深い。

本書の中に「いのち還らず」という長歌がある。
長歌という形式は、窪田空穂の「捕虜の死」のように慟哭や憤りをあらわすときに、現代においてもわれわれ日本人につよく訴えかける力があるのは実にふしぎだ。この長歌がやはりこの歌集のハイライトではないかという気がするな。読みながら涙があふれてならぬ。

いのち還らず

平成十六年九月、栃木県小山市で幼い兄弟が無惨に殺される事件が起きた。

長月の 長雨かなし その行方 案じられゐし 四歳の 兄一斗ちやん 三歳の かはゆき弟 隼人ちやん つひに遺体で 見つかりぬ 下野の国 大利根の 流れにそそぐ 思川 その名もあはれ 思川 思うこころの なかなかに 届かざるまま 亡骸は 流れの底に 眠りゐき 弟の身は 中州より また兄の身は 下流より 二日遅れて 見つけられ この世の光に 戻れども 幼きいのちの 灯は点らず ぬばたまの闇 深き闇 永遠なる闇に もの言はず 呑まれゆきたり いたいけな いのち二つを 奪ひしは 子らと同じき 家に住む 父の友人 なりといふ 日々虐待を 兄弟に 加えし男に 連れ去られ 無惨に殺され たりしとは さぞや恐怖に すくみけむ さぞや助けを 求めけむ さぞや怯えて 震へけむ さぞや泣きつつ 叫びけむ 子らの父親 涙して 死にたる子らに 侘ぶれども 子らの祖母また 声詰まらせ 手放せしこと 悔やめども そのかなしみは しんしんと 伝わり来れど きりきりと 胸に迫れど 父親も 祖母も等しく 罪負ふと 思へてならず なにゆゑに 地獄のやうな アパートに 二人の子らを 戻せしか 虐待おそれ 父の背に 子らは貼りつき ゐしといふ 父を慕ひて 父の背に 添ふにはあらず おのが身を 守らむがために 父親を 求めし子らの 絶望を 大人はいかに 知り得るや 知るすべもなし 頭を垂れて ごめんなさいと ただただに われは謝る ばかりなり ごめんなさいと ただただに われは冥福 祈るのみ アキツ飛び交ふ 秋空に 子らのたましひ いつの日か きつと還り来よ すこやかに 朝光となり 夕風となり

反歌

おびえつつまたアパートへ帰る道 子らは見たるか露草や萩
かなしかるふたつのいのち月の夜は食卓の上でピクニックしよう

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2008/01/14

陽美保子さんの俳句

「俳壇」2月号にて第22回俳壇賞の発表が行われている。
今回は菅野忠夫(春野)と陽美保子(泉)の二篇受賞である。
応募総数388。選考委員は友岡子郷、宗田安正、宮坂静生、黛執、片山由美子の五名。

受賞者のお一人である陽美保子さんは、わたしは直接お会いしたことこそないが、数年前までネット句会などでご一緒したことのある方である。
こんなことを言ってかえって失礼になってはいけないとも思うのだが、俳句の作り方の、いろはのいの字も知らないようなわたしが初めて参加した句会で(はは、いまでもほとんど進歩はありませんが)なるほど俳句の骨法とはこういうものかと啓蒙していただいたのが、この陽美保子さんのおつくりになる句であった。
その頃は、まだ陽さんご自身もたしか結社に入られてそれほど年数のたたない頃だったかに聞いていたが、早いうちに同人に推されたことをほどなく知った。

今回の「遥かな水」三十句を読みながら、ああ、やっぱりこの方の俳句は好きだなあ、と思った。
「言葉を軽々と使って心の弾みを表している」(宮坂)、「どの句にもこの人の特色である詩のあること」(宗田)という選考委員の評があるが、何度か句会の選やわたしの旧サイトの掲示板でのやりとりで、わたしなりに感じていた、この方のあたたかい人柄や聡明さがのびのびと出ていて、読んでいて、ほんとうに気持ちのほどけていくよい俳句である。
わたしたちの人生は、軽々したこと、明るいことばかりではない。それはだれにとっても同じで、この方についても例外であるはずがない。しかし俳句はつらいこと悲しいことを詠うよりも、それを乗り越えていくこころのかたちを指し示すのに向いている文芸なのではないかと、わたしは常々考えている。この方の俳句を、わたしが好きなのはそういう「かたち」を感じるからではないかと思うのだ。

三十句(どれも好きだが)のなかから十句ばかり選んでみた。

 湖面より空の始まる帰雁かな
 藁屑の高く飛んだる牧開き
 人ごゑのとどかぬ辛夷咲きにけり
 腰下ろす隣に蝮草の丈
 麦刈つて夕風かるくなりにけり
 砂山は叩いて作れ土用波
 またここに集つてゐる木の実かな
 遥かなる水かがやける浮寝鳥
 雨降つて山の消えたる鳰
 静けさに佇むことも冬木の芽

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2008/01/11

武部利男『白楽天詩集』

Hakuraku 図書館で借りた『白楽天詩集』武部利男(六興出版)があまりに素晴らしかったので、どうしても手に入れたくなってネットの「日本の古本屋」で金沢の本屋に注文。翌日に届いたのは、読まれた形跡のない美本でありました。便利な世の中になったもんだ。
1981年の発行だから、さすがに箱には、かすかに時代がついていますが、中身はハトロン紙に包まれ当時の出版社の注文票も頁に挟まれたままの状態。(なお箱の絵は富士正晴です)
わたしの手元に置いておいてもいいのだが、せっかくいい状態の本だったので、父への贈物にしました。

ひとつ前のエントリーで、「詠懐」の訳を紹介したように、この武部訳には漢字が一字たりとも使われていない、全百二十六首すべてカナガキというユニークな訳詩なのですね。
これについては、武部の師でもあった吉川幸次郎の文を引こう。

白楽天という詩人は、不幸な人の友だちであろうとして、誰にでもわかる言葉で詩をつづることに努力した。詩ができあがると。女中のばあやに読んできかせ。意見をもとめたともいう。この武部訳は、原詩のそうした方向を有効に生かすべく、ぜんぶカナガキである。
カナガキの日本語というものは、読みにくいのがふつうなのに、武部君のはふしぎにそうでない。
ふしぎな才能である。白楽天が武部君によって訳されることは、白楽天にとってもたのしいことであろう。

ユニークな訳詞といったが、あるいは人は、いやこういうリズムなら井伏鱒二に「厄除け詩集」があるじゃないかと言われるかもしれない。(あの「訳」詩については、どうやら井伏鱒二のオリジナリティということでもないようですが)
たしかに、わたしも「厄除け詩集」は大好きですが、あれは厳密には漢詩の和訳ではないですよね。漢詩をベースにして、翻案した日本語詩というのが正しいと思う。

これにたいして、本書がすごいのは、全編、ほとんど逐語訳といってもあながち間違いではないような原詩の忠実な翻訳でありつつ、大和言葉と日本語の音律を見事に響かせたまったく瑕のない日本語の詩であること。
わたしは、まず原詩から日本語訳、日本語訳から原詩、と何度も目を行き来させその見事な対応に「ほぉ」と感嘆した。
しかし、もっとわたしが驚いたのは、じつは、そういう漢語と日本語の目の行き来を堪能した後で、今度は純粋に日本語詩として、たとえば「長恨歌」だととか「琵琶行」といった少々長めの漢詩を(漢文読み下し方式では、わたしの力では途中で力つきるが)すらすらと流れるように読めたときの感動である。ああ、これはそういう詩だったのか、とやっと初めてこれらの作品をほんとうに理解できたような思いにとらわれた。

「ながい うらみの うた」の最後の部分、漢詩の方を書かずに武部訳だけを紹介しましょう。たぶん多く方はそらで漢文の読みができるはずですが、それをこんなふうに詠ってみるのも面白いと思っていただけるのではないでしょうか。

しちがつ なぬか ほしまつり
リザンの みやの チョウセイデン
まよなか だれも いない とき
ふたりで そっと ささやいた

てんへ いくなら とりとなり
つばさを つらねて とびたいね
ちじょうに いるなら きと なって
えだ からませて すみたいわ

てんちは ながく ひさしいが
いつかは かならず つきるでしょう
この うらみだけ めんめんと
つきはてるとき ないでしょう

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2008/01/06

白楽天

詠懐     おもいを うたう

盡日松下坐  まつの した ひねもす すわり
有時池畔行  いけの はた ときたま あるく
行立與坐臥  あるいても すわっていても
中懐澹無營  きに かかる なにごとも ない
不覺流年過  しらぬ まに としつきが たち
亦任白髪生  めっきりと しらがも ふえた
不爲世所薄  せけんから ばかに されなきゃ
安得遂閑情  のどかには くらせぬ ものよ

(武部利男訳)

本年もよろしくお願いいたします。

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12月に読んだ本

『満州事変から日中戦争へ—シリーズ日本近現代史〈5〉』 加藤陽子(岩波新書/2007)
『はじめての雪—歌集』佐佐木幸綱(短歌研究社/2004)
『森銑三遺珠1』(研文社/1996)
『享保期江戸俳諧攷』楠元六男(新典社/1993)
『恋愛療法』デイヴィッド・ロッジ/高儀進訳(白水社 /1997)
『ページをめくれば 』ゼナ・ヘンダースン/安野玲訳・山田順子訳(河出書房新社 /2006)
『アジア・太平洋戦争—シリーズ日本近現代史〈6〉』吉田裕(岩波新書/2007)
『最終戦争論』石原莞爾(中公文庫BIBLIO20世紀)
『森銑三遺珠2』(研文社/1996)
『詩魔—二十世紀の人間と漢詩』一海知義(藤原書店/1999)
『アレクサンドリア四重奏 I ジュスティーヌ』ロレンス・ダレル/高松雄一訳(河出書房新社/2007)
『新星座巡礼』野尻抱影(中公文庫BIBLIO20世紀)

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12月に見た映画

逆境ナイン
監督:羽住英一郎
出演:堀北真希、玉山鉄二、田中直樹

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