連句、鈴木漠という詩人
『連句集 壷中天』鈴木漠編(書肆季節社)という本を奈良の古本屋でもとめたのは、もともと内容や作者に関心があったからではない。たんに手にとったときの感じがよかったからにすぎなかった。箱入りの美しい本だが、その重さや大きさも、わざわざ立派な箱を誂えるまでもないような百頁ばかりの薄さも好ましかった。つまりは装丁にひかれて買ったというわけだ。
本を蒐めることにさほど執着のないわたしにしては珍しいことであります。
ところが、この連句集、読んでみてなかなか面白かった。
俳諧連句というのは、たとえば芭蕉七部集をそのまま読んで十分に楽しめるという人はほとんどいないと思う。現代のわたしたちが、これを読むときには、幸田露伴や安東次男の評釈に頼ることになるのが自然である。しかし、露伴にしても安東にしても、その評釈の精緻というか嫌味なまでの博覧強記に毒気を抜かれ、いかん、連句などというのはとても素人の手に負えるものではないと、かえって読者を遠ざけるような気配もないとは言えぬ。
なるほど、俳諧連句の評釈というものはありがたいものである。だが、芭蕉や蕪村の時代にまでさかのぼるならばともかく、現代の人々が巻いた歌仙を読むのであれば、なにも古今の典故に通じた博雅な人物でなければ、それを読んでも楽しむことはできぬと決めつけたものでもないだろう。
俳句や短歌や和歌のような短詩であれ、近代詩、現代詩であれ、漢詩や翻訳詩であれ、すべて詩というものは、もし評釈があればわたしたちはそれを読んで、なるほどそんな出典がこの詩句の背後には隠されていたのか、と興を覚えることはあるだろうが、しかし、そういう評釈などなくても、詩を読む楽しみは味わえると思っているはずだ。
同じように、現代作家による連句も、もっと気軽に読んで、なんかいい感じだなあ、とか、なんかいまいちだなあ、これは、とか思えばいいのだと思う。
偶然に知った、この鈴木漠という詩人の詩句が、連句の中でもよく利いているなあと感心したので、現代詩文庫(162)の『鈴木漠詩集』を探し出して読んでみて、さらに興味をそそられた。詩というのは、読者との相性というのもあるのだろうが、じつにいいのである。ちなみに、この『鈴木漠詩集』に収められた「作品論・詩人論」の筆を執っているのは塚本邦雄と清水哲男である。もっと一般の読者に知られるべき詩人だと思う。
(たとえば塚本邦雄が絶賛する 『妹背』は、こちらで読むことができるようだ)
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