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2008年2月

2008/02/22

松岡青蘿という俳人

Kuniharu Shimizuさんに教えていただいた『江戸俳画紀行』磯辺勝(中公新書)はとても面白い。
俳画という切り口で、江戸期の俳人を紹介していくというのは、めずらしいようだが、考えてみると、俳諧というのはもともと画賛などで、絵と一緒に味わうほうが本来だったのかもしれない。
著者は、俳画の収蔵品をもとめて日本各地の文学館や図書館を訪ねたり、俳人ゆかりの寺を探しては掃苔にこれつとめたり、それでいて、江戸期の発句集、評伝や資料などの文献の渉猟もおこたりない。俳号は磯辺まさる、結社は黒田杏子主宰の「藍生(あおい)」だそうだが、こういう人が、さしてでしゃばることもなく、静かにさりげなくいたりするから俳句の世界は油断がならない。(笑)

本書の中で、わたしが注目したのは、松岡青蘿(せいら)の発句についての次のような記述だった。

月の夜は地に影うつる蛍かな
戸口より人影さしぬ秋の暮
蘭の香は薄雪の月の匂ひかな
薄霧に花の香あらんけふの月
苦しみをはなれて動く生海鼠哉
荒波に人魚浮けり寒の月

一読、月の句が多いことに気づかれるだろう。辞世の句も月であったが、青蘿は日の光よりも、月光の世界に心を寄せた人のようである。こうした青蘿の句を、かつて詩人の日夏耿之介は、「象徴句風」と呼び、蕪村に次ぎ、暁台と比肩できる俳人であるとした。その後、やはり詩人の中村真一郎が、日夏に共感し、青蘿を「江戸俳人中の最大のサンボリスト」であると言っている。

そして、『青蘿発句集』(玉屑編)から、青蘿自身のこんな言葉を紹介している。

予人に会するごとの夜、此幻術の箱をひらきて、眼前に海山をつくり、厳寒に花を咲かせ炎天に雪を降す。是無幻の幻なり。幻人幻境に対し、幻境もまた幻なり。

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2008/02/20

めがね

Screencapture1

近所のシネマで「めがね」を見る。
先日(2月16日)のベルリン国際映画賞でザルツゲーバー賞をとったそうであります。

わたしは、大企業や広告代理店がからんだロハスだとかスローライフだとかいうごたくが好きではありません。そういうたぐいのCMや広告を見るたびに「けっ」と思うような人間ですので、この映画についても、率直に言えばずいぶんと辛辣な感想も抱くのではありますが、まあ、わざわざそんな人のいやがるようなことを書いても仕方がない。
気に入ったところを書きましょう。

荻上直子監督の前作「かもめ食堂」の成功の要素のひとつは、ふだんのわたしたちの食べ物—おにぎりやしゃけや豚の生姜焼きなどを、いかにも自然においしそうにクローズアップでスクリーンに映し出して見せた手柄だと思います。こんなふうに、なんでもないように撮るのは、ほんとうはすごくむつかしいはずなんですね。

Screencapture_2 「めがね」では、これをさらに洗練させたかたちで見せています。お昼時のちょうどおなかが空いた頃の時間帯に見たものだから、よけいお惣菜がおいしそうに見えました。大きな伊勢エビをひとりひとりが一匹まるごと、ばきばきと折りながら豪快に食べるシーンもよかったのですが、いちばん参ったのは、梅干しですね。生唾がわいて、わいて。(笑)
Screencapture
もたいまさこは「かもめ食堂」のマサコさんをそのまま持ち込んだような演技で、それがいささかやり過ぎの感があって、ちょっといただけなかったのですが、今回は市川実日子と加瀬亮が映画を救っていましたね。このふたりがいなかったら、この作品の印象はまたかなり違った感じのものになっていただろうと思う。

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2008/02/19

句会小説はいかが

Haihu3reija1_2 これまでありそうでなかった小説というのは面白い。
三田完の『俳風三麗花』(文藝春秋)は帯のキャッチを引けば、「本邦初の句会小説!?」。
本邦初かどうかはともかく、たしかに俳句の世界をモチーフにした小説は珍しくはないが、本書のように句会そのものに焦点をあてた小説は、わたしはほかに知らない。

オハナシは、昭和七年の梅雨明け前後から昭和九年の立春までの東京を舞台にした、五話の連作短編である。
五・一五事件や松岡洋三の国際連盟脱退、滝川事件に小林多喜二の虐殺、満州国建国、皇太子誕生の提灯行列などがこの物語の時代背景として走馬灯のように流れてゆく・・・

日暮里の暮愁庵で毎月開かれる句会は、主人の暮愁先生がやもめの数学教授。写真館の主である穂邨や古本屋の南海魚、三井合名のサラリーマン、政雄、筆職人の銀渓などの俳句好きにまじって、なぜか妙齢の美女が三人加わった。暮愁先生の友人だった父の遺志をついで俳句に精進するちゑ、震災で両親を亡くした女子医専の学生である壽子(ひさこ)、それに浅草の花柳界をこれから背負って立つという松太郎姐さん—というわけでこの三麗花の恋模様と俳句がちょっぴりくすぐったいタッチで描かれる。
これはなかなか拾い物のよい小説。

本書では暮愁先生はホトトギス会員で、虚子からもその力量を買われているという設定なので、おそらく暮愁庵句会の手順は、ホトトギス系の結社に共通のものだろう。

全員がそろうと、最初に暮愁先生が半紙に席題などをさらさらと書いて鴨居に鋲留めする。

  席題 端居 守宮
  投句 各一句
  〆切 二時
  選句 三句(うち天一句)

一時間で席題の二句をつくって投句する。投句は半紙を切って作った短冊で行う。
誰の句かわからないようにするために清記を行うが、達筆の筆職人銀渓さんが半紙数枚に墨書し、席題を書いた紙の隣に張り出す。(いまはコピー機で人数分焼くことが多いだろう)
つぎに各人は三句選んであらかじめ配られた句箋にその句を記入し選者である自分の名前を右下に記す。選んだ三句のなかでもっともよいと思う句の上に「天」と書いて提出する。提出するのは披講の係の人の前である。
披講係は声のよい政雄さんで、まず披講係その人の選からはじまる。並選ふたつを読んでから天を読む。
披講係によって自分の句が読み上げられた作者は、すかさず「松太郎」というように自分の俳号を名乗ることになっている。
一通り披講が終わると、自分の句に天がいくつ並選がいくつ、というように、その日の成績があきらかになるので、最後に合評に移る。
とまあ、これが普段の暮愁庵句会の進め方である。

気づくのは、席題が季語であること。わたしが参加する句会では逆に季語は席題にしないのが普通。それから、投句数が一時間で二句ということ。これはかなり少ないね。わたしの知っている句会では一時間で六から八句くらいを課すことが多い。これはつまりじっくり時間をかけて推敲することを重視するか、一種の自動筆記のような効果を狙って自分でも意外な詩想の発見の機会を重視するかということの違いかもしれない。
あとは披講のやり方。これはこの時代のホトトギスの方式だろう。わたしたちの場合は、岩波新書の『俳句という遊び』方式である。つまり、作者を伏せていろいろ講評をおこなってから、ではこの作者はどなたでしたか、と聞いていくやり方だ。

いずれにしても、句会の模様が物語の付け足しではなくて、むしろ軸であることや、俳句好きの人間の心のうちがよく描かれていることなど、出色の俳句小説ではあるまいか。

なお本書は昨年の直木賞の最終選考に残った作品である。もし受賞していたら、低迷気味の俳壇のカンフル剤になったかもしれないなあ。

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2008/02/17

アレクサンドリア四重奏

ロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』四部作をやっと読み終える。
今回の「月刊みすず」の読者アンケートでも、何人かの人が、昨年印象に残った本としてこれをあげていた。もうずいぶんむかしの作品(英国での初版が1957年)だが、昨年に新版が、初版のときと同じ翻訳者によって刊行されたのですね。もちろん、わたしは読むのは今回がはじめて。

言うても、たかだかハードカバーの本が4冊にすぎないので、二週間もあれば十分読めるくらいの分量なんですが、わたしの場合、はじめの「ジュスティーヌ」を読み終えたのが去年の12月26日、「バルタザール」が1月19日、「マウントオリーヴ」が2月6日、そして最終巻の「クレア」が今日と、なかなか一気に読めるような軟弱なヤツではなかった。(笑)

よかったですか、と訊かれると、すごくよかったですと、いばって答えたくなるのではありますが、じつはこれは読み通すのにすごく苦労したので、読了したことに対する「自分を褒めてやりたい」症候群のせいかと思われます。

はっきり言って、最初の「ジュスティーヌ」を読んで、あ、もうやめ、これは合わんわ、と思ったね。ようわからん。
しかし、どうも気になるので、「バルタザール」を読むというと、ますます、ようわからんのであります。(しかしその文章の濃密さや詩の毒には酔ってしまう)
こうなると、次読んでも、やっぱりようわからんのやろか、と思うよね。ところがですね、困ったことに「マウントオリーヴ」読むと、これが予想に反して全然よくわかるんだなあ。(この巻は間違いなく面白い小説です)
で結局、最後の「クレア」まで引きずられてしまった。通読すると、まあ、ようわからんところも残るのですが(と言っても、「わかる」ために読み返す気には当分はならん)さすがに、いや、こらすごいわな、ということになる。はいはい、ゲージツやね、と半分皮肉をこめてですけれども。(笑)

この『アレクサンドリア四重奏』は三島由紀夫も絶賛していたそうですが、そういえば『豊穣の海』もこのダレルを読むと、その影響がどこかに感じられるような気がしないでもない。(まあ表面上はぜんぜん似たところはないけれど)

ところで、冒頭に書いたように、この四部作は翻訳者である高橋雄一が、大幅な改訳をしたもの。略歴などから逆算すると、最初の翻訳をおこなったのはまだ27歳か28歳のころであったはずです。
「クレア」の「訳者あとがき」に当時のことが書かれている。
出版業界の約束事などなにも知らなかった20代の若造にこの仕事を振ってくれたのは、当時名編集者として知る人ぞ知るという坂本一亀だった。

五十年前の初夏の日射しの明るい日曜日に、窓を開け放って仕事をしていると、同じ沿線の二駅ほど離れた町に住む坂本が自転車で訪ねて来た。散歩の途中だと言っていたが、心配になって様子を見にきたということもあったのだろう。後ろの台に五、六歳くらいの男の子が乗っかっていた。

—とここまで書けば、やあ、そうでしたかと、このあとの展開がわかる人にはわかるだろう。この荷台の男の子、坂本龍一なのでした。

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2008/02/16

小さい牛追い

2268149021_3781ef6b87_2 岩波少年文庫の創刊は1950年12月のクリスマス。
『宝島』『あしながおじさん』『クリスマス・キャロル』『小さい牛追い』『ふたりのロッテ』の5冊が第一回配本として発行された。
このなかで『小さい牛追い』という本のことはわたしはこれまで聞いたことがなかったのだが、このシリーズの50周年を機に編まれた『なつかしい本の記憶』には、いろんな人がこの本がどんなに素敵だったか、その思いを語っている。
訳者は当時この少年文庫の創刊を担当した石井桃子さん。

その『小さい牛追い』の新版には「解説」として当時15歳だった中川李枝子さんが思いでを寄せていらっしゃる。
李枝子さんのお家では、お父さんの東京出張のお土産として、子供たちにこの岩波少年文庫を買って帰るのがならわしだった。(敗戦後5、6年のことである。日本中が活字に飢えていた)
もちろん、兄弟姉妹に一冊ずつというような贅沢はできない。みんなにあげるのだからねと言われていた。当然、子供たちもそれで納得し、岩波少年文庫はお友達にも貸すことの出来ないみんなの宝物であった。

2266305629_35461ae09a_3 ところが、この『小さい牛追い』だけは、9歳の妹が、中をぱらぱらと見るなり「この本はわたしのもの!」と断固として言い張ったというのでありますね。
その理由は、最初のほうにある挿絵がどうも気に入ってしまったかららしい。この絵の小さな女の子と自分をすっかり一緒にして夢中になっちゃったのであります。

『小さい牛追い』というのはノルウェイの北の方の農家が舞台です。子供が四人おりまして上の二人が男の子。下の二人が女の子。どの子も自分の牛を一頭持っています。(いいなあ)
この絵のところをちょっと引きましょう。

まい日、夕方、おかあさんが牛乳をしぼる時間になると、インゲリドとマルタは、それぞれ、小さい箱にこしかけて、おかあさんが顔をぶたれないように、じぶんたちの牛のしっぽをつかまえていました。

うーん、これは、まいったね。(笑)
ところで、中川李枝子さんは、のちに『いやいやえん』で、作家としてデビューしますが、この本の絵を担当したのが、『小さい牛追い』に夢中になった妹の百合子さんでした。
『なつかしい本の記憶』には、このおふたりの対談が収められていて面白い。オススメです。

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2008/02/13

メタボリックなんて怖くない(嘘)

ええと、わたしの成人病検診は誕生日の関係で2月中旬なんですが、それを意識して、急にダイエットなど始めるのはまったく意味がないと、毎年連れ合いに言われる。(笑)
ま、最近は義理チョコという悪慣習はほぼ廃れたようなので、それは大丈夫なのだが、甘いものをここしばらく我慢している(嘘)。というわけで、今年もせめて写真でなりと・・・
みなさまにもお裾分けをば。
Happy Valentine's Day!

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2008/02/12

On Chesil Beach by Ian McEwan

They were young, educated, and both virgins on this, their wedding night, and they lived in a time when a conversation about sexual difficulties was plainly impossible.

イアン・マキューアンの『ON CHESIL BEACH』はこんなふうに始まる。ペーパーバックで170ページばかりの中編小説である。
1962年の夏、ドーセットの海岸沿いのホテルに投宿した新婚夫婦の初夜を克明に描く—なんて言うと、うーん、あんまりいい趣味じゃないな、と思われるかもしれないが、たしかにそんな面もないとはいえない。

2008_0212 実際のところ、この小説は一歩間違うと、ポルノグラフィーになりかねないし(その性描写が「法医学」みたいだなんて書評もある)、またコメディーにしてしまうことだって十分に可能なんだけど(「ひとのセックスを笑うな!」)、読後の印象はまったくそういうものとは異なる。
すごく苦いんだけど、それが不快な苦さではなくて、気がつくと清々しい記憶になってあとにのこる、そんな感じと言えばやや近いかもしれない。

先日、行方先生の英文の読み方の本で、反省しきりでありましたので、この本は(短いこともあり)自分としてはかなり精読したつもり。また、物語の性格から言って、過去完了や仮定法を意識して読む必要がありまして、なかなか英文読みの訓練には向いた作品だと思いました。その典型的な例は、結末の部分なので、ここでそれを引用しようかとも思ったのですが、いやいや、それはネタバレになって具合が悪いなあと思い直しました。

いずれにしても、ゆっくり読み込むと、どの文章もしみじみ味わい深く、ラストのページまできて、おもわずこころを激しく揺すぶられて泣いてしまう、じつに見事な小説でした。

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2008/02/11

穂村弘の短歌

20080211 穂村弘の『シンジケート』と『ドライ ドライ アイス』の新装版が図書館の書架に並んでいた。
とくに『シンジケート』はなかなかオシャレである。装釘は藤林省三。
穂村の歌は、ブーフーウーとか、降りますランプとか、ゆひらとさわぐとかは、するすると口をついて暗唱できるが、よく考えたらどれも現代短歌のアンソロジーなどから、ノートに抜き書きして憶えたもので、歌集として読んだことはこれまでなかった。だって、図書館などにも置いてなかったもんね。
この新装版は、どちらも2006年に沖積社から出たものだが、こうして歌集として再度、一般の読者の手にとれるかたちで流通するのはとてもうれしいことであります。

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて

体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ

「キバ」「キバ」とふたり八重歯をむき出せば花降りかかる髪に背中に

新品の目覚めふたりで手に入れる ミー ターザン ユー ジェーン

ねむりながら笑うおまえの好物は天使のちんこみたいなマカロニ

ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり

「自転車のサドルを高く上げるのが夏をむかえる準備のすべて」

抜き取った指輪孔雀になげうって「お食べそいつがおまえの餌よ」

「海にでも沈めなさいよそんなもの魚がお家にすればいいのよ」

(『シンジケート』)

「奇麗なものにみえてくるのよメチャクチャに骨の突き出たビニール傘が」

「人類の恋愛史上かつてないほどダーティな反則じゃない?」

(『ドライ ドライ アイス』)

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2008/02/07

独吟半歌仙「鬼やらひの巻」

鬼やらひ炎の粉を貰ひけり

  むかし平家の落ちし梅林

つばくらめこよと表の戸を開けて

  ぬけた八重歯を瓦に抛る

繊月の夜に異国にゆきし友

  しり端折りして硯を洗ふ

早稲酒に酔ふて十八番の安来節

  社長室より皇居見下ろす

たしなめるつもりがかかる恋の罠

  朝のルージュをきりきりと引く

赤い目に何を摘もうか雪うさぎ

  悉皆生滅無常迅速

洋上の補給艦にも月凉し

  三代前は団扇職人

上京のしもた屋間口二間半

  ゆうべの菜飯ののこりをむすぶ

花筏見ては長生きしたと言ふ

  霞たなびくここぞ青山

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2008/02/06

はてなで連句のひとり遊び

「はてな」が新しく「Hatena Haiku」というシステムの運用をはじめたので、これをつかって連句の独吟でもしてみるかと思い立つ。
「Hatena Haiku」といっても、このサービス自体はべつに俳句と直接関係があるわけではない。
ごくごく短い会話をユーザー同士で楽しむミニブログというのがコンセプトのようである。
一、二行書いて、ぽん、と投稿するのが「ハイク」みたいだというのでこういうネーミングにしたのかな、よく知らないが。
でもまあ、たまたまではあれ「haiku」と名付けられているシステムなら、ハイク的な使い方を誰かがしてやるのもいいのではなかろうか、と思ったのですね。

とりあえず、独吟で半歌仙くらいをやってみようと思うのだが(こちら)、できれば時系列に積み上がる方式と下に並んでいく方式の選択ができると使えるような気がするなあ。
あと、もしかしてやり方があるのかも知れないが、字句の修正があとからできないようなので、この点でもこのシステムで歌仙を数人で巻くのはちと問題がありそうである。
しかし、こういう使い方する人はあまりいないだろうなあ。「Hatena de Kasen」なんてシステム、わたしのために開発してくれないでしょうか。(笑)

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2008/02/05

アメリカ

フェルナン・ブローデルの『文明の文法 2』(みすず書房)より、アメリカの南北戦争についての解説。

  1. 工業地域の北部は高関税政策を求めたが、綿を輸出する南部はむしろヨーロッパから品質もすぐれた工業製品を輸入する方がよいとし、門戸開放政策を主張した。
  2. 紛争の政治的側面—権力を争う共和、民主の二政党は、それぞれ南部連合の民主党、北軍派の共和党と分かれ、対立した。
  3. この対立は、西部に創設された新しい諸州がどちらのブロックに帰属することになるのか、という争点をはらんでいただけに、いっそう激しいものとなった。
  4. 現実にこの危機はひとつの深刻な問題をなげかけていた。つまり、連邦に統合された個々の州は、連邦の中央政府によって決定されたあれこれの諸施策に反対することができるのか否か、またそうした諸州は連邦を出る、すなわち離脱する権利があるのか否か、という問題であった。〔南北戦争は「離脱(脱退・分離)戦争」とも表現される〕

奴隷制度廃止をめぐる対立から内戦(1861年-1865年)に突入した事態は、かようの背景が表面化したものであったと説明する。

さていよいよスーパー・チューズデーである。

わたしの予想は、オバマの勝利だろうというものだ。さして根拠はないが、ヒラリーにたいしては嫌いな人は、ほんとうに大嫌いという人が多いらしいからだ。現にわたしも一人、知っている。"She rubs me the wrong way."とわたしに顔を思い切りしかめて言いました。(笑)
もうひとつ、去年の「Foreign Affairs」( July/August 2007)に、オバマが寄稿した「Renewing American Leadership」という論文が感銘深かったことがある。もちろん、全部彼が書いたとは限らないだろうが、控えめに言っても、これはかなりの政治家である。演説も巧みですね。大阪府知事になった橋下氏の街頭演説をテレビで見てたら、演歌歌手がステージでコブシをきかせているみたいでびっくりしたが、ああいうバカ丸出しの絶叫とオバマの雄弁な演説を比較すると、一流の政治家の資質とはどういうものか、三流の政治屋の質の悪さがどういうものか如実にわかるような気がする。

若い黒人(ただし彼はかつての奴隷の子孫というわけではないようですが)政治家がアメリカの統合、再結束を訴えて、一気に大統領候補にまで駆け上がる、というのもまた歴史の面白いところでありましょうか。

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2008/02/01

英語が一皮むけそうな本

He is not so busy that he can't go for a walk now and then.

たとえば、いきなりこの短い一文だけが書かれたメモをぽんと渡されて、「ねえねえ、これってどういう意味?」と尋ねられたとします。
一読、すぐに、「ああ、これはね・・・」と答えられる人は、英語がかなりできる方ですね。
ある程度、英語が読める人でも、あくまでそれは外国語にすぎないという人にとっては、ワン・センテンスだけを取り出して、前後の文脈がわからない状態で「翻訳してちょうだい」と頼まれるのは、ちょっと困る。小説などは多少わからない箇所があっても、長丁場ですから、読み進めていくうちにあとから理解できたりするわけですが、そういうことを長々説明しても「なーんだ、英語の本なんか読んでるから、英語がデキルのかと思ってたのに」などと冷ややかな視線を浴びたりして。

ただし、上記のセンテンスくらいなら、一読で意味が正しくとれなくてはだめであります。
え、わたし?いや、あなた、ものにはコンテキストというものがあるのだから、いきなりこれだけ見せられて訳せっていわれても、ごにょ、ごにょ・・・(笑)

行方昭夫先生の英文の読み方に関する本を三冊読んだ。

 『英語の発想がよくわかる表現50』(岩波ジュニア新書)
 『英文の読み方』(岩波新書)
 『実践 英文快読術』(岩波現代文庫)

2008_0201 ある意味で、どれも「打ちのめされる」ような本であります。
いや、嗤われても仕方がないのだが、わたしは英語の読みについては、まあ、そんなにひどくはないだろうと自惚れていたのですね。エンターテインメントの小説はもちろん、ときにはブッカー賞受賞作だって英語で読むことがあるし、まあ、多少、手こずったり途中で意味がたどれなくなるようなことがあっても、それはそれで勢いで読めばかまわないじゃんかと思ってきたのであります。

ところがですね、今回、行方先生の本を読んで、わたしはいかに自分が英語が読めていなかったか思い知らされたのであります。
言ってみれば、わたしは盛り場のストリート・ファイターのようなものでありました。いきがって、無敵の大将のつもりでいたら、たまたまからんだ相手が世界ランキングのプロ・ボクサーだった、てな感じであります。
いや、初心に返ってベンキョーしよう。(笑)

ええと、すこしだけ行方先生のとっておられる立場を紹介しておきます。

岩波新書『英文の読み方』へのコメントとして,数人の英語を教えている方から,「自分はいちいち訳さないで英語のままで理解させるようにしてきた.そのほうが時間の節約にもなると思っていた.しかし,何かの機会に訳させてみたら,浅い理解しかしていないのを発見して愕然としたことが少なくなかった.複雑な英文は日本語に移させてみるべきだと思うようになった」という趣旨の手紙をいただきました.むろん私は同意見です.きちんと読むのが主目的ですが,きちんと読めたか否か,それは日本語に直した場合に,手早く判明するというのが私の見解です.
『実践 英文快読術』p.63

あ、そうだ。
冒頭の英文、蛇足になるかもしれませんが、一応、解説しておきます。これも、『実践 英文快読術』から。(この本にはノエル・カワードの戯曲『私生活』がほぼ丸ごと入っていますから、そういう意味でもすごくお得。きちんと読めなかった方はどうぞお買い求めくださいませ)

He is not so busy that he can't go for a walk now and then.

「彼はとても忙しくないので,時々散歩に行けない」では,何のことやら不明です.not が否定しているのはどの部分かを考えるのが大事です.この訳は so busy だけを否定していると取ったので,混乱したのです.そうではなく,so busy that he can't go for a walk now and then 全体を否定しているのです.それで,まず否定されている部分を「時々散歩に出ることも出来ないほど忙しい」と捉え,これ全体を否定して,最後に「というようなことはない」とすればよいのです.p.46

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1月に読んだ本

『Private Wars』Greg Rucka(Bantam Books/2007)
『頭痛肩こり樋口一葉』井上ひさし(集英社/1984)
『岡井隆の現代詩入門—短歌の読み方、詩の読み方』(思潮社 /2006)
『白楽天詩集』武部利男(六興出版/1981)
『中国文明の歴史』岡田英弘 (講談社現代新書/2004)
『文明の文法〈1〉』フェルナン・ブローデル/松本雅弘訳(みすず書房/1995)
『けむり水晶—栗木京子歌集』(角川書店/2006)
『真昼の星空』米原真理(中央公論新社 /2003)
『セレクション俳人 10 高野ムツオ集』(邑書林/2007)
『連句集 壷中天』鈴木漠編(書肆季節社/1983)
『アレクサンドリア四重奏 2 バルタザール』ロレンス・ダレル/高松雄一訳(河出書房新社/2007)
『英語の発想がよくわかる表現50』行方昭夫(岩波ジュニア新書/2005)
『鈴木漠詩集』(思潮社 /2001)
『英文の読み方』行方昭夫(岩波新書/2007)
『静かな水—正木ゆう子句集』(春秋社 /2002)
『連句集 海市帖』鈴木漠編(書肆季節社/1989)
『実践英文快読術』行方昭夫(岩波現代文庫/2007)
『うさはらし』松平盟子(砂子屋書房/1996)

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1月に見た映画

スモーキン・エース
監督:ジョー・カーナハン
出演:ライアン・レイノルズ、アリシア・キーズ 、レイ・リオッタ、ジェレミー・ピヴェン、コモン、ベン・アフレック、アンディ・ガルシア

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