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2008年3月

2008/03/27

光厳天皇と岩佐美代子(3)

さて、ここで帝王教育のこと。
前回書きましたように、花園天皇は甥の量仁親王(光厳天皇)を立派な天皇にすることが自分の役割であるとされたわけですけれども、ではどんな教育を施されたのか。「誡太子書」という花園天皇が量仁親王に与えられたものが残っておりますそうで。
それによれば「詩・書・礼・楽に非ざるよりは、得て治むべからず」とか「思ひて学び、学びて思ひ、経書に精通し、日に我が躬に省みる」といったお言葉がある。君たるもの、慎み畏れて責務を果たさねばならぬ。この衰乱の世に当っては、詩・書・礼・楽の儒教の大本を修め、我が身を反省して深く学び深く思うよりほかに、乱国に立つ道はない。夜を以て日に続ぎ、宜しく研鑽せよ、というのがその帝王教育の骨子であった。要するに儒学であります。

そもそも天皇の責務とはいったいなんでありましょうか。天皇はいまだってそうですが直接、国の政務を執るわけではない。
これはおそらく反対から考えたほうがいいのですね。つまり、なぜ地震や噴火や気象変動がかくもわが国を襲うのであろうか。なぜ太平がやぶれ乱逆非道が世にはびこるのであろうか。なぜ旱魃や冷害や蝗害によって民が飢餓にうちひがれねばならないのであろうか。なぜ強大な異民族がわが国を襲い侵攻してくるのであろうか。
それはすべて天子に徳がないからである。帝が天から嘉されるような存在であればそのようなことはおこらないはずである。

もちろん現代のわれわれから見れば、失政によって人々がひでえ目にあわされる(60年前の戦争が典型的ですが)ことは当然あるが、いくら天子さまが聖人のような方であっても天変地異はそれとは無関係に起るし、旱魃、冷害、蝗害なんていう惨禍だっていくら必死になって天皇さんが古代からの儀式をやっても、そんなことは屁のつっぱりにもならない。天皇さん個人が「思ひて学び、学びて思ひ、経書に精通し、日に我が躬に省みる」とがんばることと、国が平和で繁栄し、民が幸せであることとのあいだに直接の関係はないというのが「科学的」な認識というものでしょう。しかし、鎌倉末期の人々もわれわれと同じように考えたとは限らない。すくなくとも、花園さんの帝王教育は、天子の責務をまあナイーブにとらえていたことは間違いないでしょう。聖人の道に外れないように努力し続けることが天皇の「お仕事」なんである、というわけですな。
そして、量仁親王は二十歳で即位され光厳天皇となられるのですが、そのあとも南北朝の戦乱のなかで非常な苦労をされるのであります。最後は山寺(常照皇寺)の一老僧として、戦没者の霊を弔いながら生涯を終えられた。そのときの遺言はこのお話の最初の回に書きました。

こういう光厳天皇がお受けになられた帝王教育というのは、しかし歴代天皇のなかでもかなり異例であるというのです。なぜなら、天皇というのは前回にも書きましたが、まあ子供のときに践祚するほうがふつうです。実質的な政治は院となったお父さんがみたのですね、だから、子供のときからこんな辛気臭い、衰乱の世に当ってはとにかくオベンキョーするんだよ、みたいな帝王教育はなかった。ところが、こどものときに同じような帝王教育を、はからずもお受けになった天皇さんがやはりいらした、というのです。ということで以下が、ようやく岩佐さんのことでわたしがびっくりしたというオハナシに戻ります。

わたしが光厳院に特別の関心を寄せますのは、これまで申し上げました理由によるものでございますけれども、もう一つ大変プライベートな理由がございまして。これは申し上げていいのかどうかと思いますけれども、昭和二十年の八月十日、終戦の五日前に、宮内省の組織の中で、これまでの皇后宮職から東宮職が独立いたします。その時、私の父親、穂積重遠が東宮大夫になりました。父は民法学者でございまして、常識的に言えばやや異例な人事ではございましたが、実は終戦処理の一環で、娘が申しては恐縮ですけれども、穏健なリベラリストで、アメリカやイギリスに反感を持たれない人、という人選であったと思います。その新聞報道を見て、あ、これは戦争が終わるな、とお思いになった方も多かったというふうに伺っております。その御奉公始めというのがまた、奥日光の湯元に疎開中でいらした、小学校六年生の東宮さんの所へ上がりまして、侍立して八月十五日の終戦の詔勅を承り、その意味を東宮さんにお話し申し上げるというのが最初のお勤めであったという、えらい事でございました。まさに土崩瓦解の中で現天皇の帝王教育が始められたのでございます。

穂積重遠やその父、穂積陳重についてはべつにわたし自身、それほど詳しいわけでも、その著作を読んでいるわけでもないので、ここで説明はいたしません。ご存知ない方はググッて調べてください。穂積重遠の娘であるというところで、びっくりなさる方もあるでしょうし、渋沢栄一の孫であるというところでびっくりされる方もあるでしょう。
いや、わたしは、うかつにも、岩佐さんという方を、国文学者で、子供時代に宮中に出仕されたこともある方だというくらいの認識しかなかったので、この記述を読んで思わずのけぞったというわけでありました。

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2008/03/26

光厳天皇と岩佐美代子(2)

系図を参照しながらお読み下さい。結構ややこしいよ。
光厳天皇がお生まれになった正和二年(1313)前後の皇位を時系列に並べてみます。(ただし厳密な西暦換算ではありませんし、在位年数も単純な引き算ですからあくまで目安です、念のため)

 後伏見天皇 (持明院統) 1299ー1302  在位3年
 後二条天皇 (大覚寺統) 1302ー1308  在位6年
 花園天皇  (持明院統) 1308ー1319  在位11年

20080325kks_1 ご覧のように、光厳天皇がお生まれになったとき(1313)に位につかれていたのは同じ持明院統の花園天皇であります。
じつは、光厳さんのお父さんの後伏見天皇が践祚なさったのは十一歳のときでした。そしてそれからわずか二年半で、大覚寺統の後二条天皇に譲位なさっておられる。子供のときに位につくというのはこの時代の通例ですが、在位期間は短すぎます。これには大覚寺統の策謀があったとかなんとかということですが、まあ、それは今回の本題ではないのでパスして、いずれにしても、光厳のお父さんである後伏見天皇が退位したときはまだ御歳十四歳でありました。
当然、ご本人の責による退位ではないわけですから、後伏見さんは、「罪なくして位を奪われき」という意識が強かった。
やがて二十六歳のときに光厳さんがお生まれになりますと、待望の皇子ですのですぐに立親王されて量仁(かずひと)と命名されたことは前回書いた通りです。

ところで、系図を見ていただくとわかりやすいけれど、このとき天皇であられた花園さんは、当然、光厳さんの叔父さんです。

この花園さんという方は、持明院統の皇位が大覚寺統の後二条に行ったとき、なにしろ後伏見天皇は十四歳ですから跡継ぎはまだおられない。しかし、持明院統のほうで跡継ぎを立てなければ、皇位は大覚寺統にいったままになるおそれがありますから、緊急避難的に後伏見の猶子となられて後二条の春宮に立たれたのでありますね。鎌倉とかけあってそういう段取りをつけたのは、当時まだ生きておられた持明院統の伏見院だったのでしょう。

だが、兄弟がそれぞれ天皇になられるというのは、かならず将来にふたたび皇統が分裂する火種となります。それは天武・天智の例を出すまでもなく、後嵯峨以降のこの系図をみただけでわかろうというもの。そこで、父の伏見院は息子の後伏見院に、「花園はその子孫に皇位を譲ることは禁ずる。兄の後伏見に将来できるであろうところの皇子を補佐し、これを立派な天皇にするよう協力するように」というきっちりした誓約書をお書きになった。
しかしですねえ、当の花園さんの方からこれをみますと、この誓約書をお父さんがお兄さんに出されたときは、まだたった五つでした。まあ、自分の与り知らぬ所で、将来、お前は天皇になるけれども、お前自身の子供には皇位を譲ることはだめだよ、甥っ子に継がせるんだからね、と決められてしまっていた、といわけ。
しかし、この花園さん真面目な方で、この一族の方針を忠実に守って、甥っ子の量仁親王(光厳天皇)に非常にみっちりとした帝王教育をなさった。

ところで、系図をもう一度、よくご覧ください。この花園さんのポジショニング、大覚寺統にもよく似た方がいらっしゃることにすぐ気づきますよね。そう、第九十六代の後醍醐天皇であります。後醍醐さんも、もともとは花園さんとおなじく、自分の子孫に皇位を継がせることは認めてもらえない中継ぎの天皇であった。しかし、この自分の立場に対する不満が、そういう未来を強いる鎌倉幕府を倒して天皇親政という野望へと進んで行ったという側面があるようです。
だから花園さんの後醍醐さんに対する感情には、強い反発と同時に、同じような境遇からくる理解といった複雑なものがあったと思われます。自筆の浩瀚な日記「花園宸記」にそのあたりが出ていたりするようですが、すでに長くなったので省略。
(以下次号。岩佐さんの話に戻ります)

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2008/03/24

光厳天皇と岩佐美代子(1)

老僧の滅後、尋常の式に倣ひ、以て荼毘等の儀式に煩作すること莫れ。只だ須く密に山阿に就いて収痙すべし。松柏自ら塚上に生じ風雲時に往来するは、是れ予が好賓たり、甚だ愛する所なり。如し其れ山民村童等、聚沙の戯縁を結ばんと欲して小塔を構ふること尺寸に過ぎざるは亦之を禁ずるに及ばず。此の一節、只だ衆人を動かしてその労力を労せんを欲せざるために、但だ省略を要するのみ。其れ或は力を省くに便なれば、則ち火葬また可なり。一切の法事は之を為すを須ひざれ。

わたしの死後、大げさな葬式をするには及ばぬ。そっと山の麓に埋めてくれ。その塚の上に松や柏が自然に生え、風や雲が四季折々に行き交うなら、それで満足だ。もし山民村童らが手すさびに小塔でも立ててくれるならそれもよい。労力を省くためなら、火葬もまたよい。法事は一切不要である。

これは光厳天皇の御遺誡(ゆいかい)の一部。
光厳天皇(1313ー1364)とおっしゃる方は、持明院統の後伏見院の息子さんだが、なにしろこの時代は両統迭立から、南北朝時代にいたる複雑な時代なものだから、何回読んでも頭がこんがらがってしまって、簡単には説明がむつかしい。まあ、この光厳さんは後醍醐天皇の南朝に対して、北朝の初代ということになるのですが(じつは第九十六代の後醍醐天皇に継ぐ第九十七代の天皇でもある)今回書こうと思っているのは、別に太平記の世界のことではないので詳細は割愛。(ほんとうは手に負えないからだけど、調べてみるとおもしろいよ、この時代)

ええと書こうと思ったのは、先日『京極派歌人の研究』をとりあげたときに岩佐美代子さんの紹介をしたわけだが、この方の『宮廷に生きる』(笠間書院)に収録された「光厳天皇—その人と歌—」のこと。
ここで岩佐さんは、なぜ自分は光厳天皇に特別な関心を寄せているかというお話をされているのだけれど、わたしはおもわずのけぞってしまいました。(ぜんぜん悪い意味ではないけど、ほんとうにびっくりしたのです)

だが、まずその話の前に、この光厳天皇、春宮時代は量仁(かずひと)親王というのですが、この方の帝王教育のことにふれなければいけない。
(この項つづく)

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2008/03/21

言語表現法講義

2008_0321kato いったいこの先どうなるのかわからない。どこに行くのか、どんな結論になるのか書き始めたときにはわからない。だがわからないまま書き進んでいるうちに、その直前まで自分でも思ってもいなかったような知見が生まれることがある。
わたしたちは言葉を使って考えるしかないのだから、書くことがすなわち考えることであると見極めれば、それは不思議でもなんでもない、という意見もあるだろう。
そういう文章の書き方があるとする。

一方、文章を書くということは、なにか人につたえるべき情報や知見が先にあって、あとはそれをいかにわかりやすく表現するかだ、という考え方もある。ビジネス文書や仕様書や規則類は、100人の人が読んで、100人の人がその文書の指し示すことが理解できることが理想である。
そういう文章の書き方があるとする。

この場合、これらふたつの文章表現はおのずと違ったものになるだろうか。それはそもそも文章を書く目的が違うのだから(かたや自分の思考を拡大するのが目的、かたやノイズなしに情報を他者に伝達することが目的)結果として残る文章表現は異なったものになるでしょう、という意見もあると思うが、わたしの考えを言えば、これらを同一のレベルできっちり統合して書かれた文章に接したときに、わたしたちは、これを面白い、よい文章だと感じて、読むに足るものとするのではなかろうか。
すくなくとも、わたし自身は、そういう文章を書きたいと思っております。

以上、加藤典洋『言語表現法講義』(岩波書店)を読んで。

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2008/03/19

Macの縦書きエディタ

俳句や短歌を読む場合には、手書きのものは当然のこととして、本や雑誌などの印刷物であれば必ず縦書きでなければ、どうも気分が落ち着かない。
しかしコンピュータの画面で読む場合には、横書きの世界にそこだけ異質なものが挟まったようで、かえって縦書きは読みにくかったりする。なかなかむつかしいものだ。
ただ、このブログなどでも、ときどき縦書きの表示がしてみたくなったりするので、ふと思いついて、マックでも縦書きのできるフリーのエディターがあるのではないかと検索してみたら、あっさり見つかった。なんで、もっと早くに思いつかなかったんだろ。(笑)
iText Express というのがそれ。簡単に使えてなかなか便利である。(もちろん、縦書きというのは機能のひとつで、これを目的としたエディターというわけではない)
ダウンロードはこちら
縦書きで文書をつくってスリーンショットでコピペするとこんな風になる。
ちなみに、これは斎藤茂吉であります。

Mokiticapture


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2008/03/18

川田ひさを句集

『空白と余白 川田ひさを句集』を読む。
1995年、翌年に米寿を迎えることを節目に上梓された第四句集。それまで還暦、古希、傘寿と句集を出してこられた由。著者は故人だが、先日、ご縁があってご子息(といってもわたしよりずっと年上の方だが)にご恵贈いただいた。
「まえがき」を引いて、著者の紹介とする。

さて、私の俳句との出会いは、昭和九年の春、ふとしたはずみで誘われて出席した職場(京都大丸)の句会です。

 鐘の声どこかで一つ春の月

この句が、鈴鹿野風呂師の特選に入ったのが切っ掛けとなり、爾来俳句にのめり込み、京鹿子、ホトトギスに投句を続けていましたが、私個人の環境の変化と日本の戦時体制の波により句作は中断。終戦後新しい職場(大阪電通)の句会に参加。京都支局句会へ那須乙郎氏を迎え、いづみ句会、冬青句会等を経て、乙郎氏の「向日葵」創刊に協力、その同人として参加。大阪の職場句会に乙郎氏を招聘、後に、堀葦男氏の指導を受けていました。「向日葵」が「馬酔木」の僚誌であった関係で暫く「馬酔木」にも投句していましたが、秋桜子師の逝去、野風呂師、乙郎師、葦男師の没後は特に師を求めることもなく、向日葵の同人、顧問、俳人協会の会員として、旧知句友と句座を共にし、京都近鉄文化サロンの俳句教室の講師として今日に至りました。

俳句が文学だ芸術だと論じることは、俳人と称しておられる方々にお委せして、私は私なりに、一匹狼ならぬ一野犬として気侭に俳句を楽しんでいます。

昭和の俳人の上品な雰囲気を感じさせる俳句で読んでいて気持ちがよい。いくつか紹介したい。

縁起絵巻にいくさ図多し秋の蝉

手応えの無き闇へ打つ鬼の豆

針山に針が一本春の風邪

推敲の行き詰まりたる春蚊打つ

疲れまだ知らぬ折り目の紙風船

春雷や錠剤一粒見失う

考えるとは腕を組むこと鳥曇

ラムネ瓶の重さ幼き日の記憶

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2008/03/14

無味乾燥こそ面白い

宮下志朗『エラスムスはブルゴーニュワインがお好き』(白水社)に「ある家事日記について」という一文と、その見本として「ブロワへの旅」という五十日たらずの日記の全訳が収録されている。いずれも十六世紀中葉のノルマンディの田舎貴族の日記『グーベルヴィル殿の日記』を中心に紹介したもの。
「私、ジル・ド.グーベルヴィルによりて記されたる家計の支出ならびに収入」というのが、その表題で、この題名どおり基本は日々の家計簿のようなものだ。

家事日記は為替手形や複式簿記ともにイタリア・ルネサンスの実利的な精神の産物であった。経済の発展にともなって商人たちは大福帳のようなものをこぞってつけ始めるが、そうした帳簿の余白に記された個人的なメモ、あるいは同時代の事件への言及がやがて独立して、この家事日記というジャンルを形成するに至ったのである。

その特色を一言でいえば「非文学性」ということになるようだ。宮下さんの言葉をさらに続けよう。

田舎人の家事日記とはいわば無味乾燥な日録なのであって、心理描写はほぼ完全に欠落している。日記を支配しているのは執拗なまでな単調さにほかならない。だが文学性とは無縁の単色の画面、これがこのジャンルの真骨頂ともいえるのではないか。

というわけで、わたしなど、はじめこの『グーベルヴィル殿の日記』だけを読んでもほとんど面白くもなんともなかったのだけれど、いったん宮下さんの解説を読んでもういちどこれに目を通すと、いやこれがじつに面白い。
なにせ、この田舎貴族、旅行の目的は林野治水監督官という官職をお金で買おうという猟官運動なのだけれど、そのためのなけなしのお金をなんと雑踏で掏られてしまうのですね。それなのに、その日の日記は—

八日、土曜日。ブロワから動かず。誓願を取り上げてもらうために国王尚書官ル・シャンドリエ殿のところに行く。市場を通りかかった際、雑踏のなかでエキュ貨三枚とテストン貨一枚が入ったハンカチをすられた。そこで国王の家具職人宅に泊まっているエクルムト代理官のところで昼食。夕方、上記ル・シャンドリエ殿のところに誓願に行く。書記に請願書を清書してもらうため、殿にエキュ貨二枚とテストン貨一枚さしあげる。宿舎で夕食後、就寝。合計十二リーブル、十七スー、八スー(sic)。

などといたって、あっさりしたもの。
しかし、この淡白さに騙されてはならない。注意深い方は、誓願のため書記に渡す袖の下が、掏られたあとで夕方出直したときには、エキュ貨一枚ぶん減っていることにちゃんと気づくことでしょう。ははあ、大将、けちったな。(笑)きっとはらわた煮えくり返って、その夜はまんじりともできなかったとしても、日記にはまるで人ごとのごとく記す、というのがこのジャンルのスタイルであるんですね。
こうして、このたぐいの日記は、無味乾燥に見えるのがむしろミソで、その裏に隠された意味をいろいろと推理していくのが面白いのだそうな。大人のたのしみは、すべからくそういうものでありますな。

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2008/03/13

わたしの詞華集から

ほんとうに気が向いたときだけだが、そのときどきで、こころに響いた歌や句や詩を専用の小さなノートに書き写す自分のためだけの詞華集がある。
折に触れて読み返す。なんでこんなのを抜いたのかなあ、とふしぎに思う事もあるし、ちょうどそのときの重くしこった自分をふっともみほぐしてくれるような詩に再会する場合もある。
たとえば今夜はこんな歌。
窪田空穂の『鏡葉』から。

人の為に人は生れずその人を
よしとあしきとわが為にいふな

人をしも信ぜむとするこのこころ
持つに悲しく捨てむにさびし

よきところ一ある人は稀なるを
さな求めそといはしきわが父

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2008/03/12

岩佐美代子/京極派歌人の研究

花のうへにしばしうつろふ夕づく日入るともなしにかげ消えにけり
まはぎちる庭の秋風身にしみて夕日のかげぞかべに消えゆく

永福門院のこの二首の歌を、光厳院の「ともしび」の連作(当時は花園院詠として)と共に、久松潜一先生にはじめて教えていただきましたのは、太平洋戦争のまっただ中、女子学習院高等科に在籍中の、昭和十九年の早春のことでございました。その新鮮さ、美しさに、総身のふるえる程の歓喜をおぼえました当時の記憶は、今もありありと私の身うちに息づいて居りますのに、もうそれから三十年もたってしまいました。その三十年の間に、私は結婚し、二人の子を産み、昭和三十六年には、五つの時から十三年間心をかたむけてお相手申し上げた大切な「宮さま」——今上第一皇女照宮、東久邇宮成子様の御早世にあい、更に一昨年の夏には、二十七年間愛しあい、信じあい、頼りあって来たたった一人の人——夫、岩佐潔を失いました。そして今、、私は生まれてはじめて、自分一人のために生きる自由を得、久松先生・松尾聰先生はじめ諸先生方のおはげましによって、三十年来いだき続けてきた永福門院への思い、京極派への思いを、一本にまとめる事ができました。喜んでよろしいのでしょうか、悲しんでよろしいのでしょうか。

岩佐美代子の『京極派歌人の研究』がはじめて世に出たのは1974年。前年度の文部省科学研究費補助金(研究成果刊行費)の交付を得て、笠間書院から出版された。上記は、その「あとがき」の出だし部分である。略歴から計算すると著書このとき四十八歳。

岩佐さんは『宮廷文学のひそかな楽しみ』(文春新書)で知り、この『京極派歌人の研究』もそのうちにぜひ読んでみたいものだと思っていたが、昨年11月に同じ笠間書院から新装改訂版として出版された。(1984年にも復刊されているので今回が三回目の出版である)

20080312d こういう本の性格として、限定版だし価格も高いので個人で気楽に買うというのはむつかしいが(わたしも図書館の本で読んだ)、専門的な論考でありながら、これを読むこと自体が、論考の対象とされた、たとえば永福門院であったり、後嵯峨院大納言典侍といった女人たちの人生の喜び悲しみはもちろん、その底にかくれた著者その人の静かな声まで伝わってくるような生き生きとした感動を呼ぶ、そういう学術書は珍しいのではないだろうか。わたしは読みながら、とくに本書の前半の、伏見院宮廷グループの躍動感あふれる交友関係や、伏見院と永福院という好配偶の麗しい愛情生活、伏見なきあとの永福門院の見事な処世、やがて一門の長として見せる貫禄の分析、描写に賛嘆を禁じえなかった。じつに面白い。ときどき「ほお」と声を上げながら読み進める。すばらしい論文だ。

とくにわたしが興味をもって読んだのは、後嵯峨院大納言典侍をめぐる考察である。(本書にはルビをふってないが、「典侍」は「てんじ」でもいいし「ないしのすけ」と読んでもいいのだろう)
簡単に書いておくが(自分がわすれるから(笑))岩佐さんの考察では彼女は、藤原為家の第一女であり、すなわち定家の孫にあたる。定家の鍾愛非常な姫君として育ち、やがて摂関家、関白二条良実の嫡男である二条道良に嫁す。おそらく為家が「続後撰集」撰進をおこなうときの補佐として父を助けたであろうこの女人は、しかし自分の後任の父の秘書役として源氏物語筆写のために阿仏尼を招くのだが、これがのちの二条家と冷泉家の数十年におよぶ所領争い、また御子左家の三分裂という歌道史上の重要な出来事の種をまいたことになる。為家とこの阿仏が結ばれて為相(冷泉家)を生むのでありますね。ところが、この後嵯峨院大納言典侍、すなわち摂関家嫡男の正妻でやがて関白、氏の長者の北政所ともなるべきであったお方は、あろうことか早くにその関白になるべき夫を亡くし、ご自身もやがてむなしくなってしまわれた。そのお亡くなりになったのが、ちょうど阿仏尼が為相を生む直前で、ゆえに父為家にとっては、かつて自分の片腕とも頼み慈しんだ愛娘であり、また定家の「鍾愛非常」な孫姫であったこの女人の死をどれほど嘆き悲しんだか。そして、彼女の生まれ変わりのように誕生した為相にたいして為家がどれほどの想いをかけたか。この後嵯峨院大納言典侍の死と、為家の晩年の切々たる哀傷に満ちた詠唱をつなげてみせた見事な論文であります。
なお、新装版の付記として、1999年「冷泉家の至宝展」において新発見の為家歌集「秋思歌」が展示、その冒頭日付によって、岩佐さんの学説が裏書きされたことが書かれております。(為家、阿仏と京極派については、拙ブログのこちらにも書評を書いておりますのでついでに見てやっていただければ幸い)

この後嵯峨院大納言典侍も夫に先立たれた方だし、永福門院にいたっては著者と同じ歳に夫である伏見院を亡くされた方である。そういう女人の境涯に対する、著者の共感がこれらの論文の後ろにやはり見え隠れする。
冒頭の「あとがき」はこのように結ばれる。これも、こういう学術書には異例の文章であるような気がするが、やはり感動的だ。

そして最後に、皆様のお力でできましたこの本を、私のたった一人のいとしい人——愛する事と悲しむ事、生きる事と死ぬ事を身をもって教えてくれたいとしい人に捧げます事をお許し下さいませ。その人は私の心の中で、あの長いやさしい指でゆっくりと頁を繰りながら、静かにこう申します。「・・・・そうかい。・・・・よかったな。・・・・よくできたな。・・・・たいしたもんだな。・・・・久松先生、何ておしゃった?」と。
 岩佐美代子
 昭和四十九年三月一日

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2008/03/08

俳句鑑賞450番勝負

中村裕『俳句鑑賞450番勝負』(文春新書)は「海」「酒」「生死」といった30のテーマを設け、それぞれのテーマごとに15句、全部で450の俳句を取り上げている。
選んだ句には短い解説(半頁くらいの分量)をつけているが、その文章の中にも別の句が三、四句はいっていたりするので、数えたわけではないが、この本一冊読めば、見当としてはおおよそ1500句くらいを知ることになるのではなかろうか。
よく知られた定番のような句もあれば(たとえば後藤夜半の「滝の上に水現れて」とか)だれも知らないはずの句もある。
ただ、誰の句を取り上げるかについては、はっきりとした傾向がある。これを手っ取り早く説明するには、巻末の索引で、俳人ごとにいくつの句が紹介されているか、多い順に並べてみればよい。
上位3人は次の通り。

 三橋敏男 21句
 渡邊白泉 14句
 西東三鬼 12句

このあとに多いのは7句で、阿波野青畝、池田澄子、石田波郷、高屋窓秋、遠山陽子、永田耕衣、中村草田男、山口誓子といった俳人が並ぶ。
著者の中村さんには同じ文春新書から『やつあたり俳句入門』という好著がある。四年前の旧かわうそ亭読書日記(2004年9月24日)にこんな感想を書いた。(一部抜き書き)

ホトトギスの世襲制の家元制度を真っ向からくだらないと言い、日本伝統俳句協会なんて名乗りのいけ図々しさを批判し、山本健吉とかれによって勢力を固めた戦後の大家たちの去就に疑問を投げかける。なにごとも旗幟鮮明は気持ちのいいもので、本書を読む快感はそこにありそうだ。
豊かな詩的精神を現代俳句が身につける可能性が過去にあったとすれば、それは新興俳句運動が立ち上がった時点であり、その代表的な作家は渡辺白泉だったというのが、著者(とおそらく師の故三橋敏雄)の立場のようだ。新興俳句運動は戦中の軍国主義によって弾圧されたが、この時代に俳句の水源をもつ戦後の大家たちが口をぬぐって新興俳句運動に正当な評価をしてこなかったことが、いまの俳壇の問題だという指摘は傾聴に値する。

『俳句鑑賞450番勝負』の元になったのは、三橋敏男がやり残した仕事(「昭和俳句栞草」)だったようだが、選句の姿勢は上記の考えにつきる。「450番勝負」なんて言い方自体に、「ホトトギスだとぉ、てやんでえ」みたいな感じがないでもない。もちろん、稲畑汀子は一句も入っておりませんよ。(笑)
ただし、そういう傾向の割にはあまり偏った感じはなくて(つまりアレはあってもなくてもかまわないんだなきっと)むしろ目配りはよく利いているから、俳句好きの人にも、これから俳句を知ろうという人にも、これはたくさんの句を読んで憶えたりするうえでとても重宝するのではないかと思うな。

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2008/03/05

THE OVERLOOK/Michael Connelly

2008_03052 ハリー・ボッシュものの第13作、『THE OVERLOOK』を読む。
前作『ECHO PARK』の設定が、2006年。そのときハリーは未解決事件捜査課にいたけれど、今回の事件はそれから半年ばかりたった時点からスタートする。ええと前作のネタバレをするわけにはいかないのだが、今回ハリーはロス市警本部の特別殺人課(原文はHomicide Special)に移って、新しいパートナーと組んでいる。エコー・パーク事件でFBIと因縁が残ったかたちになったが、まあ、いろいろあって、この異動になったのだろうとこのシリーズを追っているファンには推測できる。

さて今回の事件、マルホランド・ドライヴをすこし上がった高台で一人の男が処刑スタイルで殺されているのが発見される。頭に22口径を2発撃ち込まれているという。被害者はスタンリー・ケント医師。子宮癌の専門医で、遺留品にはあちこちの病院の入室管理用のIDカードがある。
現場に着いたハリーは、ケント医師のポルシェのトランクになにか重い器具でも置かれていたような痕を認める。かれはなにか見たことのないリストバンドのようなものを両手首につけていた。いったいなんだろうとハリーたちが、首をひねっていると同じく現場に駆けつけたレイチェルが、FBIはそれがなにかを知っているし、そのためにここに来たのだと告げる。それは、放射線治療を行う医師などが、自分の被爆状態をチェックするためのTLDリング(Thermal Luminescent dosimetry)だという。FBIは、病院が管理しているセシウムなどの放射性物質を、アルカイーダ系のテロリストが狙っていることをすでに想定して、これらの物質にアクセスできるロスの医師のモニタリングをしていたのだという。事件は一気に、テロリストグループによるセシウム強奪とダーティ・ボムによるロス攻撃という最悪の事態を想定した国家的な非常事態の様相を呈するが・・・・というようなオハナシ。

本書、もともとはニューヨーク・タイムズ・サンデー・マガジンの連載小説だった。本にするにあたって、だいぶ加筆したらしいが、それでもペーパーバックで実質260ページばかりだから、これまでのシリーズにくらべるとあきらかに分量が少ない。そのせいだけでもないだろうが、事件の先行きは途中からだいたい見えるし、コナリーにしてはぜんぜん物足りないんだなあ。わたしのようなファンは、ボッシュの近況を知ることに関心があるので、まあ、多少、出来が悪くても満足なのだが、これはそういう方以外にはあまりおすすめできないかもしれない。ただ、逆に古いファンの方には、この事件の捜査でちょっとした問題が発生するので、これが次回作からのボッシュにある種の宿命のようなものを与える可能性もあるという意味で、必読かもしれません。

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2008/03/01

2月に読んだ本

『文明の文法〈2〉』フェルナン・ブローデル/松本雅弘訳(みすず書房/1996)
『アレクサンドリア四重奏 3 マウントオリーヴ』ロレンス・ダレル/高松雄一訳(河出書房新社/2007)
『壷中天酔歩—中国の飲酒詩を読む』沓掛良彦(大修館書店 /2002)
『なつかしい本の記憶—岩波少年文庫の50年』(岩波少年文庫/2000)
『シンジケート』穂村弘(沖積舎 /2006新装版)
『ドライ ドライ アイス』穂村弘(沖積舎 /2006新装版)
『エミールと探偵たち』エーリヒ・ケストナー/小松太郎訳(岩波少年文庫)
『On Chesil Beach』Ian McEwan(Random House Uk/2008)
『氷の花たば』アリソン アトリー/石井桃子・中川李枝子訳(岩波少年文庫)
『小さい牛追い』マリー・ハムズン/石井桃子訳(岩波少年文庫/2005)
『日曜日に読む「荘子」』山田史生(ちくま新書/2007)
『アレクサンドリア四重奏 4 クレア』ロレンス・ダレル/高松雄一訳(河出書房新社/2007)
『俳風三麗花』三田完(文藝春秋 /2007)
『使ってみたい映画の英語 男の名セリフを味わう』藤枝善之(新潮新書/2007)
『牛追いの冬』マリー・ハムズン/石井桃子訳(岩波少年文庫/2006)
『江戸俳画紀行—蕪村の花見、一茶の正月』磯辺勝(中公新書/2008)
『幽霊』イーディス・ウォートン/薗田美和子・山田晴子訳(作品社/2007)
『アラン定義集』神谷幹夫訳(岩波文庫/2003)

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2月に見た映画

めがね
監督・脚本:荻上直子
出演:小林聡美、市川実日子、加瀬亮、光石研、もたいまさこ、薬師丸ひろ子

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