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2008/03/27

光厳天皇と岩佐美代子(3)

さて、ここで帝王教育のこと。
前回書きましたように、花園天皇は甥の量仁親王(光厳天皇)を立派な天皇にすることが自分の役割であるとされたわけですけれども、ではどんな教育を施されたのか。「誡太子書」という花園天皇が量仁親王に与えられたものが残っておりますそうで。
それによれば「詩・書・礼・楽に非ざるよりは、得て治むべからず」とか「思ひて学び、学びて思ひ、経書に精通し、日に我が躬に省みる」といったお言葉がある。君たるもの、慎み畏れて責務を果たさねばならぬ。この衰乱の世に当っては、詩・書・礼・楽の儒教の大本を修め、我が身を反省して深く学び深く思うよりほかに、乱国に立つ道はない。夜を以て日に続ぎ、宜しく研鑽せよ、というのがその帝王教育の骨子であった。要するに儒学であります。

そもそも天皇の責務とはいったいなんでありましょうか。天皇はいまだってそうですが直接、国の政務を執るわけではない。
これはおそらく反対から考えたほうがいいのですね。つまり、なぜ地震や噴火や気象変動がかくもわが国を襲うのであろうか。なぜ太平がやぶれ乱逆非道が世にはびこるのであろうか。なぜ旱魃や冷害や蝗害によって民が飢餓にうちひがれねばならないのであろうか。なぜ強大な異民族がわが国を襲い侵攻してくるのであろうか。
それはすべて天子に徳がないからである。帝が天から嘉されるような存在であればそのようなことはおこらないはずである。

もちろん現代のわれわれから見れば、失政によって人々がひでえ目にあわされる(60年前の戦争が典型的ですが)ことは当然あるが、いくら天子さまが聖人のような方であっても天変地異はそれとは無関係に起るし、旱魃、冷害、蝗害なんていう惨禍だっていくら必死になって天皇さんが古代からの儀式をやっても、そんなことは屁のつっぱりにもならない。天皇さん個人が「思ひて学び、学びて思ひ、経書に精通し、日に我が躬に省みる」とがんばることと、国が平和で繁栄し、民が幸せであることとのあいだに直接の関係はないというのが「科学的」な認識というものでしょう。しかし、鎌倉末期の人々もわれわれと同じように考えたとは限らない。すくなくとも、花園さんの帝王教育は、天子の責務をまあナイーブにとらえていたことは間違いないでしょう。聖人の道に外れないように努力し続けることが天皇の「お仕事」なんである、というわけですな。
そして、量仁親王は二十歳で即位され光厳天皇となられるのですが、そのあとも南北朝の戦乱のなかで非常な苦労をされるのであります。最後は山寺(常照皇寺)の一老僧として、戦没者の霊を弔いながら生涯を終えられた。そのときの遺言はこのお話の最初の回に書きました。

こういう光厳天皇がお受けになられた帝王教育というのは、しかし歴代天皇のなかでもかなり異例であるというのです。なぜなら、天皇というのは前回にも書きましたが、まあ子供のときに践祚するほうがふつうです。実質的な政治は院となったお父さんがみたのですね、だから、子供のときからこんな辛気臭い、衰乱の世に当ってはとにかくオベンキョーするんだよ、みたいな帝王教育はなかった。ところが、こどものときに同じような帝王教育を、はからずもお受けになった天皇さんがやはりいらした、というのです。ということで以下が、ようやく岩佐さんのことでわたしがびっくりしたというオハナシに戻ります。

わたしが光厳院に特別の関心を寄せますのは、これまで申し上げました理由によるものでございますけれども、もう一つ大変プライベートな理由がございまして。これは申し上げていいのかどうかと思いますけれども、昭和二十年の八月十日、終戦の五日前に、宮内省の組織の中で、これまでの皇后宮職から東宮職が独立いたします。その時、私の父親、穂積重遠が東宮大夫になりました。父は民法学者でございまして、常識的に言えばやや異例な人事ではございましたが、実は終戦処理の一環で、娘が申しては恐縮ですけれども、穏健なリベラリストで、アメリカやイギリスに反感を持たれない人、という人選であったと思います。その新聞報道を見て、あ、これは戦争が終わるな、とお思いになった方も多かったというふうに伺っております。その御奉公始めというのがまた、奥日光の湯元に疎開中でいらした、小学校六年生の東宮さんの所へ上がりまして、侍立して八月十五日の終戦の詔勅を承り、その意味を東宮さんにお話し申し上げるというのが最初のお勤めであったという、えらい事でございました。まさに土崩瓦解の中で現天皇の帝王教育が始められたのでございます。

穂積重遠やその父、穂積陳重についてはべつにわたし自身、それほど詳しいわけでも、その著作を読んでいるわけでもないので、ここで説明はいたしません。ご存知ない方はググッて調べてください。穂積重遠の娘であるというところで、びっくりなさる方もあるでしょうし、渋沢栄一の孫であるというところでびっくりされる方もあるでしょう。
いや、わたしは、うかつにも、岩佐さんという方を、国文学者で、子供時代に宮中に出仕されたこともある方だというくらいの認識しかなかったので、この記述を読んで思わずのけぞったというわけでありました。

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コメント

この時代は日本史上でも最も面白い時代ですね。
南朝北朝それぞれが兄弟で2系統に割れる可能性があり、南朝は北朝の天皇経験者をすべて吉野に連れ去り、天皇指名権のある「治天」(天皇家の家長。上皇)が不在となったため、史上初めて皇族出身でない光厳院の母親(広義門院)が、「治天」となって光厳を指名。やがて足利義満は天皇位の簒奪を企てます。天皇制が消滅、ないし抜本的変質の可能性があった時代です。
著者はその時代を戦後の天皇制危機の時代に重ね合わせていたようにも見えます。私もこの本を読んでみようと思った次第。

投稿: 我善坊 | 2008/03/31 11:06

おはようございます。
たしかに中世期というのは、ある意味で非常にアクチュアルな感じがあって面白いですね。ひとつはわたしたちの美意識や伝統文化を考えたときに、すべてこの時代が基礎になっているからでしょうし、もうひとつはやはり「時代を重ね合わせ」るという見方が可能だからだと思います。
ところで、ちょっとずれた話になりますが、現代のわたしたちにとっても天皇制、王権というのはなかなか無視することがむつかしいようです。先日も電車のなかで、60代くらいの女性二人が、いまの天皇ご一家のことを熱心に話し合っていて、おもわず、ふむふむ、と聞き耳をたててしまいましたが、「皇后さんのときはねえ」とか「だってやっぱり雅子さんがねえ」とか「弟のほうが、ほら」とかいろいろ聞こえてきて、具体的な内容は書くにはばかりますが、庶民は庶民でなかなか辛辣な意見をもっておりますようで。(笑)

投稿: かわうそ亭 | 2008/04/01 10:00

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