言語表現法講義
いったいこの先どうなるのかわからない。どこに行くのか、どんな結論になるのか書き始めたときにはわからない。だがわからないまま書き進んでいるうちに、その直前まで自分でも思ってもいなかったような知見が生まれることがある。
わたしたちは言葉を使って考えるしかないのだから、書くことがすなわち考えることであると見極めれば、それは不思議でもなんでもない、という意見もあるだろう。
そういう文章の書き方があるとする。
一方、文章を書くということは、なにか人につたえるべき情報や知見が先にあって、あとはそれをいかにわかりやすく表現するかだ、という考え方もある。ビジネス文書や仕様書や規則類は、100人の人が読んで、100人の人がその文書の指し示すことが理解できることが理想である。
そういう文章の書き方があるとする。
この場合、これらふたつの文章表現はおのずと違ったものになるだろうか。それはそもそも文章を書く目的が違うのだから(かたや自分の思考を拡大するのが目的、かたやノイズなしに情報を他者に伝達することが目的)結果として残る文章表現は異なったものになるでしょう、という意見もあると思うが、わたしの考えを言えば、これらを同一のレベルできっちり統合して書かれた文章に接したときに、わたしたちは、これを面白い、よい文章だと感じて、読むに足るものとするのではなかろうか。
すくなくとも、わたし自身は、そういう文章を書きたいと思っております。
以上、加藤典洋『言語表現法講義』(岩波書店)を読んで。
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コメント
なるほど。同感です。
かわうそ亭さんの文章には、ああ、なるほどとよく思わされます。
なんかもやもやした感じが、ああなるほど、と思えた後は意識化できるんですが自分ではなかなかもやもやを言葉に出来ない。圧倒的な読書量はもちろん詩や英語をやられているのもきっと関係しているのでしょう。
もやもやに形を与えて言葉にするときにも、この両方の文章の書き方を使うようになんか違う感覚の両方をうまく使えたときにできるような気がします。
あ〜だめだ。やっぱりかわうそ亭さんのように「なるほど」という文章にできない・苦笑
投稿: たまき | 2008/03/21 19:52
どうも、ありがとうございます。
「もやもや」感は、本人にはフラストレーションがたまって苦しいものですが、表現にはじつはこれがとても大事なのかも知れませんね。
わたしなどにはもちろん、まったくわかりませんが、もしかしたら、彫刻なんかの造形の場合もこういう感覚ってあるのじゃないかなあ、なんて想像してます。
投稿: かわうそ亭 | 2008/03/21 22:52