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2008/03/26

光厳天皇と岩佐美代子(2)

系図を参照しながらお読み下さい。結構ややこしいよ。
光厳天皇がお生まれになった正和二年(1313)前後の皇位を時系列に並べてみます。(ただし厳密な西暦換算ではありませんし、在位年数も単純な引き算ですからあくまで目安です、念のため)

 後伏見天皇 (持明院統) 1299ー1302  在位3年
 後二条天皇 (大覚寺統) 1302ー1308  在位6年
 花園天皇  (持明院統) 1308ー1319  在位11年

20080325kks_1 ご覧のように、光厳天皇がお生まれになったとき(1313)に位につかれていたのは同じ持明院統の花園天皇であります。
じつは、光厳さんのお父さんの後伏見天皇が践祚なさったのは十一歳のときでした。そしてそれからわずか二年半で、大覚寺統の後二条天皇に譲位なさっておられる。子供のときに位につくというのはこの時代の通例ですが、在位期間は短すぎます。これには大覚寺統の策謀があったとかなんとかということですが、まあ、それは今回の本題ではないのでパスして、いずれにしても、光厳のお父さんである後伏見天皇が退位したときはまだ御歳十四歳でありました。
当然、ご本人の責による退位ではないわけですから、後伏見さんは、「罪なくして位を奪われき」という意識が強かった。
やがて二十六歳のときに光厳さんがお生まれになりますと、待望の皇子ですのですぐに立親王されて量仁(かずひと)と命名されたことは前回書いた通りです。

ところで、系図を見ていただくとわかりやすいけれど、このとき天皇であられた花園さんは、当然、光厳さんの叔父さんです。

この花園さんという方は、持明院統の皇位が大覚寺統の後二条に行ったとき、なにしろ後伏見天皇は十四歳ですから跡継ぎはまだおられない。しかし、持明院統のほうで跡継ぎを立てなければ、皇位は大覚寺統にいったままになるおそれがありますから、緊急避難的に後伏見の猶子となられて後二条の春宮に立たれたのでありますね。鎌倉とかけあってそういう段取りをつけたのは、当時まだ生きておられた持明院統の伏見院だったのでしょう。

だが、兄弟がそれぞれ天皇になられるというのは、かならず将来にふたたび皇統が分裂する火種となります。それは天武・天智の例を出すまでもなく、後嵯峨以降のこの系図をみただけでわかろうというもの。そこで、父の伏見院は息子の後伏見院に、「花園はその子孫に皇位を譲ることは禁ずる。兄の後伏見に将来できるであろうところの皇子を補佐し、これを立派な天皇にするよう協力するように」というきっちりした誓約書をお書きになった。
しかしですねえ、当の花園さんの方からこれをみますと、この誓約書をお父さんがお兄さんに出されたときは、まだたった五つでした。まあ、自分の与り知らぬ所で、将来、お前は天皇になるけれども、お前自身の子供には皇位を譲ることはだめだよ、甥っ子に継がせるんだからね、と決められてしまっていた、といわけ。
しかし、この花園さん真面目な方で、この一族の方針を忠実に守って、甥っ子の量仁親王(光厳天皇)に非常にみっちりとした帝王教育をなさった。

ところで、系図をもう一度、よくご覧ください。この花園さんのポジショニング、大覚寺統にもよく似た方がいらっしゃることにすぐ気づきますよね。そう、第九十六代の後醍醐天皇であります。後醍醐さんも、もともとは花園さんとおなじく、自分の子孫に皇位を継がせることは認めてもらえない中継ぎの天皇であった。しかし、この自分の立場に対する不満が、そういう未来を強いる鎌倉幕府を倒して天皇親政という野望へと進んで行ったという側面があるようです。
だから花園さんの後醍醐さんに対する感情には、強い反発と同時に、同じような境遇からくる理解といった複雑なものがあったと思われます。自筆の浩瀚な日記「花園宸記」にそのあたりが出ていたりするようですが、すでに長くなったので省略。
(以下次号。岩佐さんの話に戻ります)

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