高柳光壽の『足利尊氏』(春秋社)の初版は1955年。11年後の1966年に再版されるにあたり二章を増やして改稿された。わたしが今回読んだのは、さらにそれから21年後の1987年に出版された新装版であります。
『宮廷に生きる』のなかで岩佐美代子さんが、この本のことを名著として紹介しておられるが(そしてわたしが興味をもったのもそのためだが)なるほどこれは新装版として出版する価値が高い本だと感心した。なにより、読んでいて面白い。
いまのわたしたちにはうまく想像ができないのだが、戦前の日本史は水戸学の流れを汲む史観に彩られたものだった。なんとしてでも楠木正成が忠臣で、足利尊氏は逆臣でなければならなかった。明治の国会で正閏論がとりあげられ(1911)、後醍醐天皇から後村上・長慶・後亀山と続く南朝が正統であり、北朝の光厳天皇から後円融天皇までは正統の天皇ではない、ということになってしまった。ばかばかしいのは、当の皇室はあきらかに北朝の流れを汲むものだし、代々そのようにご先祖さまを祀ってきたということでありますね。いまからみれば笑い話にもならないが、国民がみんな逆上していたのだから仕方がない。ヒステリーには勝てんということですな。
それはともかく、そういう戦前の史観から自由になったと思ったら、今度は唯物史観とやらをふりかざした左翼陣営が歴史を専横し始めた。方向は反対に見えるけれど、要はこの二者は歴史を自分たちの党派的な支配におくということでまったく双子の兄弟のようなものでありますね。
だが右であれ左であれ、歴史というものは、そういうイデオロギーによって「正しい」答えがあらかじめ決められているようには実際には動いていないではないか、というのがまっとうな人のものの見方だろう。
なるほど、社会の発展の方向には大きな流れがあるだろう。だが、天皇陛下万歳が風向きなら楠木正成は忠臣で善玉、天皇制くそをくらえに変わったら、正成なんぼのもんじゃいでは、あんまり頭が悪すぎる。いや頭が悪いということではこちらも大同小異なら、あまりに品がないではないか。人が歴史を読むことに多少の意味があるとすれば、人品卑しきを遠ざけ、勇気、高潔、廉直、信義を重んずる人物をそこに求めることになければならぬ。
いや、これは筆が先走りすぎた。
つまりこの高柳の著書はそういうふうに歴史を叙述したいと思っているのだと、わたしにには見える。だから、南北朝時代という複雑な政治情勢を語りながら、ぶれていない。わかりやすい。わたしはほとんど一気に読んでしまったね。
実例をあげたほうがわかりやすいだろう。尊氏が九州から反攻し湊川の一戦で正成が命を落とす戦いにいたって高柳は、正成はすでに死をを覚悟していただろうと書く。負け戦であることは、金剛山のゲリラ戦を勝利に導いたほどのリアリストである正成に見えなかったはずがない。しかし、正成は尊氏に下ることはしなかった。それはかれが皇室を尊崇し、真の忠臣であったからだというよりは、自身が戦死をすることで、子孫の後栄を計ったのだと思う、というのですね。つまり高柳はそんなふうに書いているわけではないが、いわば、後醍醐に貸しをつくろうとした。いかにこのたびの戦で宮方が負けるにせよ(それはほとんど疑いない)後醍醐が完全にペチャンコにされることはない。いまさら尊氏に走ったにせよ、それで子孫の繁栄につながるとはかぎらない。ふたたび宮方がもりかえすこともあるだろう。ならば、このまま後醍醐を見捨てずに自分は死のう。そのように正成が考えてもおかしくはないと、書いた上で、さらに次のようなたとえ話に展開させる。
馴染んだ女だとて、なかなか捨てられないものである。それも金がかかっていなければともかくも、金をかけた女となると、少しぐらい悪いところがあっても、ちっとやそっとで捨てられるものではない。正成は後醍醐天皇にかけた。命をかけた。ほんとうに命を賭した金剛山であった。その後醍醐天皇をすてて、いまさら尊氏でもあるまい。おそらくはこういう正成ではなかったろうか。ところで、ここで一言ことわっておきたいことは、私がこういうと、後醍醐天皇を女にたとえるとは何事だ、といって怒る人々があるかも知れないが、これは一般的な親愛の在り方、愛の在り方について、わかりやすくするために女を持ち出したまでであって、後醍醐天皇その人を女になぞらえたのでは決してない。論理の命題を取り違えないようにしたい。
ははは、こういう箇所がところどころにあって、この本はなかなか味があるのですね。
なおこの著者はなにしろバランス感覚を重視しておれれるようで、上の話につづけて、きちんと次ぎのようなコメントを附しておられます。
わたしはこのころの忠義を説くにあたって、利害の打算をあまりにも強く打ち出しすぎたようである。それは要するに、このころの忠義を宗学の忠義で解釈することが誤りであることをいいたいためであった。人間は必ずしも利害関係のみで動くものではない。親は理外を計算して子を愛するのではない。親の子に対する愛情は本能であるといってよい。人の他人に対する愛だとて本能といわれないことはない。他人に対する場合は、そこにいろいろ他の要素が入り込んでくるに過ぎない。正成が後醍醐天皇と深い関係を持てば、そこに後醍醐天皇に対する深い愛が生まれてくることは当然である。しかも後醍醐天皇は首長として十分な資格を備えておられた。それに正成が魅力を感じたとて、何の不思議はない。後醍醐天皇と結ばれた正成の運命を考えることも必要である。そういう運命、そういう偶然が正成を湊川に逐いやった、と考えることは暴論ではあるまい。
まことに見倣いたき見識であると感じ入った次第。
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