ファクトリー・ガール
ボヘミアンとは、ものの本によれば、ブルジョワがびくついてやれないことを堂々とやっちゃう連中である。その通りですね、とアンディ・ウォーホルは言い、もう一言、うまい台詞をつけ加えた。ブルジョワ風に見られるのを恐がることこそ、一番ブルジョワ的です。かくしてかれはボタンダウンのシャツを着た。ストライプのタイを締め、仕立てのちょっと悪いツィードのジャケットをはおったその姿で街を闊歩した。まるで医学生の卵で、いかにもブルジョワ的だった。
しかしウォーホルの本当の快挙はこれではない。身も心も貧相な昔ながらのボヘミアンどもを仰天させたのは、ウォーホルが「ヴィレッジ・ヴォイス」紙に載せた広告だった。どんなものにでも署名しましょう。・・・・どんなものであれ即座にウォーホルの作品にして差しあげましょう・・・・ただしお金をくださいね。私の電話番号は・・・・。ボヘミアンどもはこれには腰を抜かした。
『そしてみんな軽くなった』トム・ウルフ
はじめは自分の好悪はストレートにあらわす。だが、やがて、そういうのはベタだぜ、てなことになって、わざと価値観を反転させて相手の裏をかくようになる。だが、そういうのがクールだとみんなが真似をしはじめるもんだから、裏の裏をかきたくなるのだが、そうすると相手がよほど見る目がないと、一番最初の洗練されていない時代の美意識を表出しているやつになってしまう。
わたくしは、これを「三重スパイから先は意味がない」と呼ぶことにしております。スパイさん本人も、もう、わけがわからなくなっちゃう。アメリカのスパイのふりをした中国のスパイ、のふりをしたアメリカのスパイ、っていったいどんな意味があるのだ。(笑)
ウォーホルのことを考えると、はたしてこの人は俗物なのか、俗物のふりをしたアーチストなのか、俗物のふりをしたアーチストのふりをした俗物なのか、頭がこんがらがっちゃう。だから、これはもう「三重スパイから先は意味がない」と同じことになるのであります。
映画「ファクトリー・ガール」は、ウォーホルとイーディ・セジウィックとボブ・ディランという1960年代のイコンをリアルに映像としてよみがえらせた豪勢な作品だった。映画のストーリーはあまり買わないが(なにしろあれではボブ・ディランだけがいいやつすぎる。たぶんディランはまだ生きていて、あとの二人は死んでしまったからこういうオハナシになったんだろうね)映像をみるだけでわたしはなんだか、じんとなっちゃったね。ずっとあとを引く映画ですな、これは。
この映画ではボブ・ディランはウォーホルを「王様は裸だ」とばかりに、俗物あつかいするけれど、やはりそういうのってあまり意味がないんだと、思うなあ。
このディランとウォーホルの「対決」シーンで、セジウィックを演じたシエナ・ミラーが最高だったね。期待から不安へ、怯えから絶望へとかわっていく目のうごきは、痛々しいけれど、しかしわたしたちの実人生でもやはりああいうことってあるようなあ、と深い同情と共感を誘うものだったと思う。
映画を見終わって家に帰って、ディランの「Just like a woman」を何度も聴いた。ああ、これはそういう歌だったんだと、やっとわかった。
歌の最後はこうだ。
But you break just like a little girl.
泣ける。
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コメント
ペンネームでおじゃまです。
いい映画を紹介いただきました。ぜひ見なくては。なにしろウォーホールでディランでしょう。おじさんの錆びかけた血が騒ぎます。
この二人に女性という接点があったことはまったく知りませんでした。なにしろウォーホルはゲイだったし。
なんでも書名すれば作品になる、という風潮は、ひょっとしたらダダ派のマルセル・デュシャンの「泉」(例の小便器をひっくり返しただけの作品)あたりが源泉ではないかと。
投稿: 水夫清(清水) | 2008/04/28 19:52
もう一度、おじゃまです。
新作映画といえば、「オースティンの読書会」が話題のようです。
http://woman.excite.co.jp/garbo/concierge/rid_1671/pid_2.html
本好きには、見たくなるような映画でしょう。私も見たい。
投稿: 水夫清(清水) | 2008/04/28 20:35
この映画ではウォーホルはゲイというよりむしろインポテンツのようなイメージで演じられていたような気がします。いずれにしてもイーディとセックスはしていない、あるいはできないことが観客にも明瞭にわかります。それでもディランとイーディがストレート同士として性的な関係ができてしまうと苦しむのはなんとなくわかる。
このあたりの機微は、小学生くらいの子供のころの、「何たらちゃんが誰それちゃんと遊んだから、もううちらあの子とは遊んだらへんねんで」みたいなレベルが一番近いような気がするなあ。(笑)
「オースティンの読書会」も面白そうですね。シネマで予告編を見ましたが、なかなかいい感じでした。
投稿: かわうそ亭 | 2008/04/28 23:28
『ダウン・ザ・ハイウェイ ボブ・ディランの生涯』ハワード・スーンズ/菅野ヘッケル訳(河出書房新社)をななめに読むと、1964年のクリスマスのころにふたりが会った記述があります。
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サラをチェルシーに置いて、ボブはニューヨーク社交界との交流もした。それは富と名声が崇められる世界、悪口が賛美され、排他性がよきものとされる世界—フォークリヴァイヴァルが価値を置くものとは対立する世界だった。この薄っぺらな地下世界のガイドも、ニューワースだった。このころふたりが親しくなった地下世界の住人のひとりに、イーディ・セジウィックがいる。染めたブロンドのイーディは精神不安定で、一九六二年には、名門である家族によって病院移入院させられていた。しかし一九六四年には、イーディは、贅沢な生活をすることで知られる、ニューヨーク一の有名人になっていた。一九六四年のクリスマスのすこし前、ケトル・オブ・フィッシュの前にキャデラックのリムジンが大きな音を立てて停まった。イーディがボブに会いに来たのだった。ふたりはニューワースをひきつれて、ハウストンストリートにある教会のクリスマス照明を見に出かけた。のちにイーディはニューワースと関係を持つようになる。イーディはボブの生涯の物語のなかでは些末な存在ではあるが、のちの「女の如く」などの曲に、部分的な影響を与えたと考えるものが多い。(p.172)
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ことさらに些末な存在と言うのはかえって不自然な感じもあるなあ。
投稿: かわうそ亭 | 2008/04/30 19:20