キャッチャー・イン・ザ・ライ(2)
ライ麦畑の版元なんかは、この小説のことを「不朽の青春文学」なんて帯のキャッチに書く。うん、そうだな、まあそうだろうな書くとすれば、と思いながらじつはわたしは少々釈然としない。
青春文学というのは、まずは主人公のホールデンが16歳であるということ、そしてこの小説がほかならぬこのホールデンの語りで成立していることから来ている。あるいは、主人公と同世代の少年少女が読んで共感できる「文学」なんだよ、ということをいいたいのかもしれない。もっとざっかけなく言えば、商売上のねらいがこういう人々にあるということだろう。
しかし、はっきり言ってこの小説はむしろ大人のためのものである。それは主人公のホールデンがこのオハナシを誰に語りかけているのかということに思いをいたせば、見えてくるはずだ。もちろん同年代の少年少女が読んでくれてもかまわない。しかしほんとうにこのオハナシを理解し、読み解いてくれるのはホールデンにとってはおそらく兄のDBなんじゃないかな、とわたしは思う。小説の構造がそもそも大人(DBであれ、入院したクリニックの精神分析医であれ)に読んでもらうことを前提にしているという感じがするんだな。あるいは、もっと大胆な仮説もわたしにはあるのだが、それは最後に書くことにして、なんでわたしがこれを青春文学と呼ぶことに釈然としない思いを抱くかと言えば、それはわたしの最初の本書との出会いにある。
前に書いたように、わたしが野崎訳のライ麦畑を初めて読んだのは15歳くらいだったと思うのだが、はっきりいってわたしはこのホールデンという主人公に夢中にはなれなかったのですね。まず最初のつまずきはかれの白髪である。頭の片方に子供の頃から白髪がある少年なんてちょっと感情移入しにくよ。(笑)おまけにこいつは、背こそ高いんだけど、すぐに息切れはするは、ルームメイトに喧嘩を仕掛けて、あっけなくノックアウトをくらうようなやつなんだな。なんせ、そのころわたしは15歳だった。15歳の少年が自己同一視したいヒーローというのは、まあ、いろいろあるだろうが、わたしにとってはたとえばスティーヴ・マックイーンのブリットでありましたね。寡黙でタフで頭が切れて、恋人はジャクリーヌ・ビセットである、ト。(笑)
だから、なにしろ喧嘩は弱いし、若白髪だし、童貞だし(ってもちろんその頃、わたしだってそうなんだけど)、学校は落第して退学させられるし、それもひとつだけじゃなくて三つも、なぁんて少年には、できればならんとこう、と思いはしたが、よっしゃおいらもホールデンで行こうとは思わなかったんだなあ。
いや、だから15歳ですからね、その時は。身を立て、名をあげ、やよはげめよ、とはもちろん全然思わなかったが、おれも気をつけんとホールデンになっちゃうなあ、というのが最初の感想だったんじゃなかろうか、はっきり憶えていないが。
ラストシーンの回転木馬に乗ったフィービーを雨に濡れながら見続ける場面だけはほんとうに好きだったけど、総じて、ある種の反面教師のような感じでこの小説を読んだというのがわたしのこの作品との出会いである。
もちろん言うまでもなく、こういう読みはぜんぜんダメであります。お話しにならんね。
だが、こういうダメな読み方しかできなかったのは、わたしがアホーだからですが、乱暴にいえば、若いということは要はアホーだということです。すみません、若い人。(笑)
だから、版元が営業上の仕掛けでもって「不朽の青春小説」なんていうのは、間違いではないけれど、なんだかちょっとインチキみたいな気がしてならないのであります。
では、いま53歳のわたしはこの小説をどんな風に読んだのか、ということを書かないと、そんな読み方しちゃぜんぜんダメよ、という説明にならないね。ということで以下次号。
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