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2008年5月

2008/05/28

土屋文明とラーメン

「短歌現代」6月号の「31チャンネル」というコラムページから。タイトルは「古本ラーメン」。神田神保町の古本屋で 三ツ木照夫著『晩年の志賀直哉』という本を買って読んでいたらそのなかに「ラーメン」と題する小文があったという。内容は志賀直哉とラーメン、ギョウザ、シュウマイなどにまつわる話。そのなかにこんな箇所があるのだそうな。もとの本を読んでいませんので文脈の詳細はわかりませんが、以下、コラムの引用の孫引き。

この話を、ある時、試験の問題用紙を数えながら、同僚の小市草子さんに話した。すると、「実家(うち)の父(土屋文明氏)は自家(うち)の子供たちがラーメンを食べていると『またお前たちはチャンコロそばを喰っているのか』って言うんです」と言われた。

Korakuen いや、べつにどうでもいいんですが。(笑)「中華そば」はいまでも大丈夫でしょうが、「支那そば」はちとうるさそうです。まして、孫引きの土屋先生のラーメンの呼称はいまなら完全にアウトですなあ。
ときどき食べに行く幸楽苑ではラーメンと呼ばずに中華そばで通していたのに、先日、行ったら、メニューも壁のお品書きも、オーダーの復唱も全部ラーメンという呼び方に変わっておりました。いや、中華そばでぜんぜん問題ないと思うんだけど、残念。(笑)

ツチヤクンクウフクと鳴きし山鳩はこぞのこと今はこゑ遠し                            土屋文明「山下水」

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京大バレンタインデー未明闘争(承前)

永田和宏氏の「あの冬の記憶」でもあきらかなように、大学紛争において活動家の学生たちが日常的にもっとも激しく「衝突」していたのは国家権力とではない。これはまあ、あたりまえの話で、機動隊には勝てません。逃げるだけ。
だから一般学生の目から見えるキャンパス内の「衝突」—暴力沙汰は、要するに学生運動の主導権をめぐっての活動家学生どうしの口論、乱闘が主なものであった。(しばらくするとこれが陰惨な内ゲバにエスカレートしてしまうわけですが、それについてはとても書く気になれない)
でもって、フツーの学生に一番わかりやすかったし、参加も容易だったのが、日本共産党系の民青(日本民主青年同盟)と、反日共系のいわゆる新左翼シンパが毎日のように起しているいさかいだった。

68年、69年の大学紛争について、Wikipediaの「全日本学生自治会総連合」の項目にはこのようにあります。

東大では、民青系全学連と、反共産党系の全共闘系、革マル系の間で、1968年(昭和43年)11月22日の図書館前激突を皮切りに武力での衝突が繰り返された(東大闘争のレイテ決戦)。このなかで、民青系は、1968年(昭和43年)9月の法政大学での中核派・プロレタリア軍団参謀本部との激闘以来、本格的な実力部隊によって登場していた。後にこの共産党系の行動隊は「暁行動隊」として名をはせることになる。行動隊の指揮には後に作家として活躍する宮崎学や川上徹の弟などが関わっていた。(中略)
このころ、東大闘争で一般学生中心の、闘争収束に向けたクラス連合の活動があったが、それに参加していた学生として後に小泉純一郎内閣で外務大臣となる町村信孝がいた。(後略)

この時代の民青は少なくとも東大紛争においては、なかなかどうして武闘派であります。ヘルメットは黄色。ゲバ棒は樫製。しゃれにならん。(笑)

ということで、京都大学について、以下、前回の1969年2月14日の「最大の衝突」にいたる経緯を書いておきましょう。資料として用いたのは『京大史記』京都大学創立九十周年記念協力出版委員会編著(1988)であることをあらかじめお断りしておきます。

1968年当時、京都大学の自治会執行部は代々木系、方針は日本共産党の国会総選挙の票集め、反代々木系の学生運動活動家を「暴力学生」として非難するというおきまりのパターン。
1968年10月18日の教養部代議員大会は法経一番教室(例の永田氏が火炎瓶投げ返したところ)に1500人が参加。教養部自治会常任委(代々木系)が出した議案は賛成4、反対521で否決され、反代々木系の議案が賛成534、反対24で可決された。これにより10.21国際反戦デーのバリケードストライキが実現した。(ちなみにこの日の新宿では騒乱罪が適用された)つまり、学内の雰囲気はどの大学でもおよそはこんなものだったのでしょう。
さて京都大学の場合は火種は寮自治会だった。吉田寮、熊野寮とも自治会は反代々木系で、大学当局ともめていた。その要求内容とかなんとかは、めんどくさいから省くが、寮闘委と大学当局の団交が1969年の1月14日にはじまる。総長との団交決裂、会場であった学生部の建物の封鎖が1月16日。
京大の場合は、このバリケード封鎖をしている反代々木系の学生を排除する動きが、代々木系のほうで組織された。五者連絡会議(職組・同学会・院協・生協・生協職組)という。16日、寮闘委の封鎖支持派(反代々木)とこの五者連絡会議が時計台と学生部の間でにらみ合った。

その周囲を二千人の「一般学生」や教職員が取り囲み、騒然とした雰囲気に包まれた。黄ヘルメット姿にゲバ棒装備の「同学会行動隊」(民青系)百人が「C闘委」に襲撃し、学生部前までつめ寄って封鎖解除を試みた。

さて、ここで重要なのは、じつは東大での攻防であります。すなわち1月18日早朝に、本郷に8500人の機動隊員が突入し、翌19日に安田講堂落城。そういう緊迫した情勢と京都大学の紛争もとうぜん無関係ではありえない。
同じ1月19日に五者連絡会議と奥田総長の団交が行われたが、ここで大学当局と五者の間で「緊密な連携」をとる関係ができあがったといいますな。京大を封鎖支持派から取り戻さなければ東大の二の舞だ。研究環境が破壊されてしまう。京大を守れという「京大ナショナリズム」。

一月二十日、翌日の封鎖支持派の「全関西総決起集会」を前に、「五者」を中心に封鎖解除に向けた動きが活発化した。工学部を中心に「研究室を自衛しよう」という共通利害が生まれ、「京大は京大人の手で」という京大ナショナリズムが鼓舞された。
翌二十一日には学外者の立入りが禁止されることが決まった。

一月二十一日、当局及び「五者」は各門に教職員を立て学生証提示を強制し、学外者の立入りを阻止した。このため正午から予定されていた「全関西総決起集会」及び羽仁五郎の講演会は、東一条通りに場所を変えて一千人を集めて行なわれた。夕方には、生協花谷会館周辺から大量の資材が運ばれ、正門に高さ三メートル、奥行き五メートルのバリケードが築かれた。検問は、もはや学外者のみならず、京大生である封鎖支持派にまで及び、一方で民青同盟員はフリーパスであった。封鎖支持派は孤立した学生部封鎖学生の支援のため本部正門から突入を試みるが、バリケードと、民青行動隊のピケと、消化栓からの放水によって、正門に近づくことすら出来なかった。このような衝突が3日間続き、「狂気の3日間」と呼ばれた。驚くべき事実に、本部で正門を固めていた「五者」=民青同盟員及び一般学生に、京大当局は2000個のヘルメットを支給し、二千食の炊き出しを行なうなど金に糸目をつけず、逆封鎖体制を支援していたのである。一月二十三日午前十時半、「五者」の本部逆封鎖により孤立していた学生部封鎖学生=「寮闘委」は、学生部二階の窓に白旗を掲げ自主解除をした。

というわけで、このあとあんまりやり方が汚ねえぞという一般学生の反発で、こんどは民青諸君が学内で孤立し、永田センセーがはからずも巻き込まれた(とはあくまでご本人の弁ですが)2月14日未明の事件にいたるのでありました。重軽傷者二百人以上と『京大史記』にはありますが、まあ、死人を出さなかったのが幸いではありました。
なお、この日はいうまでもなくバレンタインデー、のちに指名手配、地下に潜伏することになる経済学部助手の竹本信弘(滝田修)が、「われわれは大学に愛を告げた」と檄を飛ばしたそうであります。モロゾフのかわりにモロトフ・カクテルを添えて、というわけでありましょうか。そういう時代から40年、はやいものです。

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2008/05/27

京大バレンタインデー未明闘争

20080527 藤原書店の季刊誌「環」(vol.33)の特集は「世界史のなかの68年」。その中に「わたしにとっての68年」というコーナーがある。見開き2頁ばかりの文章を各界の人が寄せている。40年前の学生運動、五月革命のときに二十歳の学生だった人々が、いま六十歳になっているわけでありますな。「DON'T TRUST OVER 30」を合い言葉にした人たちもその二倍の齢を重ねたことになります。
俳人では黒田杏子氏が、歌人では永田和宏氏が寄稿しておられます。

黒田杏子氏は1968年にはすでに博報堂に入社して7年ばかりたった29歳だった。売らんがためのウソ八百を並べ立てなきゃいけないコピーライターでさえなければ、どんな仕事でもやります。そのかわり男とまったく同じにあつかってください、という生意気な女子大生でも、かつては採用するような会社だったのに云々、てな話だが、まあさほど面白い内容でもないので紹介はパス。

永田和宏氏は二十一歳、京都大学理学部物理学科の学生だった。題して「あの冬の記憶」。こっちは結構面白い。こんな風な書き出しから始まる。

一九六八年という年は、私には冬の記憶としてしか残っていない。正確には、六八年から六九年にかけての冬というべきであろうか。

ちなみに当時、わたしは十三歳だった。1969年1月の安田講堂の攻防戦を見て、よしボクも、と思ったかどうか、記憶が定かではないが、思ったような気はするな。(笑)
永田氏の思い出を聞くとしよう。

私は恥ずかしながらノンポリ学生であったが、京大におけるもっとも激しい衝突のあった六九年二月十四日には、たまたまその衝突の真っ只中に巻き込まれることになった。法経一番教室に泊り込んでいた同級生の<陣中見舞い>に行ったところが、五〇〇人ほどの全共闘派学生に囲まれて出られなくなってしまったのである。
窓という窓はすべて割れ、暗闇から拳大以上の大きさの石が飛んでくる。外も内も真っ暗で、石は当たるまでわからないのが怖い。それに較べれば火炎瓶は見える分だけ怖くはなかった。石や火炎瓶を投げ返しながら、この時は本当に死ぬかもしれないと思ったものだ。最後は、いっせいに脱出ということになり、扉の外で一列に待ちかまえている連中に、角材でぼこぼこに殴られながら何とか出ることができた。夜明けに近い時刻だった。

はは、まあ、そういう時代であった。話はこのあと、山中智恵子の歌集『みずかありなむ』をノートに書き写す(なんせ学生だったから歌集なんてものは買えないのであります)日々の想い出なんかになります。

行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ

そのころ意味がわかっていたかどうか疑問だが、これらの歌にこころが清められる思いがしたそうです。まあ、なんとなくわかるような気がするな。
ところで、上記の1969年2月14日の出来事ですが、永田氏の文章には、「法経一番教室に泊り込んでいた同級生の<陣中見舞い>に行ったところが、五〇〇人ほどの全共闘派学生に囲まれて出られなくなってしまった」とありますから、当時、代々木系の人々にシンパシーをもっておられたらしく思えます。しかし、ノンポリであっても民青なんか大嫌いという学生もたくさんいたわけですから、この永田センセーの回顧談は決して事実を曲げてはおられないにしてもその前段が抜け落ちると、どうも民青諸君が一方的な被害者みたいで公平を欠くと思うぞ。(笑)
というわけで、べつに角材でナガタ君をぼこぼこにした全共闘派学生諸君に義理もないけれど、69年の京大闘争をすこしだけ調べてみた。(この項つづく)

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2008/05/23

プロ俳人も愛嬌あるよ

まずは以下の文章を読まれたい。

俳句の出来ばえのいかんは当の俳句の世界を保っているであろう調和の加減に係る。したがって作者である人間が現実の世界においてどんな見方どんな生き方をもっているかということが、ただちに作品の世界の中でも、ひどく羽振りをきかせることになる。げんに作者の人間が出来ているので俳句もこの通り「こく」が出ているなどと、褒め上手が声をかけるようである。その代わり器用には詠めているが作者の人間がいまだ至らぬとか、俳句も人間もともに落第だとか、わるいほうにもきりがない。だが、世間は広く、作者の体臭のような不潔きわまるものまで好きだといってくれる愛読者もあって、このくさいところが格別だと・・・・おかげで、俳人のほうでは持ち味と称するものの切り売りが結構商売になって、材料はなるべくひとつ品がよろしく、おなじみのなんとか俳句なら自信がありますと、どうして当人大まじめなのだからプロ俳人もなかなか愛嬌がある。

さてこの文章、たまたま今読んでいる本の一節。もともとは正字、旧仮名の表記であります。ただし、申し訳なし、「俳句」「俳人」「詠む」「プロ俳人」は愚生のいたずら。原文は、違う言葉が使われておりまして、文章は俳句とはまったく関係ない内容でした。
もちろん、こうすりゃ、ぴったりくるわいな、と可笑しかったからですが、具眼の士なら原文がだれのものか、俳句、俳人に置き換えらた言葉がもともとなんであったか、だいたいお分かりになるかもしれない。
いや笑った。

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2008/05/20

アマゾンのマウスパッド

そんなに古い話でもないが、先日の1995年の電子辞書の話題からふと思いだしたむかし話など。
ジェフ・ベゾスがシアトルで Amazon.com を開業したのがやはり1995年の7月だった。

わたしがはじめてこの書店のことを知ったのは、たぶん日経新聞か日経産業新聞のごく小さな記事だったと思う。アメリカでインターネットをつかって本の販売をする会社ができた、てなシンプルな内容だった。否定的なニュアンスでもないが、さして将来性があるような内容の記事でもなかったように思う。このあたり、いつのことだったか残念ながら記憶が不確かだが、たぶん開業からさほど間のないころではなかっただろうか。
新奇なものが大好きな人間だった(いまはそうでもない)ので、さっそく家のPCからモデムでメモしておいたURLにアクセスした。ちなみにそのときつかっていたブラウザーは、ネスケ(Netscape)である。マイクロソフトのインターネット・エクスプローラーが世に出るのはもう少しあとのこと。もちろん検索エンジンなんてものはありませんから、愚直にURLを電話番号のように打ち込んだものであります。

当時の Amazon.com の画面はたしか大河をイメージしたロゴのようなものが初期画面として出て来たような気がするが、これまた記憶定かではない。
いずれにしても、通信料金(当時は時間で課金されていたのです)を気にしながら、本を選んで注文し、クレジットカードの番号を入力し、こんなんでホンマにシアトルから本が届くんかいなと半分疑いながら待っているとちゃんと届いたから、へえ、こりゃ便利な世の中になったもんだと喜んだ。このときの記念すべき最初の一冊がなんであったかがどうもよくわからないのだが、これについては後述する。

じつは、その数年前から、ある方に教えていただいて、ボストンのミステリー専門書店にfaxで洋書を注文していた。これはこれで、なかなかよかった(たとえばJames Ellroyの『American Tabloid』を注文したら、見返しに著者のサインが入っていた。サイン会をそこで開いていたのですね)のだが、いったん登録するとクリックするだけで本が届くという便利さには勝てない。読みたいミステリーやらスパイ小説なんぞがでるたびに利用すること数ヶ月、あるときなにも注文していないのにアマゾンから薄手のパーセルが届いた。あれ、なんじゃろなと開けてみたら、マウスパッドが入っていた。カードや手紙は入っていなかったと思う。毎度ご利用ありがとうございます、てな意味だろう。
2008_0520 そのあともコーヒーのマグカップをもらったこともあるが、やがて利用者が爆発的に増加したからだろう、こういうギフトはそれっきりもらっていない。Amazon.co.jp ができてからは、アメリカのアマゾンは使わなくなったけれど、もちろん日本法人から、なにかもらったことはないなあ。(笑)

このマウスパッドは長く愛用した。すこし傷んで来たので、アマゾンが初期のカスタマーに配ったマウスパッドなんてものがあったという記念に保管しておくことにした。
拡大していただくとわかるが、グルーチョ・マルクスが引用されている。

“Outside of a dog, a book is a man's best friend. Inside of a dog it's too dark to read."--Groucho Marx

ジェフ・ベゾスの趣味なのかもしれません。

で、この記念品、いったいいつ贈られてきたのかをどこかに書いておけばよかったのですが、正確にわからない。
Amazon.com は10年間、そのアカウントの取引記録を保管しているようですが、これだと残念ながら1998年に注文した本までしか遡ることができない。それ以前も注文していたことは間違いないと思うのですね。

わたしの記憶では、上記のボストンの本屋からアマゾンに乗り換えたのは、Thomas H. Cookの『BREAKHEART HILL』(1995)か『THE CHATHAM SCHOOL AFFAIR』(1996)だったような気がするのですが、もしかしたら前者は某氏から頂戴したものだったかもしれない。
このマウスパッドは、上に書いたように利用開始から数ヶ月、1年もたっていない頃に送られてきたように思うのだが、そうすると、やはりわたしのアマゾンへの初オーダーは1995年の終わりか1996年のはじめで、この記念品はもしかすると開業1周年記念のプレミアムだったのかもしれない。

このあたり、同じマウスパッドを持っている人がいたら、ぜひ教えていただきたいのだが、ネットで検索する限りでは、いまところ詳細不明であります。

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2008/05/17

新旧電子辞書

カミさんが新しい電子辞書を買っていた。
近所のイオンで安売りセールをやっていたのだそうな。
シャープの「Papyrus」(PW-AT770)、お値段は19,800円。どうでもいいのだが、辞書類のコンテンツが100種類以上あるんだとか。ふーんと、メニューをいじってみたら、国語、古語、逆引き、漢和、英和、英英、中日英、なんてのは当たり前のように入っていて、なんと「角川書店/合本俳句歳時記(第3版)」なんてのまでありますね。しかし、ほとんど使わないような辞典類(「汚れをおとす!ワザあり辞典」なんて絶対要らないと思うぞ、おれは)が世の中にはたくさんあるもんだ、と感心。
いま、調べてみたら、わたしの電子辞書(セイコー電子工業/TR-7000)は1995年1月20日に買っていた。コンテンツ(というも無意味だが)は研究社の「新英和中辞典(第5版)」と「新和英中辞典(第3版)」の二本のみ。購入価格は26,800円と記しておりますな。
あ、もちろんいまでも立派に現役でございます。(笑)ちと重い(物理的に)のが難点なんですけどね。

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2008/05/10

カポーティ、ウォーホル

『イーディ』ジーン・スタイン/ジョージ・プリンプトン(筑摩書房)から、トルーマン・カポーティの談話。

四十年代の末だったか、それとも一九五〇だったか、ともかくわたしの母親がまだ生きてたときだ。アンディ・ウォーホルと名乗る人物から手紙が届くようになった。いわゆるファン・レターってやつさ。

年譜によれば、カポーティの『Other Voices, Other Rooms』が出たのが1948年、23歳のときのことだ。たちまちベストセラーとなり、かれは時の人となる。
そのときまだ生きていたという母親は、いろいろ問題を抱えた人だったが、1954年の1月に死んだ。睡眠薬の飲み過ぎだったという。
カポーティは、ファン・レターには絶対に返事を書かない主義だった。下手に返事を出したら、文通ごっこに巻き込まれたり、見ず知らずのやつが突然訪ねて来たりしかねない。当然、このウォーホルなる無名の男のファン・レターも無視していた。しかし、ウォーホルの手紙はめげる気配がなかった。

そのうち、毎日届くようになった。毎日だぞ!こっちも否応なくこの人物を意識するようになってたよ。おまけに、絵も一緒に届くようになった。のちの彼の絵のようなものじゃなくて、わたしの小説に忠実な挿絵のようなもの・・・・・少なくとも、そのつもりで描かれたものだった。それだけじゃない。間違いなく、アンディ・ウォーホルはわたしの住んでる建物の外でぶらぶらしていて、わたしが出たり入ったりするのを見ようと待ちかまえてもいた。
ある日、母がコネチカットから訪ねて来た。彼女はちょっとアル中なんだ。で、どういうことでか、道ばたにいるかれに母が話かけ、アパートに誘った。わたしが部屋に帰ってくると、かれがすわっていたよ。あのときの顔といまの顔とまったく変わらない。ほんのちょっとも変化してないよ。

カポーティはしかたなく話し相手になってやった。母のほうが酔っぱらってしまっていたからだ。

かれは自分のことばかりしゃべった。母親と猫二十五匹と一緒に暮らしているんだとかなんとか。この先なんの期待もない人生の敗残者のように見えたよ。希望も見込みもない、生まれながらの人生の敗者。ともかく、打ち解けて楽しく話していくと、帰った。
それから毎日、かれは電話をかけてきた。自分の近況を、自分の悩みを、母親や猫どものことを、自分がなにをしているかをしゃべった。

あるとき、カポーティの母親が、アンディをはげしく罵倒して二度と電話をしないようにと言い渡した。母親はアル中の例にもれず、ジギルとハイドのように人格が入れ替わったためだとカポーティは説明する。それっきり、電話はかかってこなくなった。

それから、噂も聞かなかったが、だいぶしてから、ウォーホルの名前が市内で喧伝されるようになった。個展でカポーティに捧ぐと書かれた作品であるところの黄金の靴が届いたりもした。あるとき街でばったり顔を合わせた。かつて世界一孤独で友達なんかだれもいない人間のように思ったウォーホル、かつて本当に気の毒だと思ったウォーホルだったが、7、8人の取り巻きを引き連れていた。

振り返って考えてみると、かれはかなり早い時期に自分の欲しいものがなんであるのかが分かったんだと思う。名声—有名な人物になること。これだよ。かれの原動力はこれだけだ。名声がすべてで・・・・才能も芸術もどうでもよかった。これに比べると、わたしの場合はまるで逆だった。芸術にものすごくこだわった挙句、はっと気がつくと名声を手に入れていた。誤解しないでほしいが、アンディ・ウォーホルに才能がないって言ってるんじゃないよ。間違いなく少しはあるし、ないわけがない。ただ、自己宣伝の天才なのだということ以外には、はっきりとした才能はわたしには見つけられないってことさ。

さすが悪口もここまでくるとお見事という感じがするなあ。(笑)

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2008/05/07

王妃と首斬り役人

池内紀・文、喜多木ノ実・画の『ドイツ四季暦 秋/冬 海から街へ』(東京書籍)より。

アウブスブルクのシェツラー宮殿にあるバロック美術館には、ウルリヒ・マイル作の「首斬り人の肖像」がある。一六五四年の制作で、三十年戦争直後に描かれたものだ。上半身裸の青年が、首斬り用の刀を突きたてて立っている。ととのった顔で、髪は長く、肩と胸がたくましい。革手袋をつけた左手を軽く腰にそえている。

フランスのブルボン家に輿入れをする道中のハプスブル家の王女が、1770年に、この街を通ったときにこの絵が古物商の店先に飾られているのを見つけた。なぜか魅せられて、欲しいと言った。他人の預かりものなので売ることはできませんと断られた。
それから23年後。

パリの革命広場に断頭台が作られていて、代々の首斬り役人であるサムソン家の者が首をはねる。そのときは若いアンリ・サムソンが当番だった。美貌で、たくましく、そのため群衆に人気があった。アンリ・サムソンは上半身裸で、両手に革の手袋をはめ、刀を杖のようについて断頭台に立っていた。その姿は、アウグスブルクの肖像に見たものと瓜二つだった。マリー・アントワネットは、よほどおどろいたのだろう、ひざまずこうとして、ヨロヨロとよろけ、おもわずサムソン青年の足を踏んだ。
「失礼(パルドン)、ムシュー」
このひとことが、王妃の最後のことばとして歴史に伝わっている。

Rose3 連休の最終日だったので、一日、カウチに寝そべって『ベルサイユのばら』全5冊を読む。いやあ、おもしろいね、これ。
はじめの方は、まあ、ひやかしで読み始めたのでありますが、三部会招集のあたりから、俄然面白くなりまして、このフランス大革命の熱と、オスカルとアンドレの運命が、共振するかのように進んでゆく展開にはマイッタ。やっと長年の宿願(というほどおおげさなものではないが)を果たすことができました。(笑)
一応、わたくしツワイクの『マリー・アントワネット』と『ジョセフ・フーシェ』も読んでおりますが、このマンガ、なかなかあなどれません。なによりこの情熱には敬意を表します。

ところで最終巻、断頭台上に、王妃とたくましい首斬り役人とを、池田理代子さんも描いておられますが、このエピソードはこの傑作には入っておりませんね。残念!

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2008/05/06

つぐない

Atenment 午前中仕事があったので、テキトーにすませて、茶屋町の蕎麦屋で鴨せいろを食べて、ロフト地下のテアトル梅田で「つぐない」を見る。
たまたま両隣がわたしと同年輩の(すなわちややご年配の)ご婦人。どちらも途中から肩をふるわせながら必死に涙をこらえておられましたが、ついにラストで盛大な歔欷となりました。いや、まあ人のことは言えない。わたしも、ラストでなにが明かされるかちゃんと知っているにもかかわらず、おもわず泣いてしまった。

というわけで、わが愛する『贖罪』の映画化ですが、結論から言うと、これはよかった。原作の細かなところをきちんと映像化してみせてくれた。小賢しいブンガク的な表現で小説と張り合ってみせるようなバカをやっていない。監督のジョー・ライトは「プライドと偏見」もよかったけれど、この「つぐない」はたいへんすぐれた娯楽映画として楽しめる。わたしは、ゲージツ映画は嫌いなので、こういう明暗くっきりとしたドラマは大好きであります。

ブライオニーを3人の女優が、13歳(シアーシャ・ローナン)、18歳(ロモーラ・ガライ)、老女(ヴァネッサ・レッドグレイブ)と演じているのだが、どの年代のブライオニーも捨てがたい。なんの説明もないにもかかわらず、18歳のパートになったとたんに、それまでの5年の歳月の意味がなんであったのか、ブライオニーの抑制された表情によって観客に伝わる。

もうひとつ、驚いたのは、ボビーがたどりつくダンケルクの場面。なんとこのシークエンス、延々とステディカムで撮っていくのですが、信じられないことにほとんどワンテイクの長まわしである。(パンフレットの解説によれば3テイクだとか)
この箇所は、もちろん意識的なものですから、きちんと意味を考える必要がある。つまりこれは、この情景を「見ている」目が瞬きもせず、じっと精魂をかけて注視していることを表しています。だれが見ているのかは、原作を読んだ人にはわかっていますし、映画を見終えた観客もできればこのシーンをもういちどふりかえる値打ちがあるでしょうね。

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2008/05/04

あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか

『あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか』辻桃子(新潮社)を読む。
うるせえ、ほっといてくれ、てな題名ですが(笑)、具体的なアドヴァイスは参考になりますな。
たとえば、次のような添削。

夏の月苔に染まりし石畳  和田雄剛

夏の煌々とした月に照らされて苔の石畳がありありと見える。ただ残念なのは、「苔に染まりし」である。「苔の緑に染まり」ということを省略したつもりだろうが、これでは省略しすぎ。また苔の緑をあえて強調すると、月光に対してポイントが二つになってまとまりがつかなくなる。この句の場合は「夏の涼やかな月が、苔むした石畳を照らしている」ということだけでよい。一句のポイントは一つに決めよう。

→夏の月苔びつしりと石畳

凍蝶や廊下の隅の電話室  田代草猫

「や」で大きく切ると、凍蝶がどこにいるのかわからない。電話をかけている人が凍蝶のようにも読める。電話室の中で凍えて死んだ蝶を見つけたとすればリアル。

→蝶凍つる廊下の隅の電話室

どこまでも現実の「蝶」として写生すると、これが限りなく「幻想の蝶」に近づいてゆく。

大時化の海見に行かむ耳袋  山野むかご

これから「行かむ」でなく。「もう来た」とすれば。大時化の海が想像ではなく現実になる。

→大時化の海見に来たり耳袋

「あとがき」に1987年、四十二歳のときに始めた結社「童子」も20年を超えたとして後継者問題についての言及があるのが注目される。

しかし、結社の主宰や代表も、毎月何千句も選び続けて二十年、三十年たつと、高齢化し疲れが出てくる。結社を辞めたり、後継者に引き継いだりする時期に直面する。そうなったらどうするか、と私も考えてみることがある。私が始めた会なのだから、一代限りできっぱりと辞めてしまうのもよい。だが、遺された会員たちは行くところを失ったり、ちりづりに別れたりするのを悲しみ、これまで通り精進し合う場、今まで続けてきた方針を引き継ぎ、指導してくれる人を求めるのではないか。多くの結社や同人誌が、弟子や近親者によって引き継がれてゆくのは、自然のことなのだ。
引き継ぐのが子供なら世襲だが、世襲というだけで拒否すべきではない。誰が引き継ぐかは、そこに集まった人たちの意思に任されるべきなのだ。仮に主宰にふさわしくない後継者なら、弟子であれ子であれ、長く連衆がついてゆくはずはない。

正論で、とくに異論もない。
ただし、本書のなかで明らかにされているが、如月真菜が辻桃子の娘であることを念頭におくと、多少、微妙な感慨も憶える。
このことは、本書ではじめて知ったことだが、ああ、それで、という腑に落ちることもあった。
まあ、わたしにはなんの関係もないことだから、どうでもいいのだけれど。

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2008/05/01

4月に読んだ本

『青柳瑞穂 骨董のある風景』青柳いづみこ編(みすず書房/2004)
『詩人 与謝蕪村の世界』森本哲郎(講談社学術文庫/1996)
『ケータイ・ストーリーズ』バリー・ユアグロー/柴田元幸訳(新潮社/2005)
『凛然たる青春—若き俳人たちの肖像』高柳克弘(富士見書房/2007)
『カリフォルニア・ガール』T.ジェファーソン・パーカー/七搦理美子訳(ハヤカワ文庫/2008)
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』J.D. サリンジャー/村上春樹訳(白水社 /2006)
『サリンジャー—伝説の半生、謎の隠遁生活』森川展男(中公新書/1998)
『北朝鮮は、いま』北朝鮮研究学会編(岩波新書/2007)
『石川淳選集〈第13巻〉評論・随筆』(岩波書店)
『足利尊氏』高柳光壽(春秋社/1987)
『古池に蛙は飛びこんだか』長谷川櫂(花神社/2005)
『オバはん編集長でもわかる世界のオキテ—福田和也緊急講義』 (新潮文庫/2002)
『アメリカの影』加藤典洋(河出書房新社/1985)
『江戸の替え歌百人一首』江口 孝夫 (勉誠出版 /2007)
『アフガニスタンの風』ドリス・レッシング/加地永都子訳(晶文社/1988)
『ネヴァーランドの女王』ケイト・サマースケイル/金子宣子訳(新潮社/1999)
『ひとびとの跫音〈上〉』司馬遼太郎 (中公文庫)
『対談—中世の再発見』網野善彦+阿部謹也(平凡社ライブラリー/1994)
『ひとびとの跫音〈下〉』司馬遼太郎 (中公文庫)

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4月に見た映画

ザ・シューター/極大射程   
監督:アントワーン・フークア
出演:マーク・ウォールバーグ、マイケル・ペーニャ、ダニー・グローヴァー、ケイト・マーラ

ファクトリー・ガール
監督:ジョージ・ヒッケンルーパー
出演:シエナ・ミラー 、 ガイ・ピアース 、 ヘイデン・クリステンセン

アルゼンチンババア
監督:長尾直樹
出演:堀北真希、鈴木京香、役所広司、森下愛子、手塚理美、田中直樹

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