永田和宏氏の「あの冬の記憶」でもあきらかなように、大学紛争において活動家の学生たちが日常的にもっとも激しく「衝突」していたのは国家権力とではない。これはまあ、あたりまえの話で、機動隊には勝てません。逃げるだけ。
だから一般学生の目から見えるキャンパス内の「衝突」—暴力沙汰は、要するに学生運動の主導権をめぐっての活動家学生どうしの口論、乱闘が主なものであった。(しばらくするとこれが陰惨な内ゲバにエスカレートしてしまうわけですが、それについてはとても書く気になれない)
でもって、フツーの学生に一番わかりやすかったし、参加も容易だったのが、日本共産党系の民青(日本民主青年同盟)と、反日共系のいわゆる新左翼シンパが毎日のように起しているいさかいだった。
68年、69年の大学紛争について、Wikipediaの「全日本学生自治会総連合」の項目にはこのようにあります。
東大では、民青系全学連と、反共産党系の全共闘系、革マル系の間で、1968年(昭和43年)11月22日の図書館前激突を皮切りに武力での衝突が繰り返された(東大闘争のレイテ決戦)。このなかで、民青系は、1968年(昭和43年)9月の法政大学での中核派・プロレタリア軍団参謀本部との激闘以来、本格的な実力部隊によって登場していた。後にこの共産党系の行動隊は「暁行動隊」として名をはせることになる。行動隊の指揮には後に作家として活躍する宮崎学や川上徹の弟などが関わっていた。(中略)
このころ、東大闘争で一般学生中心の、闘争収束に向けたクラス連合の活動があったが、それに参加していた学生として後に小泉純一郎内閣で外務大臣となる町村信孝がいた。(後略)
この時代の民青は少なくとも東大紛争においては、なかなかどうして武闘派であります。ヘルメットは黄色。ゲバ棒は樫製。しゃれにならん。(笑)
ということで、京都大学について、以下、前回の1969年2月14日の「最大の衝突」にいたる経緯を書いておきましょう。資料として用いたのは『京大史記』京都大学創立九十周年記念協力出版委員会編著(1988)であることをあらかじめお断りしておきます。
1968年当時、京都大学の自治会執行部は代々木系、方針は日本共産党の国会総選挙の票集め、反代々木系の学生運動活動家を「暴力学生」として非難するというおきまりのパターン。
1968年10月18日の教養部代議員大会は法経一番教室(例の永田氏が火炎瓶投げ返したところ)に1500人が参加。教養部自治会常任委(代々木系)が出した議案は賛成4、反対521で否決され、反代々木系の議案が賛成534、反対24で可決された。これにより10.21国際反戦デーのバリケードストライキが実現した。(ちなみにこの日の新宿では騒乱罪が適用された)つまり、学内の雰囲気はどの大学でもおよそはこんなものだったのでしょう。
さて京都大学の場合は火種は寮自治会だった。吉田寮、熊野寮とも自治会は反代々木系で、大学当局ともめていた。その要求内容とかなんとかは、めんどくさいから省くが、寮闘委と大学当局の団交が1969年の1月14日にはじまる。総長との団交決裂、会場であった学生部の建物の封鎖が1月16日。
京大の場合は、このバリケード封鎖をしている反代々木系の学生を排除する動きが、代々木系のほうで組織された。五者連絡会議(職組・同学会・院協・生協・生協職組)という。16日、寮闘委の封鎖支持派(反代々木)とこの五者連絡会議が時計台と学生部の間でにらみ合った。
その周囲を二千人の「一般学生」や教職員が取り囲み、騒然とした雰囲気に包まれた。黄ヘルメット姿にゲバ棒装備の「同学会行動隊」(民青系)百人が「C闘委」に襲撃し、学生部前までつめ寄って封鎖解除を試みた。
さて、ここで重要なのは、じつは東大での攻防であります。すなわち1月18日早朝に、本郷に8500人の機動隊員が突入し、翌19日に安田講堂落城。そういう緊迫した情勢と京都大学の紛争もとうぜん無関係ではありえない。
同じ1月19日に五者連絡会議と奥田総長の団交が行われたが、ここで大学当局と五者の間で「緊密な連携」をとる関係ができあがったといいますな。京大を封鎖支持派から取り戻さなければ東大の二の舞だ。研究環境が破壊されてしまう。京大を守れという「京大ナショナリズム」。
一月二十日、翌日の封鎖支持派の「全関西総決起集会」を前に、「五者」を中心に封鎖解除に向けた動きが活発化した。工学部を中心に「研究室を自衛しよう」という共通利害が生まれ、「京大は京大人の手で」という京大ナショナリズムが鼓舞された。
翌二十一日には学外者の立入りが禁止されることが決まった。
一月二十一日、当局及び「五者」は各門に教職員を立て学生証提示を強制し、学外者の立入りを阻止した。このため正午から予定されていた「全関西総決起集会」及び羽仁五郎の講演会は、東一条通りに場所を変えて一千人を集めて行なわれた。夕方には、生協花谷会館周辺から大量の資材が運ばれ、正門に高さ三メートル、奥行き五メートルのバリケードが築かれた。検問は、もはや学外者のみならず、京大生である封鎖支持派にまで及び、一方で民青同盟員はフリーパスであった。封鎖支持派は孤立した学生部封鎖学生の支援のため本部正門から突入を試みるが、バリケードと、民青行動隊のピケと、消化栓からの放水によって、正門に近づくことすら出来なかった。このような衝突が3日間続き、「狂気の3日間」と呼ばれた。驚くべき事実に、本部で正門を固めていた「五者」=民青同盟員及び一般学生に、京大当局は2000個のヘルメットを支給し、二千食の炊き出しを行なうなど金に糸目をつけず、逆封鎖体制を支援していたのである。一月二十三日午前十時半、「五者」の本部逆封鎖により孤立していた学生部封鎖学生=「寮闘委」は、学生部二階の窓に白旗を掲げ自主解除をした。
というわけで、このあとあんまりやり方が汚ねえぞという一般学生の反発で、こんどは民青諸君が学内で孤立し、永田センセーがはからずも巻き込まれた(とはあくまでご本人の弁ですが)2月14日未明の事件にいたるのでありました。重軽傷者二百人以上と『京大史記』にはありますが、まあ、死人を出さなかったのが幸いではありました。
なお、この日はいうまでもなくバレンタインデー、のちに指名手配、地下に潜伏することになる経済学部助手の竹本信弘(滝田修)が、「われわれは大学に愛を告げた」と檄を飛ばしたそうであります。モロゾフのかわりにモロトフ・カクテルを添えて、というわけでありましょうか。そういう時代から40年、はやいものです。
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