« 2008年4月 | トップページ

2008年5月

2008/05/10

カポーティ、ウォーホル

『イーディ』ジーン・スタイン/ジョージ・プリンプトン(筑摩書房)から、トルーマン・カポーティの談話。

四十年代の末だったか、それとも一九五〇だったか、ともかくわたしの母親がまだ生きてたときだ。アンディ・ウォーホルと名乗る人物から手紙が届くようになった。いわゆるファン・レターってやつさ。

年譜によれば、カポーティの『Other Voices, Other Rooms』が出たのが1948年、23歳のときのことだ。たちまちベストセラーとなり、かれは時の人となる。
そのときまだ生きていたという母親は、いろいろ問題を抱えた人だったが、1954年の1月に死んだ。睡眠薬の飲み過ぎだったという。
カポーティは、ファン・レターには絶対に返事を書かない主義だった。下手に返事を出したら、文通ごっこに巻き込まれたり、見ず知らずのやつが突然訪ねて来たりしかねない。当然、このウォーホルなる無名の男のファン・レターも無視していた。しかし、ウォーホルの手紙はめげる気配がなかった。

そのうち、毎日届くようになった。毎日だぞ!こっちも否応なくこの人物を意識するようになってたよ。おまけに、絵も一緒に届くようになった。のちの彼の絵のようなものじゃなくて、わたしの小説に忠実な挿絵のようなもの・・・・・少なくとも、そのつもりで描かれたものだった。それだけじゃない。間違いなく、アンディ・ウォーホルはわたしの住んでる建物の外でぶらぶらしていて、わたしが出たり入ったりするのを見ようと待ちかまえてもいた。
ある日、母がコネチカットから訪ねて来た。彼女はちょっとアル中なんだ。で、どういうことでか、道ばたにいるかれに母が話かけ、アパートに誘った。わたしが部屋に帰ってくると、かれがすわっていたよ。あのときの顔といまの顔とまったく変わらない。ほんのちょっとも変化してないよ。

カポーティはしかたなく話し相手になってやった。母のほうが酔っぱらってしまっていたからだ。

かれは自分のことばかりしゃべった。母親と猫二十五匹と一緒に暮らしているんだとかなんとか。この先なんの期待もない人生の敗残者のように見えたよ。希望も見込みもない、生まれながらの人生の敗者。ともかく、打ち解けて楽しく話していくと、帰った。
それから毎日、かれは電話をかけてきた。自分の近況を、自分の悩みを、母親や猫どものことを、自分がなにをしているかをしゃべった。

あるとき、カポーティの母親が、アンディをはげしく罵倒して二度と電話をしないようにと言い渡した。母親はアル中の例にもれず、ジギルとハイドのように人格が入れ替わったためだとカポーティは説明する。それっきり、電話はかかってこなくなった。

それから、噂も聞かなかったが、だいぶしてから、ウォーホルの名前が市内で喧伝されるようになった。個展でカポーティに捧ぐと書かれた作品であるところの黄金の靴が届いたりもした。あるとき街でばったり顔を合わせた。かつて世界一孤独で友達なんかだれもいない人間のように思ったウォーホル、かつて本当に気の毒だと思ったウォーホルだったが、7、8人の取り巻きを引き連れていた。

振り返って考えてみると、かれはかなり早い時期に自分の欲しいものがなんであるのかが分かったんだと思う。名声—有名な人物になること。これだよ。かれの原動力はこれだけだ。名声がすべてで・・・・才能も芸術もどうでもよかった。これに比べると、わたしの場合はまるで逆だった。芸術にものすごくこだわった挙句、はっと気がつくと名声を手に入れていた。誤解しないでほしいが、アンディ・ウォーホルに才能がないって言ってるんじゃないよ。間違いなく少しはあるし、ないわけがない。ただ、自己宣伝の天才なのだということ以外には、はっきりとした才能はわたしには見つけられないってことさ。

さすが悪口もここまでくるとお見事という感じがするなあ。(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/05/07

王妃と首斬り役人

池内紀・文、喜多木ノ実・画の『ドイツ四季暦 秋/冬 海から街へ』(東京書籍)より。

アウブスブルクのシェツラー宮殿にあるバロック美術館には、ウルリヒ・マイル作の「首斬り人の肖像」がある。一六五四年の制作で、三十年戦争直後に描かれたものだ。上半身裸の青年が、首斬り用の刀を突きたてて立っている。ととのった顔で、髪は長く、肩と胸がたくましい。革手袋をつけた左手を軽く腰にそえている。

フランスのブルボン家に輿入れをする道中のハプスブル家の王女が、1770年に、この街を通ったときにこの絵が古物商の店先に飾られているのを見つけた。なぜか魅せられて、欲しいと言った。他人の預かりものなので売ることはできませんと断られた。
それから23年後。

パリの革命広場に断頭台が作られていて、代々の首斬り役人であるサムソン家の者が首をはねる。そのときは若いアンリ・サムソンが当番だった。美貌で、たくましく、そのため群衆に人気があった。アンリ・サムソンは上半身裸で、両手に革の手袋をはめ、刀を杖のようについて断頭台に立っていた。その姿は、アウグスブルクの肖像に見たものと瓜二つだった。マリー・アントワネットは、よほどおどろいたのだろう、ひざまずこうとして、ヨロヨロとよろけ、おもわずサムソン青年の足を踏んだ。
「失礼(パルドン)、ムシュー」
このひとことが、王妃の最後のことばとして歴史に伝わっている。

Rose3 連休の最終日だったので、一日、カウチに寝そべって『ベルサイユのばら』全5冊を読む。いやあ、おもしろいね、これ。
はじめの方は、まあ、ひやかしで読み始めたのでありますが、三部会招集のあたりから、俄然面白くなりまして、このフランス大革命の熱と、オスカルとアンドレの運命が、共振するかのように進んでゆく展開にはマイッタ。やっと長年の宿願(というほどおおげさなものではないが)を果たすことができました。(笑)
一応、わたくしツワイクの『マリー・アントワネット』と『ジョセフ・フーシェ』も読んでおりますが、このマンガ、なかなかあなどれません。なによりこの情熱には敬意を表します。

ところで最終巻、断頭台上に、王妃とたくましい首斬り役人とを、池田理代子さんも描いておられますが、このエピソードはこの傑作には入っておりませんね。残念!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/05/06

つぐない

Atenment 午前中仕事があったので、テキトーにすませて、茶屋町の蕎麦屋で鴨せいろを食べて、ロフト地下のテアトル梅田で「つぐない」を見る。
たまたま両隣がわたしと同年輩の(すなわちややご年配の)ご婦人。どちらも途中から肩をふるわせながら必死に涙をこらえておられましたが、ついにラストで盛大な歔欷となりました。いや、まあ人のことは言えない。わたしも、ラストでなにが明かされるかちゃんと知っているにもかかわらず、おもわず泣いてしまった。

というわけで、わが愛する『贖罪』の映画化ですが、結論から言うと、これはよかった。原作の細かなところをきちんと映像化してみせてくれた。小賢しいブンガク的な表現で小説と張り合ってみせるようなバカをやっていない。監督のジョー・ライトは「プライドと偏見」もよかったけれど、この「つぐない」はたいへんすぐれた娯楽映画として楽しめる。わたしは、ゲージツ映画は嫌いなので、こういう明暗くっきりとしたドラマは大好きであります。

ブライオニーを3人の女優が、13歳(シアーシャ・ローナン)、18歳(ロモーラ・ガライ)、老女(ヴァネッサ・レッドグレイブ)と演じているのだが、どの年代のブライオニーも捨てがたい。なんの説明もないにもかかわらず、18歳のパートになったとたんに、それまでの5年の歳月の意味がなんであったのか、ブライオニーの抑制された表情によって観客に伝わる。

もうひとつ、驚いたのは、ボビーがたどりつくダンケルクの場面。なんとこのシークエンス、延々とステディカムで撮っていくのですが、信じられないことにほとんどワンテイクの長まわしである。(パンフレットの解説によれば3テイクだとか)
この箇所は、もちろん意識的なものですから、きちんと意味を考える必要がある。つまりこれは、この情景を「見ている」目が瞬きもせず、じっと精魂をかけて注視していることを表しています。だれが見ているのかは、原作を読んだ人にはわかっていますし、映画を見終えた観客もできればこのシーンをもういちどふりかえる値打ちがあるでしょうね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/05/04

あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか

『あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか』辻桃子(新潮社)を読む。
うるせえ、ほっといてくれ、てな題名ですが(笑)、具体的なアドヴァイスは参考になりますな。
たとえば、次のような添削。

夏の月苔に染まりし石畳  和田雄剛

夏の煌々とした月に照らされて苔の石畳がありありと見える。ただ残念なのは、「苔に染まりし」である。「苔の緑に染まり」ということを省略したつもりだろうが、これでは省略しすぎ。また苔の緑をあえて強調すると、月光に対してポイントが二つになってまとまりがつかなくなる。この句の場合は「夏の涼やかな月が、苔むした石畳を照らしている」ということだけでよい。一句のポイントは一つに決めよう。

→夏の月苔びつしりと石畳

凍蝶や廊下の隅の電話室  田代草猫

「や」で大きく切ると、凍蝶がどこにいるのかわからない。電話をかけている人が凍蝶のようにも読める。電話室の中で凍えて死んだ蝶を見つけたとすればリアル。

→蝶凍つる廊下の隅の電話室

どこまでも現実の「蝶」として写生すると、これが限りなく「幻想の蝶」に近づいてゆく。

大時化の海見に行かむ耳袋  山野むかご

これから「行かむ」でなく。「もう来た」とすれば。大時化の海が想像ではなく現実になる。

→大時化の海見に来たり耳袋

「あとがき」に1987年、四十二歳のときに始めた結社「童子」も20年を超えたとして後継者問題についての言及があるのが注目される。

しかし、結社の主宰や代表も、毎月何千句も選び続けて二十年、三十年たつと、高齢化し疲れが出てくる。結社を辞めたり、後継者に引き継いだりする時期に直面する。そうなったらどうするか、と私も考えてみることがある。私が始めた会なのだから、一代限りできっぱりと辞めてしまうのもよい。だが、遺された会員たちは行くところを失ったり、ちりづりに別れたりするのを悲しみ、これまで通り精進し合う場、今まで続けてきた方針を引き継ぎ、指導してくれる人を求めるのではないか。多くの結社や同人誌が、弟子や近親者によって引き継がれてゆくのは、自然のことなのだ。
引き継ぐのが子供なら世襲だが、世襲というだけで拒否すべきではない。誰が引き継ぐかは、そこに集まった人たちの意思に任されるべきなのだ。仮に主宰にふさわしくない後継者なら、弟子であれ子であれ、長く連衆がついてゆくはずはない。

正論で、とくに異論もない。
ただし、本書のなかで明らかにされているが、如月真菜が辻桃子の娘であることを念頭におくと、多少、微妙な感慨も憶える。
このことは、本書ではじめて知ったことだが、ああ、それで、という腑に落ちることもあった。
まあ、わたしにはなんの関係もないことだから、どうでもいいのだけれど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/05/01

4月に読んだ本

『青柳瑞穂 骨董のある風景』青柳いづみこ編(みすず書房/2004)
『詩人 与謝蕪村の世界』森本哲郎(講談社学術文庫/1996)
『ケータイ・ストーリーズ』バリー・ユアグロー/柴田元幸訳(新潮社/2005)
『凛然たる青春—若き俳人たちの肖像』高柳克弘(富士見書房/2007)
『カリフォルニア・ガール』T.ジェファーソン・パーカー/七搦理美子訳(ハヤカワ文庫/2008)
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』J.D. サリンジャー/村上春樹訳(白水社 /2006)
『サリンジャー—伝説の半生、謎の隠遁生活』森川展男(中公新書/1998)
『北朝鮮は、いま』北朝鮮研究学会編(岩波新書/2007)
『石川淳選集〈第13巻〉評論・随筆』(岩波書店)
『足利尊氏』高柳光壽(春秋社/1987)
『古池に蛙は飛びこんだか』長谷川櫂(花神社/2005)
『オバはん編集長でもわかる世界のオキテ—福田和也緊急講義』 (新潮文庫/2002)
『アメリカの影』加藤典洋(河出書房新社/1985)
『江戸の替え歌百人一首』江口 孝夫 (勉誠出版 /2007)
『アフガニスタンの風』ドリス・レッシング/加地永都子訳(晶文社/1988)
『ネヴァーランドの女王』ケイト・サマースケイル/金子宣子訳(新潮社/1999)
『ひとびとの跫音〈上〉』司馬遼太郎 (中公文庫)
『対談—中世の再発見』網野善彦+阿部謹也(平凡社ライブラリー/1994)
『ひとびとの跫音〈下〉』司馬遼太郎 (中公文庫)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

4月に見た映画

ザ・シューター/極大射程   
監督:アントワーン・フークア
出演:マーク・ウォールバーグ、マイケル・ペーニャ、ダニー・グローヴァー、ケイト・マーラ

ファクトリー・ガール
監督:ジョージ・ヒッケンルーパー
出演:シエナ・ミラー 、 ガイ・ピアース 、 ヘイデン・クリステンセン

アルゼンチンババア
監督:長尾直樹
出演:堀北真希、鈴木京香、役所広司、森下愛子、手塚理美、田中直樹

| | コメント (0)

« 2008年4月 | トップページ