京大バレンタインデー未明闘争
藤原書店の季刊誌「環」(vol.33)の特集は「世界史のなかの68年」。その中に「わたしにとっての68年」というコーナーがある。見開き2頁ばかりの文章を各界の人が寄せている。40年前の学生運動、五月革命のときに二十歳の学生だった人々が、いま六十歳になっているわけでありますな。「DON'T TRUST OVER 30」を合い言葉にした人たちもその二倍の齢を重ねたことになります。
俳人では黒田杏子氏が、歌人では永田和宏氏が寄稿しておられます。
黒田杏子氏は1968年にはすでに博報堂に入社して7年ばかりたった29歳だった。売らんがためのウソ八百を並べ立てなきゃいけないコピーライターでさえなければ、どんな仕事でもやります。そのかわり男とまったく同じにあつかってください、という生意気な女子大生でも、かつては採用するような会社だったのに云々、てな話だが、まあさほど面白い内容でもないので紹介はパス。
永田和宏氏は二十一歳、京都大学理学部物理学科の学生だった。題して「あの冬の記憶」。こっちは結構面白い。こんな風な書き出しから始まる。
一九六八年という年は、私には冬の記憶としてしか残っていない。正確には、六八年から六九年にかけての冬というべきであろうか。
ちなみに当時、わたしは十三歳だった。1969年1月の安田講堂の攻防戦を見て、よしボクも、と思ったかどうか、記憶が定かではないが、思ったような気はするな。(笑)
永田氏の思い出を聞くとしよう。
私は恥ずかしながらノンポリ学生であったが、京大におけるもっとも激しい衝突のあった六九年二月十四日には、たまたまその衝突の真っ只中に巻き込まれることになった。法経一番教室に泊り込んでいた同級生の<陣中見舞い>に行ったところが、五〇〇人ほどの全共闘派学生に囲まれて出られなくなってしまったのである。
窓という窓はすべて割れ、暗闇から拳大以上の大きさの石が飛んでくる。外も内も真っ暗で、石は当たるまでわからないのが怖い。それに較べれば火炎瓶は見える分だけ怖くはなかった。石や火炎瓶を投げ返しながら、この時は本当に死ぬかもしれないと思ったものだ。最後は、いっせいに脱出ということになり、扉の外で一列に待ちかまえている連中に、角材でぼこぼこに殴られながら何とか出ることができた。夜明けに近い時刻だった。
はは、まあ、そういう時代であった。話はこのあと、山中智恵子の歌集『みずかありなむ』をノートに書き写す(なんせ学生だったから歌集なんてものは買えないのであります)日々の想い出なんかになります。
行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ
そのころ意味がわかっていたかどうか疑問だが、これらの歌にこころが清められる思いがしたそうです。まあ、なんとなくわかるような気がするな。
ところで、上記の1969年2月14日の出来事ですが、永田氏の文章には、「法経一番教室に泊り込んでいた同級生の<陣中見舞い>に行ったところが、五〇〇人ほどの全共闘派学生に囲まれて出られなくなってしまった」とありますから、当時、代々木系の人々にシンパシーをもっておられたらしく思えます。しかし、ノンポリであっても民青なんか大嫌いという学生もたくさんいたわけですから、この永田センセーの回顧談は決して事実を曲げてはおられないにしてもその前段が抜け落ちると、どうも民青諸君が一方的な被害者みたいで公平を欠くと思うぞ。(笑)
というわけで、べつに角材でナガタ君をぼこぼこにした全共闘派学生諸君に義理もないけれど、69年の京大闘争をすこしだけ調べてみた。(この項つづく)
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