伊集院静を読む
まいった。
先月号の「文藝春秋」6月号、「防府・三田尻の、西山の大将こと、趙三済が死去しました。」というやたら長い題名の巻頭随筆がよほど心に残っていたらしい。手持ちの本を読みきってしまったので、帰りの電車で読む本を買いに鶴橋駅のブックオフに行った折に、伊集院静を始めて手に取った。
買ったのは『可愛いピアス』と『潮流』の二冊。
『可愛いピアス』のほうは週刊文春に連載されたときのタイトルが「二日酔い主義」で、これを軽妙なエッセイと呼んでいいのかどうか多少迷うけれど、まあ、一応そのようなものでありますな。
とくにおすすめはしませんが、わたしの場合、読後かなり後をひいた。
読んでいる途中で、まさかこの本のせいじゃないだろうなと思わず天を仰ぐような(別に直接関係などあるはずはないのですけど)ひどい目にもあった。このことのせいで、たぶん、とうぶん忘れがたい本になるであろう。
このエッセイには家人という呼び方で登場する方がひじょうにナイスである。書き方が嫌みでなく好ましい。篠ひろ子さんでありますね。
数ヶ月前になるが、朝方大きな地震があった。
私は丁度徹夜仕事が一段落したところで、少し気に入っている花瓶に飾ってある桔梗の花をぼんやり見ていた。グラリと来た。いつもと揺れ方が違う。
—これは大きいナ。
私は咄嗟に目の前の花瓶が机の上から落ちないように手でおさえた。揺れは続いている。寝室にいるはずの家人のことも気になった。
その時、私の背後をものすごい勢いで、白い影が玄関に向かって通り過ぎた。
—何だ今のは?
ほどなく揺れがおさまると、ヘルメットを被った家人が居間に戻ってきて、ソファーに座ってため息をついていた。
(「何だ今のは?」)
『潮流』は夏目雅子をモデルにした自伝的な作品。これまたやたらあとをひく小説でありました。
この作品のなかで、唯子という名前のヒロインがはじめて主人公に自分の思いを伝える小道具は、なんと俳句であります。
ハナタベル トリニナリタイ ユメノユメ
子供のときに、軽井沢の別荘にくる鳥のうち一羽だけが花を食べていた。それはそれは美しい鳥だったと二十歳にもならぬ少女が夢見るように語るエピソードが伏線にあって、そしてこのきれいに折り畳まれたノートの1頁に書かれた俳句。ここのシーンだけでこれはよい小説たりえていますね。
夏目雅子は俳号、海童でした。
以下ウィキペディアより引用。
結婚は夢の続きやひな祭り
時雨てよ足元が歪むほどに
あの人を鳥引く群れが連れて行く
間断の音なき空に星花火
(一時病状が回復した入院中の8月2日に、慶応病院の屋上から、伊集院静氏に抱きかかえながら見た、神宮の花火の輝きを見て作った句)
そういえば、今月号(7月)の「文藝春秋」にも伊集院静氏がグラビアに登場していたな。文士はサラリーマンとはちがう。男の花を感じさせるいまどきめずらしい人である。
くだらねえ男だな、おまえさんは、と言われているようでちとかなしいが。
ま、おれもすこしはしゃんとしよう。
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