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2008年6月

2008/06/19

伊集院静を読む

まいった。
先月号の「文藝春秋」6月号、「防府・三田尻の、西山の大将こと、趙三済が死去しました。」というやたら長い題名の巻頭随筆がよほど心に残っていたらしい。手持ちの本を読みきってしまったので、帰りの電車で読む本を買いに鶴橋駅のブックオフに行った折に、伊集院静を始めて手に取った。
買ったのは『可愛いピアス』と『潮流』の二冊。

『可愛いピアス』のほうは週刊文春に連載されたときのタイトルが「二日酔い主義」で、これを軽妙なエッセイと呼んでいいのかどうか多少迷うけれど、まあ、一応そのようなものでありますな。
とくにおすすめはしませんが、わたしの場合、読後かなり後をひいた。
読んでいる途中で、まさかこの本のせいじゃないだろうなと思わず天を仰ぐような(別に直接関係などあるはずはないのですけど)ひどい目にもあった。このことのせいで、たぶん、とうぶん忘れがたい本になるであろう。
このエッセイには家人という呼び方で登場する方がひじょうにナイスである。書き方が嫌みでなく好ましい。篠ひろ子さんでありますね。

数ヶ月前になるが、朝方大きな地震があった。
私は丁度徹夜仕事が一段落したところで、少し気に入っている花瓶に飾ってある桔梗の花をぼんやり見ていた。グラリと来た。いつもと揺れ方が違う。
—これは大きいナ。
私は咄嗟に目の前の花瓶が机の上から落ちないように手でおさえた。揺れは続いている。寝室にいるはずの家人のことも気になった。
その時、私の背後をものすごい勢いで、白い影が玄関に向かって通り過ぎた。
—何だ今のは?
ほどなく揺れがおさまると、ヘルメットを被った家人が居間に戻ってきて、ソファーに座ってため息をついていた。
(「何だ今のは?」)

『潮流』は夏目雅子をモデルにした自伝的な作品。これまたやたらあとをひく小説でありました。
この作品のなかで、唯子という名前のヒロインがはじめて主人公に自分の思いを伝える小道具は、なんと俳句であります。

  ハナタベル トリニナリタイ ユメノユメ

子供のときに、軽井沢の別荘にくる鳥のうち一羽だけが花を食べていた。それはそれは美しい鳥だったと二十歳にもならぬ少女が夢見るように語るエピソードが伏線にあって、そしてこのきれいに折り畳まれたノートの1頁に書かれた俳句。ここのシーンだけでこれはよい小説たりえていますね。
夏目雅子は俳号、海童でした。
以下ウィキペディアより引用。

 結婚は夢の続きやひな祭り
 時雨てよ足元が歪むほどに
 あの人を鳥引く群れが連れて行く
 間断の音なき空に星花火
 (一時病状が回復した入院中の8月2日に、慶応病院の屋上から、伊集院静氏に抱きかかえながら見た、神宮の花火の輝きを見て作った句)

そういえば、今月号(7月)の「文藝春秋」にも伊集院静氏がグラビアに登場していたな。文士はサラリーマンとはちがう。男の花を感じさせるいまどきめずらしい人である。
くだらねえ男だな、おまえさんは、と言われているようでちとかなしいが。
ま、おれもすこしはしゃんとしよう。

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2008/06/13

をぐさをとをぐさすけをと(承前)

乎久佐男と 乎具佐受家男と 潮舟の 並べて見れば 乎具佐勝ちめり 3450

この歌は萬葉集巻第十四の東歌にありました。「乎久佐男」には「をくさを」、「乎具佐受家男」には「をぐさずけを」のルビがついておりますね。前者のほうはにごらないようであります。
すなわち

をくさをと をぐさずけをと しほふねの ならべてみれば おぐさかちめり

となるわけです。

ところで、この乎久佐(をくさ)も乎具佐(をぐさ)も、おそらくは地名だろうという解釈になっているそうですが、どこらあたりをいうのかは、いまではもうわからない。
専門家、学者がいまではもうわかりませんというのは、なかなかよい気分をさそう。どんな空想をしてもいいですよ、と言われているようで。

乎久佐男の「男」は正丁(二十から六十の男)、乎具佐受家男の「受家男」は「助男(すけを)」の連濁したかたちではなかろうか、であればこれは次丁(しちやう)または老丁を意味するので、六十一から六十五の男のことか、とこれも控えめな推定です。

つづいて潮舟。これは「並ぶ」の枕詞ですが、おそらくは潮に乗って行き来する舟の意味であろう、ト。この歌の場合、引き潮で浜におき去りにされた舟がふたつ並んでいる様ではないだろうかとのこと。

以下、『萬葉集釋注 七』伊藤博(集英社)より引用します。

年寄と若者が力比べ、腕比べなど、座興にさまざま争うことは、農村・漁村の集会や一服時とかによく見られる風景。筆者は、六十数歳の老人が村の三十代、四十代の人びとの悉くに、腕比べにおいて勝ち抜いた実例を知っている。「乎具佐受家男」はきわめて頑丈で、しかも労働経験なども豊かな、底力のある味わい深い男として聚落でも評判の人物であったろうと思う。そこで注目すべきは、第三句の「潮舟の」である。「潮舟」は集中に四例。不思議に東国の歌だけにしか現れない。(東歌に二、防人歌に二)。潮に浮かぶ舟、海を往き来する舟の意で、東国の海で働く人びとの生活の息吹の漂う舟をいう。これによれば、今比べられているのは二人とも漁師で、潮風にあたった肌の黒光り、漁師としての表情・骨格の逞しさを比較し、「乎具佐受家男」はやっぱり一味違うと宣したのがこの歌であるように思われる。こうして、一首は、年寄りに花を持たせた形の歌であったことは確かで、これは年寄りをほめる歌であろうと思う。

ま、草田男のほうは、「をぐさを」を「小草男」ととって田圃の広がる農村風景をここに思い描いていますが、もともとの東歌のほうは漁村の潮の香がする俗謡であるらしく思えますな。まあ、萬葉の時代も、六十五歳くらいまでは、けっこう若いモンに負けないジジイがいた。あるいはそれくらいまでは、ジイさんもたよりにしてっからね、ということであったのか。

とびうをやをぐさずけをの未来あり  獺亭

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2008/06/12

をぐさをとをぐさすけをと

前回に引き続いて中村草田男の話。
この草田男というのはじつにいい名前ですね。
よく知られたエピソードですが、この方、どうも実社会での立身出世なんてのにはあんまり向かない性格だったようで、親戚から、お前はなんとも「くさった男」だと罵倒され、そうかも知れんがおれのようなのは「そう出ん男」だぞ、というので草田男をそのまま俳号にしてしまった、ということになっています。なんだか、安っぽい地口、駄洒落のような感じ。

ところがですねえ、今回これ調べてみたんですけれど、ご本人が同じ説明をしている文章をわたしはまだ見つけておりません。まあ、どこかにはあるんでしょうけど。

では、当人、この名前についてどんなことを言っておられるかというと、これはかなり後年のことになりますが、1971年にテイチクレコードに吹き込まれた録音というのがあるようです。わたしはその録音のほうは聞いておりませんが、みすず書房の全集第6巻に「自誦自解」として出ています。文体は話し言葉風になっていますので、たぶんテープ起こしのようなものではないかと思われる。

それによれば、この草田男というのは、じつは万葉集からとったのです、てな話になっていて「くさった男」だの「そうでん男」だのいうような話は一切出てきません。このころになると、この世間に流布したしょうもない逸話が、いいかげんいやになっておられたのかも知れん。(笑)

この万葉集の歌、草田男全集の表記に従うと次のようになります。

をぐさをとをぐさすけをと塩舟の並べてみればをぐさ勝ちめり

「をぐさを」っていうのは小さな草の男などと書いたりして、それで―ちょっととぼけたような名前があります。あんまり―もっともらしくない名前、それでちょっと気軽のような朗らかなような名前と思って、草田男っていう名前を付けたわけです。で中村っていうのがどこにでもある平凡な村、そこの草田男といえば田圃を草だらけにしているその―怠け者の百姓みたいな感じでこれも面白いだろうというようなことで付けたわけです。

さて、万葉集にくわしい方は、「ああ、あれね」てなもんでしょうが、読めないし、意味わかりませんよね、この歌。(笑)
仕方がないから、調べました。―ということで次回につづく。

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2008/06/11

俳句と古事記

山中智恵子と古事記の話のときに、行きがけの駄賃とばかり、歌人はよく勉強するが俳人は愛嬌だけで商売できると世の中なめてやがると悪態をついて、しかられた。(笑)
いや、まあ、俳句にも古典に源泉をもつ句はたくさんあります。
同じくイザナギとイザナミの箇所から。

 「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク
               川崎展宏

 五月なる千五百産屋の一つなれども
              中村草田男

野暮な解説は不要と言いたいところですが、じつは草田男の句の「千五百産屋」はわたしは「せんごひゃく・うぶや」なんて読んでおりました。お笑い下され、もちろん「ちいほ・うぶや」であります。
さいわい作者本人の自句自解がありましたので、引いておきます。これによって川崎展宏の句の方も半分は意味が通じるはずです。

「千五百産屋」とは古事記の中に出てくる言葉です。伊弉諾尊は伊弉冉尊の死をいたんで黄泉国へまで会いに訪ねて行かれます。しかし、幻滅の悲哀を味われた男神は結局、女神に追われつつ黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)へまで逃げのびられます。男神は大石を転ばして黄泉国と此世との境の穴を塞いでしまわれ、其外と内とで、二神は最後に声をかけ合われます。女神が「自分に恥をかかせた復讐にあなたの国の人間を一日に千人ずつ殺してやる」と叫ばれます。男神は「それでは俺は、一日に千五百の産屋を樹てよう」と応ぜられます。(中略)
千五百産屋とは—つまり、人間の生成、繁殖を祝福する言葉なのです。
(「問・答」『中村草田男全集6』)

草田男にとって、その五月に生まれた吾子はなるほど大勢の赤子のひとりにはすぎないが、それでもかけがえのない吾子なのである、てな感じなのでしょう。
川崎展宏の句の方は、ヨモツヒラサカがなんであるか、この草田男の解説であきらかになっていますが、二回三回となえてみれば、なるほどこれはかの世からの電文だと了解できるでしょう。川崎にはこんな句もあります。

大和神社境内の末社、方二メートル、戦艦大和以下海上特攻作戦の戦死者三千七百二十一柱を祭る。三句

 戦艦の骨箱にして蕨萌ゆ
 三千七百二十一柱かげろへり
 いくさぶねやまとのみたま鳥雲に

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2008/06/09

素晴らしきニッポン裁判

神戸女学院大学の広報誌「Vistas」6月号に「司法通訳と公正な裁判」と題して、同大学文学部英文学科の長尾ひろみ教授のインタヴューが掲載されていて、これがなかなか興味深い内容だった。

日本語のわからない人がなんらかの事件にかかわって、被告として裁判にかけられる場合には、通訳がつく。これを司法通訳という。
近年、こういう司法通訳を必要とする事件が増加の一途をたどっているのだそうな。
たぶんそうなんだろうな、とわたしなども思う。
しかも、来年からは裁判員制度の運用がはじまるわけだが、これによって日本の裁判はこれまでのガチガチの書面主義から口頭主義へと大きく舵をきることになるらしい。
こうなると、日本語がカタコト程度の人はかなり怖いでしょうね。

私も当初は裁判の流れも何もわからず、ただ訳せと言われる部分を訳すのに精一杯でしたが、大概の被告はぶるぶる震えています。それはそうでしょう。何を言っているのか全然わからない状況の中で自分が裁かれようとしているんですから。

こういうのは被告にとっては、きっと悪い夢をみているような感じかもしれない。
逆にわたしたちが裁判員だったとして、被告が日本語のできない人間であれば、わたしたちは司法通訳が訳として用いた日本語をその被告の言葉として判断するであろう。
長尾さんの司法通訳の体験談として、万引きをくり返しているマレーシア人の女の話がある。裁判官が「なんでそんなことをしたの?」と訊く。「Why did you do that?」と訳すとその女が「Because it was interesting.」と答えた。
これは困るね。長尾さんによれば、司法通訳というのは本人に真意を聞き質しながら訳すことはダメなのだそうです。なんでもそういうのは私語になるらしい。司法通訳はあたかも翻訳機のように外国語の話を日本語に、日本語の話を外国語に変換するだけしか許されない。
しかし、話には文脈というものがある。まして裁判である。「おもしろかったから」なんて言うのはヘンである。
この場合は、裁判官に「interestingという意味が訳せません」といったん返す。裁判官が本人に「もう一度説明してください」と言う。本人がもう一度話す、というかたちをとることになるのだそうですね。
たまたまこの場合は、この女、マレーシアと違って日本のパンにはいろんな動物やアンパンマンのかたちのものがあって子供がよろこぶ。それがとてもinterestingだったということであったらしい。
まあ、このあたり、疑りぶかいオッサンにはちと額面どおりには受け取れないものもあるが(笑)、それはそれとして、かように司法通訳はその人の資質なり職業倫理(むしろ上記の場合はこれだろうと長尾さんは言っておられるようです)によって歴然とした差が出てくるようであります。

ちなみに、このインタヴューによれば、日本の大学で司法通訳を教えているのは3校しかないのだそうですよ。
大丈夫か?日本語のあやしいガイジンのみなさん。(笑)

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2008/06/07

林檎の木の下で

わたしはなぜここにいるのか?
それは父と母がいたからだ。
父と母にも両親がいて、その人たち、すなわち二組の祖父と祖母にもやはり父と母があった。これ以上あたりまえのことはない。証明する必要さえない。
しかし、そうやってたどることのできる過去は、さて百年前までか、二百年前までか。よほどの名家ならいざしらず、四代、五代とさかのぼってその人々のすがたを印画紙に定着させるように描くことはむつかしかろう。
しかし、いま現に、わたしがここにいるからには、四代、五代まえにも自分とどこか似た男女がいたはずだ。
どんな人だったのだろう。
なにを思って、どんな風に死んでいったのだろう。
ときどき人はそんなことを知りたくなったりはしないだろうか。

みんなそうする。いったん始めたら、どんな手がかりでもたどっていく。いままでの人生でほとんど何も読んでこなかったような人たちが、書類を読みふけるようになる。そして、第一次世界大戦の始まりと終りの年を言いかねるような人たちが、過去の世紀の日付をひょいと持ち出すようになる。わたしたちは魅せられるのだ。これはたいてい老年期に起こる。わたしたち個人の未来は閉じてしまい、しかも自分の子供たちのそのまた子供たちの未来など想像できない—ときには信じることができない。こんなふうに過去を探らないではいられないのだ。怪しげな証拠を選り分け、ばらばらの名前や疑わしい日付や逸話をひとつにつなげ、糸にしがみつき、死んだ人たちと結びついている、だから生きることと結びついているのだ、と主張しないではいられないのだ。

20080607e カナダの作家アリス・マンローの『林檎の木の下で』(新潮社)という短編集は、17世紀のスコットランドのエトリック・ヴァレーという土地(教区の牧師にさえ「良いことは何もない」と言われるような貧しい村)に住み着いたレイドローという一族の物語から書き起される。
やがて大西洋を渡り、カナダで暮らすようになる一族の歴史。
成功した人々の物語ではない。土地を開墾し、家畜を育て、景気に翻弄され、生きるために休息もなく働き続けなくてはならない普通の人々の家族史である。

同じ著者の『イラクサ』(新潮社)もなかなか味わい深い短編小説集だったけれど、あれが完成度の高い商業的にも成功するような作品だったと思うのに対して、この『林檎の木の下で』はもっと野暮で無骨である。ただ、そのぶん、野性的な味がするとでもいうのかな、こっちの方が好きだという人も案外いるかも知れない。(まあ、わたしはリーダビリティという面から『イラクサ』のほうをまずお薦めするけれどね)
一見無造作に見えるような構成で、ちょっと最初の方が読みにくいと思うが、おそらくこれが正しい方法なのだろうと、途中から読者にも思えるようになる。

ただ、この作家の視線は乾いている。たとえば自然主義のかつての日本の私小説のような不健康さや不潔さのようなものがまったく感じられない。シニカルだが、開いている。ユーモアやタフさもある。すぐれた作家の腕前を堪能できますな。
たとえばこんな箇所。夫に暴力をふるわれている隣人の描写。

夫人は歩いて町へ出かけた。気候が暖かくなっても古くさいオーヴァーシューズを履き、くすんだ色の長いコートを着て頭にはスカーフをかぶって、もごもごと挨拶はしても決して目はあげないし、何も言わずにそっぽを向くこともあった。歯が何本かなかったのではないかと思う。今と違って当時はよくあることだったし、また、人が自分の気持ちをむき出しにするのもよくあることだった。話しぶりや服装や態度など、身の回りのすべてで言うのだ、どういう服装をしてどんな振舞をしなきゃいけないかってことはちゃんとわかっているけどね、あたしがそうしないからって、あんたの知ったこっちゃないよ、とか、かまうもんか、もうどうしようもないんだから。なんとでも思っとくれ、と。(「父親たち」)

あるいは、毛皮用のキツネ飼育業が行き詰まって、借金を返すために鋳物工場の夜の守衛をしている時代の父についてのこんなささやかなエピソード。つくづく、うまいなあ、と思う。

ある夜、誰かがたずねた。男の人生で最高のときはいつだろう?
ひとりが答えた。そりゃあ、子供の頃だな、いつも遊んでいられて、夏になると川へ行って冬には道路でアイスホッケーをやって、頭にあるのはそんなことだけでさ、遊びまわって楽しんで。
でなきゃ、まだ若くてデートしてもなんの責任もない頃かな。
それとも、結婚したさいしょの頃かな、嫁さんを愛してるならさ。それにそのちょっとあとも。子供らが小さくてそこらを駆け回って、まだ悪い性格なんかが出てない頃。
父は口を開いてこう言った。「今だな。おれはたぶん今だ」
どうしてだ、とみんなは訊いた。
まだそれほどの歳じゃない。あちこち駄目になるような歳じゃね。だけど人生に望んでいたのかもしれないいろんなことに手が届かないという見極めがつく程度の歳にはなってる。そんな状況がなんで幸せなのか説明するのは難しいが、幸せだと思うことがあるんだ、と父は答えた。(「生活のために働く」)

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2008/06/04

山中智恵子と古事記(承前)

イザナギが目を洗ってアマテラスとツクヨミが、鼻を洗ってスサノヲが生まれた話を前回書いた。そういえば栗木京子の『けむり水晶』にはこんな歌もある。

イザナギが右の目洗ふ宵ならむ
春のおぼろの大き月出づ

右の目から生まれたツクヨミは、「月讀命」と書くのでありますね。どうも俳人は愛嬌で十分商売になるようだが、歌人というのはなかなかどうしてうるさいようで。(笑)

さて、かように現代短歌にもさまざまなイメージを与え続けている古事記ですけれど、古事記と言えばなんといっても、本居宣長(1730-1801)であります。
『古事記伝』は全部で44巻とかいう大部のものですが、その上巻にあたる17巻は版木版下の本文部分は宣長自身が書いたそうですね。そして、註釈部分は宣長の長男である春庭(1763-1828)が書いたとか。三重県立図書館のサイトにはこの初版本の画像が掲示してあります。端正な読みやすそうな字ですね。(こちら)

本居春庭(はるにわ)は長男でもあり、『古事記伝』の註釈部分の版下書をさせたくらいですから宣長はおおいにかれに期待をしていたに違いない。また、この長男は、父の期待に十分に応えるだけの明晰な頭脳の持ち主で、学問への志も深かった。しかし、どんな家庭にも不幸はさまざまかたちで訪れる。
春庭は重い眼病を患ってしまうのであります。
父、宣長は春庭の病を治すために手をつくすが、悪化こそすれ恢復のきざしはない。父親としての苦しい胸の内を訴えた手紙が残っているようです。このような苦悩のなかでついに『古事記伝』が完成するのですが、それとまさに引き換えのように春庭の眼から光が失われるのでありました。

ところで、当時、眼科医としてもっとも声望の高かったのは尾張の馬嶋家という家でした。いま家でしたと述べたが、これは正確ではない。この医は馬嶋明眼院(みょうげんいん)という寺院の体裁をとっていたのですね。医家としての馬嶋家の初代は清眼僧都(?-1379)という天台宗のお坊さまである。南北朝時代にまでさかのぼる。
明眼院の場所はいまの海部郡大治町馬島として名前が残っているそうですが、さまざな地域から人々が治療を受けにやってくるので、宿泊施設や食べ物屋などが門前市をなしていたといいます。(注コメント欄参照)
この馬嶋明眼院に本居宣長は長子春庭の治療を頼んだのですね。しかし、かれの眼病がどのようなものであったのかわかりませんが、すでに時遅く手の尽くしようがなかったのか、あるいは当時の医術では治療の不可能なものだったのでしょうか、春庭の眼は治らず失明してしまったことは先に書いたとおり。なお、春庭はその後、妻の助力を得ながら、日本語文法の基礎となる四段活用などをあきらかにした『詞八街(ことばのやちまた)』を書き上げておりますが、それはまた別のお話。

さて、ここで山中智恵子に戻ります。
歌集「青章」にこのような歌があります。

わが血にていへばかそけきことながら
馬島考眼虎列刺に果てつ

山中は父方も母方も累代医家の家柄でした。父方は尾張藩医、そして母方がこの馬嶋家であったそうです。本人もこの血筋に対する意識は強かったと思われます。
たとえば「みずかありなむ」には眼を洗うというイメージ、眼を喪うイメージが何度か出てきますね。

夕まぎる水際のみのあかるさに
殺らしむ眼なほ洗ふかな

眼をあらはばなほも暗きかわが思ふ
鳥ふぶくごと立ちて舞はぬこと

かきくらしまなこほろぶる渚にて
目一つの神もかく雪にあふ

もしかしたら、山中が古事記を思うとき、彼女の先祖が助けてやることのできなかった本居春庭のそしてその父宣長の無念が脳裏に去来したかもしれない。
そして、幻視者としての自分の能力や役割を、何千年という時のなかで喪われていった眼に仮託された力として自覚したのでないかと考えることも、またあながち、奔放な想像とも言えないのではないかなどと思ったりするのでありました。

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2008/06/03

山中智恵子と古事記

行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に
雪降るさらば明日も降りなむ

山中智恵子の出世作『みずかありなむ』(ちなみにこれ「見ずかありなむ」でございます)の冒頭の一首。学生時代の永田和宏氏がこの歌集をノートに書き写した話を先日書いた。
この鳥髪(とりがみ)という言葉がわからなくても、響きの美しさだけで十分にこころに残る歌だし、たとえば青鷺の後頭部で風にそよぐ長い毛のようなものをここで思い浮かべて、そこに降る雪の情景をイメージしてもべつに悪いわけではない。
ただし、これは地名であることは、歌をじっくり読めば察しがつくでありましょう。

かれ避追(やら)はえて、出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地(ところ)に降りましき。この時、箸その河より流れ下りましき。ここに須佐之男命、人その河上にありと以為(おも)ほして、尋ね覓(ま)ぎ上り往きたまへば、老夫(おきな)と老女(おみな)と二人ありて、童女(をとめ)を中に置きて泣けり。
『古事記全訳注』次田真幸(講談社学術文庫)

スサノヲとクシナダ姫の出会い、そしてヤマタの大蛇退治の箇所でありますね。
山中智恵子の最晩年の作、未刊の「青扇」のなかにも鳥髪は二首出てきます。

須佐之男の鳥髪の死を知らざれば
鳥髪の地を神の山といふ

須佐之男はアンドロギュノス母恋ひの
旅を歩みて鳥髪に死す 鳥髪は海

古事記はまったくぜんぜん詳しくありませんが、イザナギが黄泉の国で汚れた自分の体を洗っていろんな神をぼこぼこつくったあとで、左目を洗ってアマテラス、右目を洗ってツクヨミ、最後に鼻を洗ってスサノヲを生んだのでありましたね。母恋いのスサノヲは本来は海原を統べるべき神であった。山中智恵子の『みずかありなむ』を通して読むと、古事記や日本書紀の世界に関心が向かう。

荒ぶる魂としてのスサノヲの「行きて負うかなしみ」あるいは「生きて負うかなしみ」に共感を寄せたのは、まず60年安保に深い挫折を味わった人々であり、やがてそれから数年を経た68年の学園紛争世代であったということになるのでしょう。

山中智恵子の古典知識、その博捜ぶりはいろんな人の語るところでありますけれども、この鳥髪に見られるように古事記もひとつの典拠、あるいはイメージの源泉になっているようです。ところで、おもしろいことに、山中智恵子の血統にはこの古事記につながるある古い因縁があった。
(つづく)

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2008/06/01

なぜ読むか

このあいだうちから、なんとなく思い出しては、繰り返し考えていること。
最近いちばんこころに届いた一節。

わたしだって、できることならものごとについて、より完璧に理解したいとは思いはするものの、すごく高い代償を支払ってまで買うつもりはない。わたしの腹づもりは、この残りの人生を、気持ちよくすごすことにほかならず、苦労してすごすことではない。そのためならば、さんざん脳みそをしぼってもかまわないようなものなど、もはやなにもないのだ。学問にしても同じで、どんなに価値があっても、そのためにあくせく苦労するのはごめんこうむりたい。わたしが書物にたいして求めるのは、いわばまともな暇つぶし(アミユズマン)によって、自分に喜びを与えたいからにほかならない。勉強するにしても、それは、自己認識を扱う学問を、つまりは、りっぱに生きて、りっぱに死ぬことを教えてくれる学問を求めてのことなのだ。
  モンテーニュ「書物について」
  『エセー(3)』宮下志朗訳(白水社)

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5月に読んだ本

『コールド・ロード』T.ジェファーソン・パーカー/七搦理美子訳(ハヤカワ文庫/2007)
『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』村上春樹/柴田元幸(文春新書/2003)
『あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか』辻桃子(新潮社/2008)
『カッシーノ!』浅田次郎(ダイヤモンド社/2003)
『岐路以後—近藤芳美歌集』(砂子屋書房/2007)
『彩—桂信子句集』(ふらんす堂 /1990)
『セレクション歌人 番外 藤原龍一郎集』(邑書林 /2008)
『ドイツ四季暦—秋・冬 海から街へ』池内紀(東京書籍/1995)
『語りの背景』加藤典洋(晶文社/2004)
『ブルー・アワー〈上〉』T.ジェファーソン・パーカー/渋谷比佐子訳(講談社文庫/2004)
『イーディ—’60年代のヒロイン』ジーン・スタイン/青山南他訳(筑摩書房/1989)
『ブルー・アワー〈下〉』T.ジェファーソン・パーカー/渋谷比佐子訳(講談社文庫/2004)
『レッド・ライト〈上・下〉』T.ジェファーソン・パーカー/渋谷比佐子訳(講談社文庫/2005)
『カッシーノ2! アフリカ・ラスベガス編』浅田次郎(ダイヤモンド社/2004)
『ブラック・ウォーター』T.ジェファーソン・パーカー/横山啓明訳(ハヤカワ文庫/2007)
『石川淳選集〈第15巻〉評論・随筆』(岩波書店)
『日本語の源流を求めて』大野晋(岩波新書/2007)

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5月に見た映画

つぐない
監督:ジョー・ライト
出演:キーラ・ナイトレイ、ジェームズ・マカヴォイ、シアーシャ・ローナン、ロモーラ・ガライ、ヴァネッサ・レッドグレイブ、ブレンダ・ブレッシン

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