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2008/06/07

林檎の木の下で

わたしはなぜここにいるのか?
それは父と母がいたからだ。
父と母にも両親がいて、その人たち、すなわち二組の祖父と祖母にもやはり父と母があった。これ以上あたりまえのことはない。証明する必要さえない。
しかし、そうやってたどることのできる過去は、さて百年前までか、二百年前までか。よほどの名家ならいざしらず、四代、五代とさかのぼってその人々のすがたを印画紙に定着させるように描くことはむつかしかろう。
しかし、いま現に、わたしがここにいるからには、四代、五代まえにも自分とどこか似た男女がいたはずだ。
どんな人だったのだろう。
なにを思って、どんな風に死んでいったのだろう。
ときどき人はそんなことを知りたくなったりはしないだろうか。

みんなそうする。いったん始めたら、どんな手がかりでもたどっていく。いままでの人生でほとんど何も読んでこなかったような人たちが、書類を読みふけるようになる。そして、第一次世界大戦の始まりと終りの年を言いかねるような人たちが、過去の世紀の日付をひょいと持ち出すようになる。わたしたちは魅せられるのだ。これはたいてい老年期に起こる。わたしたち個人の未来は閉じてしまい、しかも自分の子供たちのそのまた子供たちの未来など想像できない—ときには信じることができない。こんなふうに過去を探らないではいられないのだ。怪しげな証拠を選り分け、ばらばらの名前や疑わしい日付や逸話をひとつにつなげ、糸にしがみつき、死んだ人たちと結びついている、だから生きることと結びついているのだ、と主張しないではいられないのだ。

20080607e カナダの作家アリス・マンローの『林檎の木の下で』(新潮社)という短編集は、17世紀のスコットランドのエトリック・ヴァレーという土地(教区の牧師にさえ「良いことは何もない」と言われるような貧しい村)に住み着いたレイドローという一族の物語から書き起される。
やがて大西洋を渡り、カナダで暮らすようになる一族の歴史。
成功した人々の物語ではない。土地を開墾し、家畜を育て、景気に翻弄され、生きるために休息もなく働き続けなくてはならない普通の人々の家族史である。

同じ著者の『イラクサ』(新潮社)もなかなか味わい深い短編小説集だったけれど、あれが完成度の高い商業的にも成功するような作品だったと思うのに対して、この『林檎の木の下で』はもっと野暮で無骨である。ただ、そのぶん、野性的な味がするとでもいうのかな、こっちの方が好きだという人も案外いるかも知れない。(まあ、わたしはリーダビリティという面から『イラクサ』のほうをまずお薦めするけれどね)
一見無造作に見えるような構成で、ちょっと最初の方が読みにくいと思うが、おそらくこれが正しい方法なのだろうと、途中から読者にも思えるようになる。

ただ、この作家の視線は乾いている。たとえば自然主義のかつての日本の私小説のような不健康さや不潔さのようなものがまったく感じられない。シニカルだが、開いている。ユーモアやタフさもある。すぐれた作家の腕前を堪能できますな。
たとえばこんな箇所。夫に暴力をふるわれている隣人の描写。

夫人は歩いて町へ出かけた。気候が暖かくなっても古くさいオーヴァーシューズを履き、くすんだ色の長いコートを着て頭にはスカーフをかぶって、もごもごと挨拶はしても決して目はあげないし、何も言わずにそっぽを向くこともあった。歯が何本かなかったのではないかと思う。今と違って当時はよくあることだったし、また、人が自分の気持ちをむき出しにするのもよくあることだった。話しぶりや服装や態度など、身の回りのすべてで言うのだ、どういう服装をしてどんな振舞をしなきゃいけないかってことはちゃんとわかっているけどね、あたしがそうしないからって、あんたの知ったこっちゃないよ、とか、かまうもんか、もうどうしようもないんだから。なんとでも思っとくれ、と。(「父親たち」)

あるいは、毛皮用のキツネ飼育業が行き詰まって、借金を返すために鋳物工場の夜の守衛をしている時代の父についてのこんなささやかなエピソード。つくづく、うまいなあ、と思う。

ある夜、誰かがたずねた。男の人生で最高のときはいつだろう?
ひとりが答えた。そりゃあ、子供の頃だな、いつも遊んでいられて、夏になると川へ行って冬には道路でアイスホッケーをやって、頭にあるのはそんなことだけでさ、遊びまわって楽しんで。
でなきゃ、まだ若くてデートしてもなんの責任もない頃かな。
それとも、結婚したさいしょの頃かな、嫁さんを愛してるならさ。それにそのちょっとあとも。子供らが小さくてそこらを駆け回って、まだ悪い性格なんかが出てない頃。
父は口を開いてこう言った。「今だな。おれはたぶん今だ」
どうしてだ、とみんなは訊いた。
まだそれほどの歳じゃない。あちこち駄目になるような歳じゃね。だけど人生に望んでいたのかもしれないいろんなことに手が届かないという見極めがつく程度の歳にはなってる。そんな状況がなんで幸せなのか説明するのは難しいが、幸せだと思うことがあるんだ、と父は答えた。(「生活のために働く」)

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