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2008年7月

2008/07/23

国務長官の英語

「フォーリン・アフェアーズ」の巻頭にコンドリーザ・ライスが寄稿しているのでざっくりと読んでみた。
Rethinking the National Interest
American Realism for a New World
(Foreign Affairs, July/August 2008)
いちばん最後で、彼女の加わった政権が、未来に希望をつなぐどんな成果を実らせたかなんて内容のところで、がっくり、しらけるような内容だったが、とりあえず政治むきのことはあまりとやかく言う気がない。

ということで、記録しておきたいのは、このひとの政治的な振る舞い方が、ストレートに伝わるような文章でありレトリックだなあ、と感じたことである。こういうのはアメリカの政治家のひとつの典型なのかもしれない。
文章は、読みやすく、理解しやすい。うん、このあたりはうまいな、と思ったところを抜いてみる。

All of these positive habits, and more, are reinforced by our system of education, which leads the world in teaching children not what to think but how to think -- how to address problems critically and solve them creatively.
Indeed, one challenge to the national interest is to make certain that we can provide quality education to all, especially disadvantaged children. The American ideal is one of equal opportunity, not equal outcome. This is the glue that holds together our multiethnic democracy. If we ever stop believing that what matters is not where you came from but where you are going, we will most certainly lose confidence. And an unconfident America cannot lead. We will turn inward. We will see economic competition, foreign trade and investment, and the complicated world beyond our shores not as challenges to which our nation can rise but as threats that we should avoid. That is why access to education is a critical national security issue.

このあたり、教育に関する言い回しは共感できる。あるいは、

We support democracy not because we think ourselves perfect but because we know ourselves to be deeply imperfect. This gives us reason to be humble in our own endeavors and patient with the endeavors of others. We know that today's headlines are rarely the same as history's judgments.

なんてところは、弁明もこう優雅にやられると、まあ、そうね、あんたらもけっこうシンドイ仕事ではあったわな、と思わせられて、これもなかなかうまいですね。
結局、政治家とはレトリックの商売なんでありますね。

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2008/07/22

茂吉の昭和八年

小池光の『茂吉を読む 五十代五歌集』(五柳書院)から。
『白桃』は昭和八年、九年の作歌を集めた歌集で、茂吉は五十一歳。刊行は昭和十六年で、茂吉は五十九歳になっている。茂吉の場合、作歌時期と歌集に編んで上梓する時期の間が離れているのが特徴らしい。
この『白桃』の場合は、五十代のはじめにつくった歌を五十代の終りにまとめているような塩梅になる。
「白桃」は「はくとう」「しらもも」ではなく「しろもも」である。

ただひとつ惜しみて置きし白桃の
ゆたけきを吾は食ひをはりけり

この歌についての白桃については、弟子の永井ふさ子との恋愛にからめる見方もあるそうですが、どうなんでしょうね。深読みするとたしかにずいぶんエロチックな歌ではあります。

それはさておき、この歌集には「時々感想断片集」という23首があるそうで、小池氏は昭和八年の東京朝日新聞のマイクロフィルムを埼玉県立図書館で見ながらいくつか発見があったことを書いておられる。とくにこの一連は時事にからめた歌なので、年表はもとより、新聞の三面記事や写真を見ながら当時の世相や東京の街の雰囲気を想像して読むと面白いとのこと。

この年は、1月から大塚金之助や河上肇が検挙され、2月には小林多喜二が築地署に留置中に特高の拷問で虐殺されるなど、マルクス主義者への弾圧が激化した。奇しくもマルクスの死後50年にあたっていた。3月にはドイツではナチスの国会議事堂放火事件からヒットラーが全権を掌握、ナチスの独裁が確立。日本は国際連盟を脱退した。4月、京大滝川事件と暗い世相に入っていく時期にあたっている。河上肇の転向声明は7月7日の新聞、社会面のトップを飾った。

茂吉の歌—

先驅者歿後五十年にして幾たりか
マルチリウム氣味に死せるものあり

獄にゐるは苦しからむとおもへども
獄より出でて街ゆくらむか

わが心に何のはずみにかあらむ
河上肇おもほゆ大鹽平八郎おもほゆ

ある個人らの思想の轉向といふことが
手柄らしくあからさまになりぬめでたや

蛇足ながら多少解説。

「マルチリウム」は殉教(Martyrium)。ここに気味などという言葉がつくところに悪意があるな。ちなみに茂吉は、マルクス全集をドイツ語で読んでいるとか。ただし、論争上の必要からで、マルクス主義に対するスタンスはこの歌だけでも明らかではありますね。

二番目の「獄より出でて」の歌には「××博士出獄」の詞書がある。もちろん河上肇のことだが、出獄は誤り。(実際の出獄は昭和十二年)おそらく7月の転向声明の紙上の写真を見て出獄したものと勘違いしたものか。茂吉の歌からは、たとえば三番目の大塩平八郎との連想などに顕著だが、河上肇にはどこかほのかな敬意のようなものも感じられる。

しかし、四番目の歌などには、そういう共感めいたものは皆無で悪意、痛罵、冷笑といった言葉が思い浮かぶ。この年、獄中の共産党幹部佐野学(31)、鍋山貞親(33)をはじめ検挙されたコミュニストの多くが転向したのであります。

こんな歌もある。

こがらしのおとを戀ひつつ立ちいづる
吉井勇は寂しきろかも

昭和八年の東京朝日新聞には「歌の伯爵吉井勇氏 朗らかに家庭解消『悲劇のない離婚』で危機を打開 夫人は職業戦線へ」なる見出し。
吉井勇もその放蕩は知られるところだが、その夫人、徳子も夫に負けず自由な外出生活の享楽ぶりであった。これを不満とする吉井勇の手記「こがらしの記」によりふたりの離婚は時間の問題と見られていた。
小池氏のコメント。

新聞は『悲劇のない離婚』をスマートに創作しているが、そんな綺麗事が世にありはしないことは、吉井勇と交遊のある茂吉にはむろん十二分にわかっている。「夫人の自由な外出生活の享楽ぶり」に苦悩するのはまた茂吉自身の苦悩でもあった。「寂しきろかも」もむしろ茂吉自身の感慨である。

スキャンダル「ダンスホール事件」で、ほかの多くの金持ちの婦人連中と一緒に青山脳病院院長夫人の名前が新聞紙上に出て、茂吉と輝子が別居することになるのは、この昭和八年の暮のことでありました。

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2008/07/16

古代史ノート(6)

白壁皇子は前回に述べたように、天皇への野心はもっておられないか、あってもそうとは見せず、酒とバラの日々で無害な皇子を演じて見せて身の安全を図っておられたわけですけれども、世間というのはそういうご本人の意向とは別のようで、こんな童謡(わざうた)が都に流行したといいます。

葛城寺の前なるや 豊浦の寺の西なるや 桜井に白璧(しらたま)しずくや 好き璧しずくや 然かすれば国ぞ昌(さか)ゆるや 吾家(わぎへ)ら昌ゆるや

葛城寺の前、豊浦の寺の西の桜井のなかに白い玉が沈んでいる。あれをとろう。そうすれば、国も栄える、われらの家も栄える。といった意味。
やがて、誰言うともなく、この桜井の「井}は井上内親王、白璧の「白」は白壁皇子のことだといううわさが立った。あるいは、こういうのはしかるべき勢力がこっそりとそういう世論を仕立てていくのかもしれませんが、白壁皇子と井上内親王のご夫妻を天皇皇后にすれば国がうまく治まる、という期待が高まっていたというのであります。

前回までの系図を参照していただけば明らかなように、このお二人の結婚は、天武と天智の両方の血の結合でもあったわけですね。

なお『集英社版日本の歴史4天平の持代』(栄原永遠男)などによれば、これは当時の有力貴族の合意による即位であり、皇位を天智系にすることで有利になるグループと、天武系にとどめようとするグループとの落としどころではなかったか、という見方もあるようです。

このときの左大臣は藤原永手(北家)で右大臣が吉備真備であった。参議には式家の藤原宿奈麻呂(良継)がいた。右大臣の吉備真備は光仁天皇即位後七日ほどで高齢を理由に辞任していますので、なんとなく勢力関係はわかるような気がしますね。ところが左大臣の永手も翌年の771年に急死したため、良継が内臣という議政官トップのポストにつき、弟の百川も参議に抜擢されます。ということで、この式家の兄弟がここから数年は政局を動かしていくことになるようです。

まあ、こうして白壁皇子がはからずも第49代の光仁天皇として即位され(770年)、井上内親王が皇后になられたことは、ある意味では、予定調和のハッピーエンディングみたいな感じがありますね。このとき、光仁天皇はすでに62歳。井上内親王は54歳であった。お二人のお子さんの他戸親王も、771年に東宮に立たれました。めでたし、めでたし・・・・かと思ったら、ここからが奇怪きわまるのであります。

772年に宮中で重大事件が発生。

なんとこの皇后が光仁天皇を呪詛して死に至らしめ東宮(他戸親王)を位に就けようとした事実が判明したというのであります。つまりは、そういう自白を皇后の侍臣と女官がしたのですね。

井上内親王は前回書いたように伊勢の斎宮を長くつとめた女人ですから、たしかにこういう巫女がかったことに連想は行きます。天皇の命により、皇后はただちに廃され、宮中から退くよう申し渡されます。ほどなく皇太子であった他戸親王も廃されました。さらにしばらくして光仁天皇のお姉さん(難波内親王)が老齢でなくなるとこれも、井上内親王の呪詛によるものとされて、井上内親王と他戸皇子は大和国宇智郡に幽閉され、775年4月27日にお二人同時になくなられた、ト。毒殺といわれておりますそうで。

常識的に考えて、これは謀略でしょうね。

井上内親王にはほとんど動機がない。光仁天皇は即位した時点ですでに62歳である。息子の他戸はすでに後継者として公式に立太子されている。なんでいま天皇を呪詛する必要があるか。 まして、光仁天皇の姉なんてまったく利害関係のない、しかも政治的にも無力な老女のひっそりした死である。たまたま、そのとき亡くなられたのを呪詛にみたてたことは明白です。

この筋書きを書いたのは、藤原百川だということになっています。百川は、光仁天皇の皇子のひとりである山部親王(のちの桓武。以下桓武と呼ぶ)とすでに通じていたのでありますね。

のちの桓武の時代のはなしですが、百川のせがれである緒嗣(おつぐ)が29歳の若さで参議に抜擢されたとき、桓武は「緒嗣の父なかりせば、あに帝位を践むを得んや」とのたもうたそうであります。語るにおちるとはこのことか。

平安末期から鎌倉初期に成立した歴史物語「水鏡」には、光仁天皇と皇后である井上内親王が将棋で賭けをして、天皇が冗談で、わしが勝ったら別嬪さんを、あんたが勝ったらいい男を賞品にもらうことにしようとおっしゃったところ皇后が勝って、約束どおり若い男を所望した。いや、だってありゃ冗談だよ、って天皇がおっしゃってもお聞きにならないので、こまっていたところ、百川がそのとき36歳ばかりの男盛りの桓武を井上に差し向けるように言ったとあるそうですね。

光仁天皇はなにせ60代のじいちゃんだし、井上内親王は、堂々と若いのがほしいわね、と主張するようなおばはん(いや失礼)ですから、そういうお二人の微妙な関係につけこんで百川という男は謀略をめぐらしたのではないか、と疑われているらしい。

前回の最後のほうで書いた井上内親王が45歳ばかりで他戸親王を生んだのは遅すぎるという説(角田文衛)とからめて、岩佐美代子さんは『内親王ものがたり』(岩波書店)のなかで、こんな風に書いておられる。

四十五歳での出産は遅すぎる、というのがこの論の根拠ですが、あながちそうとも言えないと思います。おそらく井上内親王はこんな高齢出産にも堪える、健康でエネルギーに満ちた女性だったのでしょう。その、いつまでも若々しい皇后に対する老天皇の引け目が、あの賭け事の折の軽口の約束となり、勝気な皇后の要求に困った天皇の弱みにつけ込んで、百川の謀略になったと思われます。皇后は聖武天皇の皇女であるのに、天皇は天智天皇の皇孫、つまり血統的には一ランク下である、という事も、二人の力関係に微妙な影響を与えていあたかもしれません。老齢で単純な天皇、キャリアがあり意志の強い皇后、まだ少年の東宮。この三者を陥れようとするなら、標的はおのずから皇后に定められましょう。

恨みをのんで死んだ井上内親王はもちろん怨霊となり、平城京に祟りをなしました。言い伝えでは龍に姿を変えられたとありますから、お怒りのほどと、同時にその冤罪であることが当時の人々にははっきりと見えていたのであろう。百川もこの怨霊にとり殺されたことになっておりますね。桓武の長岡京遷都、平安京遷都も、この井上内親王の祟りを恐れてのことであったという側面もあるようです。皇后廃位後28年目の800年、井上内親王は名誉回復、皇后位に復しました。吉野皇太后と尊称された。

さて、長々と書いてきたが、天智と天武の血の争いはここに幕を閉じる。天武系は井上内親王で絶え、天智系の桓武がこれ以降血統を伝えることになるわけです。

なお、桓武のお父さんは系図にあるように光仁天皇ですが、お母さんは高野新笠といいます。『古代史おさらい帖』森浩一(筑摩書房)に、

高野新笠の父は渡来系の和乙継(やまとのおとつぐ)で母は土師眞妹である。つまり渡来人と日本人との結婚で誕生したのが桓武である。

と書かれておりますね。

天智系とか天武系とかいいますが、もしこのお二人が舒明と皇極という父母を同じにする兄弟であったとすれば、まあ、そんなのどっちでも同じでは、という気がしないでもない。ここまで因縁がもつれたのは、まあ、王権というものはそういうものだということかもしれませんが、わたしのような素人からみても、もしかしてやはりこのお二人は血統の異なる王朝を代表されていたのではないかしらねえ、なんて思えるのではありました。

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2008/07/14

青崖さんの俳句

インターネットで蒐めた岩田青崖氏の俳句。

ポケットに春の吃音持ち歩く

朧夜に背信の皮鞣しをり

まほろばは遠きヴイオロン春渚

潜水夫海市の街を行きにけり

磔刑の如向日葵の枯れにけり

寺山忌人間という墓場あり

居酒屋の蟋蟀となり棲みつけり

てで虫やお家がだんだん遠くなる

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古代史ノート(5)

わたしが萬葉集で暗誦できるものは、さほど多いわけではないが、ある理由からよく覚えている歌がある。

長皇子の志貴皇子と佐紀宮に倶に宴せる歌

秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上 84

リービ秀雄の英訳を参考にかかげる。あわせて読むといっそう味わい深い。

Poem written when Prince Naga banquetted with Prince Shiki at the Palace at Saki.

If autumn were here
these would be mountains
as we see them now,
where the deer cries
in longing for his wife -
on these high fields.

長皇子というのは天武のお子さんで、お母さんは天智の娘である大江皇女。
志貴皇子は天智と越道君伊羅都売という方の間にできたお子さんです。
二人の関係はたぶん志貴が叔父さんで長が甥っ子でいいのだと思いますが、このあたりは入り組んでるのでどういう呼び方をするのが正しいのかわたしにはよくわかりません。
ただし、あまり年は違っていなかったかもしれません。一緒に佐紀宮で遊んで歌も詠んでいるところをみると案外仲良しだったりして。
前回までの系図では芝基皇子と表記していますがもちろん同じ方です。志紀とも施基とも書きます。

ということで今回も、前の回の系図を横に置いてお読みくださいませ。

称徳天皇がなくなったとき次の天皇はすでに決まっていて宣命まで書き上げてあったらしい。次期天皇に予定されていたのは、長皇子のお子さんの大市皇子という方です。長皇子は上に書いたように天武の子ですから、大市は天武の孫にあたる。

ところが、藤原永手と藤原良継、百川兄弟がそれを読み上げる際に別の人物の名前にしたといいますね。なんとも強引なやり方ですが、この政権グループが擁立したのは芝基皇子の子の白壁王であった。これが第49代の光仁天皇であります。

この天智系の芝基皇子-白壁皇子という血筋は、どうも天武系の粛清を警戒して、政治にはかかわらなかった節がある。文武両道に秀でた逸材などと世評が高かったりしたら大津皇子のような目にあうぞ、ということだったのでしょう。芝基皇子などは、例の「吉野の盟約」のときの一皇子で、大津皇子とともに誓いを述べたお一人ですから、大津の二の舞はごめんだよ、ということではなかったか。
だから、芝基皇子もそのお子さんの白壁皇子も、まあ歌を詠んだり宴会を催したりすることで韜晦ぎみの人生を送っていた人であります。自分からなんとか皇位を得ようとはあまり思っていなかったんじゃないかと思われます。

さて、一方、天武の血筋を見てみますと、聖武天皇には井上内親王という娘さんがおられます。「いのえ」「いがみ」「いのうえ」と、現代の呼び方はとくにきまってはいないようです。
母は県犬養宿禰広刀自(あがたの・いぬかいの・すくねの・ひろとじ)で、717年に聖武の第一皇女としてお生まれになった。ちなみに藤原不比等の娘の光明の側ですでにご紹介している孝謙・称徳天皇がお生まれになったのは翌年の718年でした。
721年、5歳のときに元正天皇朝の斎宮として卜定(ぼくじょう)されます。斎宮というのはそのときの天皇の御世が終ると退下(たいげ)されるのが暗黙の決まりですが、724年に元正天皇から聖武天皇に譲位されたときも異例の措置として、そのまま斎宮を退下せず伊勢に下向されました。
728年には、やはり聖武と犬養広刀自の間に皇子が誕生します。安積(あさか)皇子といいます。すなわち井上内親王の同母の弟、大伯と大津の関係に同じです。(系図では省略)
井上内親王がこのように伊勢にとどめおかれた理由は、おそらく光明皇后の側で皇子に恵まれないため、第一皇女である井上が孝謙よりも天皇となる可能性があったからだろうと思われます。
また、安積親王は聖武天皇の男子のうち唯一成人された方でしたが、744年に急死されます。17歳の若さでした。おそらく藤原氏による暗殺ではなかったと疑われているそうな。
おそらくは、この弟君である安積親王の喪で、この時、井上は斎宮を退下されたようです。28歳になっておられました。

さてここからが、いよいよ本題です。
この天武の血を引いておられる井上内親王は、斎宮退下後、上のほうでご紹介した天智系の白壁王の妃となられるのでありますね。もちろん白壁が急遽天皇に擁立されるはるか以前、そもそも天皇への野心などこれっぽっちももたない、まあどちらかといえばお気楽な皇子生活を(たぶん)送っておられた時代の妃であります。
最初のお子さんである酒人内親王(系図では省略)がお生まれになったのが754年となっていますから、このとき井上内親王は38歳くらいでしょうか。二人目のお子さんは男の子で他戸(おさべ)親王と呼ばれますが、文献から単純計算すると45歳くらいでのご出産となる。これはちょっとこの時代にはむつかしいという説もあるそうですが、いまはおきます。
(以下次号)

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2008/07/12

古代史ノート(4)

20080712f この私的ノートの第2回の系図の最下部に、矢印で表示していた次の世代のオハナシ。前回の系図は簡略にして小さいアイコン表示(笑)で書いています。
やはりクリックして拡大し、本文の横に置いてお読みいただければ幸い。

天武崩御のあと皇后である持統が国政の中心に立ち、天武の葬儀を二年間かけておこないます。ようやく三年目の689年、いよいよ草壁皇子の即位までこぎつけたとき、なんということであるか、この草壁が急逝してしまうのでありますね。27歳か28歳くらいでした。
持統の異母妹であるところの阿閉(あべ)皇女(のちの元明女帝。以下元明と呼ぶ)との間に8歳ばかりの遺児があった。これを軽(かる)皇子(のちの文武天皇。以下同じ)といいます。持統にとっては孫息子。
持統さんはやむをえず、この文武に皇位を引き継ぐために自ら即位することにした。第41代の女帝の誕生です。(690年)
それから十年、ようやく19歳ほどになられた文武に譲位し(第42代)、持統はなんとか無事に天武の血統を未来につなぎます。
701年のことでありました。
この年、大伯皇女が亡くなっておられます。大宝令の施行により内親王の称号を与えられた。
同じ両親から生まれた姉の子供である甥・大津皇子に謀反の罪を着せてまで、わが子草壁に皇位をと願った持統ですが、やはり良心の呵責はあったのでしょうか。
あるいは良心の呵責などというのは、現代人の感傷に過ぎないのかもしれませんね。当時の人びとにとっては、非業に倒れた死者はダイレクトに祟りをなす恐ろしい実在であったかもしれない。
前回に述べた萬葉集の大津と大伯の歌がほんとうにふたりが詠んだものであるのか、後世の人のフィクションであるかは知りませんが、どちらであっても、そういうかたちで正史とは別の場所で文字に残すことによって、死者をなだめているのかもしれない。おおげさに言えばこれもまた文学というものであります。

さて、どうも天武側(父系)はうまく皇統が安定しません。
持統の苦労の末の文武天皇も24歳ばかりで崩御、その遺児である首(おびと)皇子(のちの聖武天皇。以後同じ)はやはり7歳ばかりでしたから、持統のときの前例にならってまずお祖母ちゃんである元明(第43代)が、つぎに叔母さんの元正(第44代)が、聖武にバトンを継ぐために即位します。このあたりやはり女帝というのはどうも無理筋の感がありますね。

ようやく第45代の聖武天皇が即位したのは724年のことです。このとき聖武天皇は24歳、藤原不比等女である光明子を皇后とし、天平の仏教文化が爛漫と花開いた時代をむかえる。
この聖武天皇はなんでかわたしにはまだよくわからんのですが49歳のとき光明皇后との間にできた阿倍内親王(のちの孝謙・称徳女帝)に譲位して太上天皇になってしまわれた。
聖武天皇は756年に崩御、このあとの皇統をどうするか遺言もあったようですが、それはとばしてしまうと、第46代の孝謙天皇は淳仁にいったん譲位します。(第47代)この淳仁さんのお父さんは有名な舎人親王(日本書紀の奏上者)で、お祖父さんが天武になります。つまり天武系の皇位継承。
淳仁さんの後見は藤原仲麻呂ですが、例の道鏡が出てきて、政権がややこしくなり仲麻呂は乱に破れ、孝謙さんが淳仁さんから皇位を取り上げて重祚しちゃいます。これが称徳天皇で第48代―
こうしてみてくると、天武の血筋はどうも綱渡りみたいなところがありますね。

一方、系図をご覧いただくと、天智系のほうでは、天智の皇子である芝貴(しき)皇子からその子、白壁皇子(のちの光仁天皇。以後同じ)へとひっそりと皇統は続いておりました。

ということで、この私的なお勉強ノートも(たぶん、あと一、二回で終りそうですが)もうちょっとだけ続きます。

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2008/07/10

古代史ノート(3)

667年、都を大和から近江大津に遷した天智は、翌668年正月に即位、第38代天皇となる。先帝、斉明が九州の地で崩じたのが661年。この間、皇太子のまま実質的な政務をとっていたわけです。いわゆる称制というかたちですね。

ところがそれから三年ばかりで天智は病重篤となり、弟の天武に譲位しようとしますが、天武は天智に大友皇子があることを理由に、これを固辞、出家して吉野に入った—ということになっていますが、これはまあ、このあとの壬申の乱で天武が勝ったあとの天武の命による歴史編纂の記述ですから、あまり信用できない。
いずれにしても、この直後に天智が四十六歳あまりで崩ずるとただちに跡を継いだ大友皇子に対して、天武は叛旗をひるがえし(壬申の乱)、大友を討って第40代天皇の位につくのであります。(673年)
天智の娘である持統はこの乱にあたっては、夫の天武の側にあって吉野にも従った。天武即位後は皇后となる。

ということは、この天武と持統の間に生まれた草壁皇子が皇太子の最有力候補になるのは当然でありますね。

679年、天武は持統や皇子たちと立てこもって天智方と戦った吉野に巡幸します。
付き従ったのは皇后である持統、自分の皇子である草壁、大津、高市(たけち)、忍壁(おさかべ)の四人の皇子と、天智天皇の皇子であるところの川嶋、芝基皇子の二皇子。
この六人の皇子に対して、千歳の後まで事なきことを誓わせるという、天武政権の一大イベントであります。
まず草壁皇子が、われわれはみな異なる腹から出た兄弟ではあるが、今後は同じ腹から出た兄弟のようにお互いに助け合って天皇に従ってゆきます、もしこの盟に違うようなことがあればわが身と子孫はたえてしまうであろう、てな誓いをした、ト。
のこる皇子もみな同じように誓いをおこなうと、天武は襟をひらき6人を抱いて、わたしもおまえたちを同じ母から生まれた皇子としていつくしむことにする、もしこれを違えたら直ちに命失せるだろうと述べ、また皇后である持統もこれにならった、ということになっておりますな。これが「吉野の盟約」ですが、まあなんとも、くさい芝居であります。(笑)総裁選挙後の自民党の親分衆の握手みたいなモンでありましょうが、こっちのほうが言うまでもなくもっと陰惨で迫力はあるな。

このイベントは、おそらくは持統による草壁を皇太子にするための儀式でしょうが、この皇子たちのなかでは、おそらく大津皇子(持統の姉である大田皇女と天武の子)がどうやらいちばん出来がよかったふしがある。
『懐風藻』に、
状貌魁梧にして器宇峻遠、幼年より学を好み、博覧にしてよく文をつくる。壮に及びて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。
とあり、『日本書紀』には、
長ずるに及び弁にして才学あり、尤も文筆を愛す。詩賦の興るは、大津より始まれり。
なんて書かれている(そうです)。

まあ、こうなるとこの大津皇子の運命はもはやきまったも同然である。ここで、アホのふりして持統に対して無害な人物ですよと見せるほどの器量があればよかったのしょうが、若いということはそういうことができないということでもある。
天武が686年に五十六歳で崩ずるとただちに大津皇子に謀反の嫌疑がかかる。
追い詰められた大津は伊勢の斎宮となった姉の大伯皇女に会いにゆき、大和にかえり、そして死を賜ることになりますね。
これは萬葉集でもっともよく知られた逸話のひとつですから、くわしい説明は省き、歌のみを掲げる。

わが背子を大和へやると小夜更けて暁露に我が立ちぬれし
大伯皇女(105)

二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ   (106)

見まく欲り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに    (164)

うつそみの人にある我や明日よりは二上山をいろせと我が見む   (165)

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2008/07/07

古代史ノート(2)

さて、ここで中大兄(天智)と大海人(天武)の后たちと子供たちの話を頭にいれておかなければこれからの話が進まない。(めんどくさいのでこれ以降は天武、天智で通します)しかし、これがけっこうややこしい。わたしがこのノートをつくっているのも自分できちんと整理しておきたいからなんですが、本に出ている系図を見てもどうもわかりにくいんですね。いっそ自分でつくってみようと思ったのですけれど、試行錯誤した結果、これは三次元で描画するのがもっともいいという結論になりました。室内装飾のモビールというぶら下げ式の「やじろべえ」がありますね、あれだと思ってご覧ください。我ながらなかなかの力作ですよ。(笑)

20080707e ただし、これは系図のごくごく一部であります。たとえば天武さんは天智さんの皇女であるこの系図のお二人のほかにも八人の公式の后をお持ちで、皇子が十人、皇女が七人でありました。全部描くとなにがなんだかわからなくなるので、簡略にしているわけです。
では以下は系図をクリックして拡大表示して横に置き、照らし合わせてお読みください。

天智は蘇我倉山田石川麻呂の娘を二人娶っています。姉の遠智娘(おちのいらつめ)との間にできたのが大田皇女と鸕野讚良(うののさらら)皇女(のちの持統天皇。以後持統と呼ぶ)。妹の姪娘(めいのいらつめ)との間にできたのが阿陪皇女(のちの元明天皇。以後同じ)と御名部皇女(系図では省略)。
でもって、この大田皇女と持統のお二人は天武の后になります。叔父と姪との結婚ですね。この時代にはまあこういうことはべつに禁忌ではなかった。タブーだったのは、母親を同じくする兄弟姉妹の関係で、有名なところでは允恭天皇(第19代)の皇太子であった木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と軽大娘(かるのおおいらつめ)の悲恋なんかがよく知られておりますね。

大田皇女と持統は大田がお姉さん、持統が妹です。
はなしは百済救援のための朝廷ごとの軍事行動の時点にもどります。この出兵で自ら船団を率いた斉明女帝はこのとき六十八歳でした。661年正月6日出航。
三日後の正月8日、船団が備前大伯海にあったときに大田皇女が女児を出産。土地にちなんで大伯皇女(おおくのひめみこ)と命名されました。
同年7月24日、斉明天皇は筑前国朝倉宮で亡くなられました。天智が皇太子のまま政務を引き継ぐことになります。
斉明天皇の崩御について、梅原猛がこんなことを書いております。(『飛鳥をめぐる謎』)

斉明帝は、新羅との戦いのために九州遠征中、朝倉宮で死んだが、そのとき「朝倉山の上に鬼有りて大笠を着て喪の儀(よそおい)を臨(のぞ)み視る。衆(ひとびと)皆嗟怪(あやし)ぶ。」と日本書紀にある。大笠は、やはり貴人のかむる笠であろう。この笠をかむった鬼は、誰が化かした鬼か。「扶桑略記」によると、この鬼は蘇我入鹿の化かした鬼であるという。斉明天皇は舒明天皇の皇后で、舒明帝の死後、皇極天皇となったが、入鹿はこの皇極帝の寵幸(ちょうこう)の近臣であったと、「大織冠伝」にある。私は、この美しい未亡人の天皇と、大臣、蘇我蝦夷の息子、青年蘇我入鹿との間に、男女の関係があったとしてもおかしくないと思う。とすれば、中大兄皇子の、あのクーデターは、母の恋人の殺害というハムレット的事件となるが、もしも入鹿が皇極帝の恋人であったとすれば、殺された入鹿の亡霊は、終生、皇極帝、斉明帝の周囲をうろついていたにちがいない。その人との恋によって、自分ばかりか、一家眷族をすべて滅ぼす原因をつくった思い出の女帝の葬儀を、入鹿の亡霊がじっと見守っていたという話は、当時のひとびとに好んで語り伝えられた話であったにちがいない。

なかなか興味深い話です。あるいはそういうことであったかも知れぬ。

662年、持統が筑前の本営で男児を出産、草壁皇子です。
663年、大田皇女がやはり九州で男児を出産、大津皇子です。お姉さんの大伯は備前大伯海からとられたお名前でしたから、おそらく大津皇子は筑前娜大津という地名からとられた名前でしょう。
この年、朝鮮に派兵した日本軍は白村江(はくすきのえ)で大敗、百済は完全にほろび、朝廷はおそらく半島でのすべての権益を失ったと思われます。
これ以降、大和に逃げ帰った天智政権は唐の侵攻におびえることになる。
667年都を大和から近江大津に移したのもそれが原因だといわれますね。この前後に大田皇女が亡くなられたらしい。大伯皇女が七歳、大津皇子が五歳のころであったとされる。

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2008/07/05

古代史ノート(1)

自分用の覚えとして。

寶女王(たからのひめみこ/594 - 661)という方は、第34代の舒明天皇(593 - 641)の皇后になられる以前に、高向王という方と結婚して男の子を産んでおられました。舒明天皇に嫁がれてから、中大兄皇子(のちの天智天皇)と大海人皇子(のちの天武天皇)をお産みなったということになっております。天智が兄ちゃんで、天武が弟で―

茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
(巻1・20・額田王)

紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも
(巻1・21・大海人皇子)

なんて歌から、額田王をめぐってこのご兄弟は恋敵であった、なんてわたしなどは教わったが、いまではこれは宴席の座興でしょ、ということになっておるらしい。つまんねえなあ、もう。

この天智と天武については、じつは天武のほうが年長で兄ちゃんであったという説もあるそうですな。寶女王が舒明に嫁ぐ前に生んだ子(漢皇子といいます)じゃねえの、というのである。
この天智と天武が父母を同じくする兄弟であるか、あるいはそうではなかったのか(たとえば大海人が漢皇子であればふたりは異父兄弟です)というのはたいへん重要な問題をはらんでいる。このことはあとでもういちどふれることになると思います。

さて舒明天皇がお亡くなりになった後、どうも後継者問題がむつかしかったのでしょう(つまり下手をすると乱になりかねない)、しかたがないので皇后が第35代天皇として立たれました。皇極天皇であります。
この皇極天皇の御世にはいろいろなことがありました。

まず即位二年目の643年には聖徳太子のお子さんの山背大兄王一族が蘇我入鹿によって殺されます。
645年はいうまでもなく中大兄皇子と中臣鎌足の宮中クーデターで蘇我入鹿が殺され、大化の改新が始まります。これによって皇極天皇は退位、軽皇子に譲位されます。軽皇子は皇極と母親を同じくする弟ですが、まあ、実質的な権力バランスは中大兄皇子と大海皇子の間にあったのでしょうね。軽皇子は第36代の孝徳天皇と名乗られ651年に難波に遷都されますが、二年もたたないうちに中大兄皇子と大海皇子は先代の天皇である皇極さん(このときの尊号は皇祖母尊)と孝徳天皇の皇后までつれて飛鳥に帰っちゃいます。当然、百官みな孝徳天皇を見捨てて都を離れましたから、孝徳天皇はすっかり気落ちして病死してしまった。

ここでまた後継者が決まらない(つまり中大兄と大海人との争いを避ける必要があったのでしょう)ために、皇極天皇がふたたび皇位につかれた。すなわち重祚して第37代 斉明天皇です。

斉明の御世も内政外交多難であります。
斉明天皇元年は655年、飛鳥板蓋宮で即位しましたが、その年に板蓋宮が火災にあったため、飛鳥川原宮に遷ります。その後、飛鳥岡本宮に遷都。
660年にこの王朝にとって衝撃的なニュースが飛び込んできます。百済が滅亡したというのですね。新羅と唐の連合軍が侵攻した。百済からの援兵を求めらた朝廷は朝鮮半島への出兵を決定する。

で、ここがどうもよくわからないのだが、この斉明政権は朝廷ごと西へ移動するのですね。難波へ行き、大伯海(いまの岡山県牛窓)へ行き、伊予へ行き、娜大津(福岡)へ行き朝倉宮というところに本営を築くのであります。斉明天皇、中大兄、大海人、それから次回に書きますがそれぞれの妃、その子供たちという政権中枢が丸ごと西下した。
わたしが、よくわからないというのは、なんで宮廷の主要メンバーが全員遠征軍に加わって移動しなきゃならなかったかということではない。たぶんそれが内部に緊張をはらんだ政権にとってはまだしも安心のできる軍事行動だったのでしょう。わからないのは、そうまでして新羅と、そしてその後ろにいる唐といういう超大国に戦を挑まねばならない必要が、あるいは義務があったのはなぜなんだ、ということであります。遠征というより百済はやはりこの政権にとっては「祖国」だったのではないかなあ。そんな気がします。

そして斉明天皇はこの朝倉宮で崩御されました。

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2008/07/03

翻訳がつくる日本語

023 国際交流基金「をちこち」no.23の特集「翻訳がつくる日本語」が面白かった。特集の巻頭は鹿島茂、亀山郁夫、鴻巣友季子、三氏の鼎談。

古典的な19世紀の外国文学が新訳で出版されて、けっこうよく売れているのはなぜか。この三人もそうした新訳の訳者でもあるわけだが、やはり読者は小説の語り—ヴォイスというものに飢えているんじゃないか。最近の小説がなんだかムツカシクてつまんなくなっちゃったから、19世紀の小説の勢いのある語りの世界がやはり面白そうだ。しかし、そういう現代の読者の「耳」にはかつての翻訳のヴォイスがもはやフィットしていないのではないか。だから新訳で、かれらの「耳」に届くようなヴォイスで訳してやると、すごくいい反応が返ってくるんだな、なんて真面目な分析と同時に、いやまあ、かつての偉い先生がもうみんな死んじゃったからねえ、なんて苦笑いみたいな話もある。亀山さんも、原卓也や江川卓なんて大物が生きてらしたら、とても怖くて新訳なんか出せませんよ、なんてホンネをもらしていておかしい。ちなみに、この鼎談に出てくる話ではないのですが、『カラマーゾフの兄弟』は、若者言葉では「カラキョー」と呼ばれておるそうですな。まいった、まいった。

鴻巣さんが、「むかしは翻訳で家が建つなんて言いましたね」と言うと、鹿島さんは、そうそうなんて感じでこんな話をしています。

「赤本」の名で親しまれた中央公論社の全集「世界の文学」ではかなり家が建ちました。駒場キャンパスに近い井の頭線沿線や小田急沿線は、文学全集住宅と言われたぐらいで、実際、僕の先生の山田爵*(じゃく)さんが『ボヴァリー夫人』を訳して成城に建てた「ボヴァリー夫人邸宅」がありました。

うーん、この話にはいささか悪意があるような気がするぞ。(笑)

そのほか、この特集の「翻訳は人間関係を表現する日本語の宝庫である」(中村桃子)もなかなか刺激的な話題を提供している。たとえば『風と共に去りぬ』なんかで、スカーレットと黒人の女中が会話する場面なんてのは、スカーレットの方は東京山の手風の女言葉、黒人の方はかならずなまりのきついしゃべり方で訳されている。

「よくってよ。わたしから言っておくわ」
「お嬢様、そら、なんねえだ。おら、旦那さまにしかられちまうだよ」

なんて感じね。(テキトーにつくりましたので実際の引用ではありません)
これって、英語のほうも女中の話すのは文法上の間違いがあったり、発音が異なっているのだとは思いますが、それにしても、それを日本語に訳すときに、東北弁っぽい表現にするとぴったりきまる。ここは大阪や京都や名古屋のなまりじゃダメで、いかにも雪深い地方の方言がふさわしいと感じるのはなぜなんでしょうか。
つまり白人と黒人の支配・被支配の関係が、東京生まれと雪国生まれの人間関係の構図に、うまくパラフレーズして読者に違和感がない(たしかにないよな)とすれば、それってもしかして、かなりちょっとナンではないですかあ、てなオハナシ。(笑)
うーん、これはちょっとおもしろい切り口だね。

*「爵」は上半分が「木」ですが、ココログではこの文字を使うとエラーになりますので、代用しています。命名は祖父の鷗外でありますね。

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2008/07/01

オリンパスのパンケーキ

先日、街を歩いていて見かけたのだが、若い女の子が肩から下げていたカメラがちょっと素敵だった。
たぶんオリンパスのE-420だろう、付けてるレンズがやたら薄いんだな。いわゆるパンケーキ・レンズというやつだ。ペンタックスの一眼なんかでこのパンケーキ・レンズを装着したのが、なんか「ブサイク」で可愛いなと思っていたのだが、オリンパスにはこのタイプがないからなあ、と以前からちょっと残念に思っていたのであります。
おや、オリンパスにパンケーキが出たのか、とさっそく調べてみたら、この5月くらいに発売されたようだ。
「ズイコーデジタル(ZUIKO DIGITAL) 25mm F2.8」といいます。
焦点距離25mm固定の単焦点レンズ。フォーサーズ規格のカメラに装着すると、35mm版換算で50mm相当の画角になる。

2627879158_8a35449e3c わたしのE-330に付けるとこんな感じ。
E-330の場合は一応、カメラのファームウェアをVer1.3にしておく必要があるようです。
まあ、わたしの場合は、要はカッコだけですから、レンズの性能がどったらこったら、収差補正がどうしたこうしたなんてのは、ほとんど理解の外にあるのですけれど、レンズが薄いと軽くもなるし、カバンに、ちゃちゃと出し入れもできるので持ち歩きやすいのはたしか。
50mm相当の画角でわりと自然な感じに撮れるので、これからはたぶんこのレンズが、常時マウント状態になるんじゃないかな。つかって見た感じは、なかなか気分よく撮れます。

写真は、梅田のヒルトンプラザの地下レストランの吹き抜け部分のフロアを一階上から見下ろして撮ったもの。購入検討している方が検索でここにたどり着かれた場合は参考になれば幸いです。
クリックして拡大してごらんくださいませ。
被写体は本来格子状ですが真上からではなく多少角度がついていることをお含みください。わたし的には「やあ、ちゃんと写ってら」という感じ。

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6月に読んだ本

『みじかい文章—批評家としての軌跡』加藤典洋(五柳書院/1997)
『ジーヴスと恋の季節』P.G.ウッドハウス/森村たまき訳(国書刊行会 /2007)
『エセー 3』ミシェル・ド・モンテーニュ/宮下志朗訳(白水社/2008)
『俳句往来—芭蕉・蕪村・寅彦そして現代俳句』尾形仂(富士見書房/2002)
『林檎の木の下で』アリス・マンロー/小竹由美子訳(新潮社/2008)
『李太白伝』岡野俊明(作品社/2002)
『師直の恋—原「忠臣蔵」』松本徹(邑書林/2001)
『金子兜太 高柳重信集』 (朝日文庫/1984)
『漢詩一日一首・春』一海知義(平凡社/2007)
『ホーロー質』加藤典洋(河出書房新社/1991)
『可愛いピアス』伊集院静(文春文庫/2003)
『潮流』伊集院静(講談社文庫/1997)
『われ巣鴨に出頭せず—近衛文麿と天皇』工藤美代子(日本経済新聞社 /2006)
『ひらがなでよめばわかる日本語』中西進(新潮文庫/2008)
『川崎展宏句集 冬』(ふらんす堂/2003)
『ブランディングズ城の夏の稲妻』P.G.ウッドハウス/森村たまき訳(国書刊行会 /2007)
『百合子さんは何色—武田百合子への旅』村松友視(筑摩書房/1994)

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6月に見た映画

ALWAYS 続・三丁目の夕日
監督:山崎貴
出演:堀北真希、薬師丸ひろ子、堤真一、小雪、吉岡秀隆、三浦友和

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