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2008/07/05

古代史ノート(1)

自分用の覚えとして。

寶女王(たからのひめみこ/594 - 661)という方は、第34代の舒明天皇(593 - 641)の皇后になられる以前に、高向王という方と結婚して男の子を産んでおられました。舒明天皇に嫁がれてから、中大兄皇子(のちの天智天皇)と大海人皇子(のちの天武天皇)をお産みなったということになっております。天智が兄ちゃんで、天武が弟で―

茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
(巻1・20・額田王)

紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも
(巻1・21・大海人皇子)

なんて歌から、額田王をめぐってこのご兄弟は恋敵であった、なんてわたしなどは教わったが、いまではこれは宴席の座興でしょ、ということになっておるらしい。つまんねえなあ、もう。

この天智と天武については、じつは天武のほうが年長で兄ちゃんであったという説もあるそうですな。寶女王が舒明に嫁ぐ前に生んだ子(漢皇子といいます)じゃねえの、というのである。
この天智と天武が父母を同じくする兄弟であるか、あるいはそうではなかったのか(たとえば大海人が漢皇子であればふたりは異父兄弟です)というのはたいへん重要な問題をはらんでいる。このことはあとでもういちどふれることになると思います。

さて舒明天皇がお亡くなりになった後、どうも後継者問題がむつかしかったのでしょう(つまり下手をすると乱になりかねない)、しかたがないので皇后が第35代天皇として立たれました。皇極天皇であります。
この皇極天皇の御世にはいろいろなことがありました。

まず即位二年目の643年には聖徳太子のお子さんの山背大兄王一族が蘇我入鹿によって殺されます。
645年はいうまでもなく中大兄皇子と中臣鎌足の宮中クーデターで蘇我入鹿が殺され、大化の改新が始まります。これによって皇極天皇は退位、軽皇子に譲位されます。軽皇子は皇極と母親を同じくする弟ですが、まあ、実質的な権力バランスは中大兄皇子と大海皇子の間にあったのでしょうね。軽皇子は第36代の孝徳天皇と名乗られ651年に難波に遷都されますが、二年もたたないうちに中大兄皇子と大海皇子は先代の天皇である皇極さん(このときの尊号は皇祖母尊)と孝徳天皇の皇后までつれて飛鳥に帰っちゃいます。当然、百官みな孝徳天皇を見捨てて都を離れましたから、孝徳天皇はすっかり気落ちして病死してしまった。

ここでまた後継者が決まらない(つまり中大兄と大海人との争いを避ける必要があったのでしょう)ために、皇極天皇がふたたび皇位につかれた。すなわち重祚して第37代 斉明天皇です。

斉明の御世も内政外交多難であります。
斉明天皇元年は655年、飛鳥板蓋宮で即位しましたが、その年に板蓋宮が火災にあったため、飛鳥川原宮に遷ります。その後、飛鳥岡本宮に遷都。
660年にこの王朝にとって衝撃的なニュースが飛び込んできます。百済が滅亡したというのですね。新羅と唐の連合軍が侵攻した。百済からの援兵を求めらた朝廷は朝鮮半島への出兵を決定する。

で、ここがどうもよくわからないのだが、この斉明政権は朝廷ごと西へ移動するのですね。難波へ行き、大伯海(いまの岡山県牛窓)へ行き、伊予へ行き、娜大津(福岡)へ行き朝倉宮というところに本営を築くのであります。斉明天皇、中大兄、大海人、それから次回に書きますがそれぞれの妃、その子供たちという政権中枢が丸ごと西下した。
わたしが、よくわからないというのは、なんで宮廷の主要メンバーが全員遠征軍に加わって移動しなきゃならなかったかということではない。たぶんそれが内部に緊張をはらんだ政権にとってはまだしも安心のできる軍事行動だったのでしょう。わからないのは、そうまでして新羅と、そしてその後ろにいる唐といういう超大国に戦を挑まねばならない必要が、あるいは義務があったのはなぜなんだ、ということであります。遠征というより百済はやはりこの政権にとっては「祖国」だったのではないかなあ。そんな気がします。

そして斉明天皇はこの朝倉宮で崩御されました。

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