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2008/07/12

古代史ノート(4)

20080712f この私的ノートの第2回の系図の最下部に、矢印で表示していた次の世代のオハナシ。前回の系図は簡略にして小さいアイコン表示(笑)で書いています。
やはりクリックして拡大し、本文の横に置いてお読みいただければ幸い。

天武崩御のあと皇后である持統が国政の中心に立ち、天武の葬儀を二年間かけておこないます。ようやく三年目の689年、いよいよ草壁皇子の即位までこぎつけたとき、なんということであるか、この草壁が急逝してしまうのでありますね。27歳か28歳くらいでした。
持統の異母妹であるところの阿閉(あべ)皇女(のちの元明女帝。以下元明と呼ぶ)との間に8歳ばかりの遺児があった。これを軽(かる)皇子(のちの文武天皇。以下同じ)といいます。持統にとっては孫息子。
持統さんはやむをえず、この文武に皇位を引き継ぐために自ら即位することにした。第41代の女帝の誕生です。(690年)
それから十年、ようやく19歳ほどになられた文武に譲位し(第42代)、持統はなんとか無事に天武の血統を未来につなぎます。
701年のことでありました。
この年、大伯皇女が亡くなっておられます。大宝令の施行により内親王の称号を与えられた。
同じ両親から生まれた姉の子供である甥・大津皇子に謀反の罪を着せてまで、わが子草壁に皇位をと願った持統ですが、やはり良心の呵責はあったのでしょうか。
あるいは良心の呵責などというのは、現代人の感傷に過ぎないのかもしれませんね。当時の人びとにとっては、非業に倒れた死者はダイレクトに祟りをなす恐ろしい実在であったかもしれない。
前回に述べた萬葉集の大津と大伯の歌がほんとうにふたりが詠んだものであるのか、後世の人のフィクションであるかは知りませんが、どちらであっても、そういうかたちで正史とは別の場所で文字に残すことによって、死者をなだめているのかもしれない。おおげさに言えばこれもまた文学というものであります。

さて、どうも天武側(父系)はうまく皇統が安定しません。
持統の苦労の末の文武天皇も24歳ばかりで崩御、その遺児である首(おびと)皇子(のちの聖武天皇。以後同じ)はやはり7歳ばかりでしたから、持統のときの前例にならってまずお祖母ちゃんである元明(第43代)が、つぎに叔母さんの元正(第44代)が、聖武にバトンを継ぐために即位します。このあたりやはり女帝というのはどうも無理筋の感がありますね。

ようやく第45代の聖武天皇が即位したのは724年のことです。このとき聖武天皇は24歳、藤原不比等女である光明子を皇后とし、天平の仏教文化が爛漫と花開いた時代をむかえる。
この聖武天皇はなんでかわたしにはまだよくわからんのですが49歳のとき光明皇后との間にできた阿倍内親王(のちの孝謙・称徳女帝)に譲位して太上天皇になってしまわれた。
聖武天皇は756年に崩御、このあとの皇統をどうするか遺言もあったようですが、それはとばしてしまうと、第46代の孝謙天皇は淳仁にいったん譲位します。(第47代)この淳仁さんのお父さんは有名な舎人親王(日本書紀の奏上者)で、お祖父さんが天武になります。つまり天武系の皇位継承。
淳仁さんの後見は藤原仲麻呂ですが、例の道鏡が出てきて、政権がややこしくなり仲麻呂は乱に破れ、孝謙さんが淳仁さんから皇位を取り上げて重祚しちゃいます。これが称徳天皇で第48代―
こうしてみてくると、天武の血筋はどうも綱渡りみたいなところがありますね。

一方、系図をご覧いただくと、天智系のほうでは、天智の皇子である芝貴(しき)皇子からその子、白壁皇子(のちの光仁天皇。以後同じ)へとひっそりと皇統は続いておりました。

ということで、この私的なお勉強ノートも(たぶん、あと一、二回で終りそうですが)もうちょっとだけ続きます。

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