« 古代史ノート(4) | トップページ | 青崖さんの俳句 »

2008/07/14

古代史ノート(5)

わたしが萬葉集で暗誦できるものは、さほど多いわけではないが、ある理由からよく覚えている歌がある。

長皇子の志貴皇子と佐紀宮に倶に宴せる歌

秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上 84

リービ秀雄の英訳を参考にかかげる。あわせて読むといっそう味わい深い。

Poem written when Prince Naga banquetted with Prince Shiki at the Palace at Saki.

If autumn were here
these would be mountains
as we see them now,
where the deer cries
in longing for his wife -
on these high fields.

長皇子というのは天武のお子さんで、お母さんは天智の娘である大江皇女。
志貴皇子は天智と越道君伊羅都売という方の間にできたお子さんです。
二人の関係はたぶん志貴が叔父さんで長が甥っ子でいいのだと思いますが、このあたりは入り組んでるのでどういう呼び方をするのが正しいのかわたしにはよくわかりません。
ただし、あまり年は違っていなかったかもしれません。一緒に佐紀宮で遊んで歌も詠んでいるところをみると案外仲良しだったりして。
前回までの系図では芝基皇子と表記していますがもちろん同じ方です。志紀とも施基とも書きます。

ということで今回も、前の回の系図を横に置いてお読みくださいませ。

称徳天皇がなくなったとき次の天皇はすでに決まっていて宣命まで書き上げてあったらしい。次期天皇に予定されていたのは、長皇子のお子さんの大市皇子という方です。長皇子は上に書いたように天武の子ですから、大市は天武の孫にあたる。

ところが、藤原永手と藤原良継、百川兄弟がそれを読み上げる際に別の人物の名前にしたといいますね。なんとも強引なやり方ですが、この政権グループが擁立したのは芝基皇子の子の白壁王であった。これが第49代の光仁天皇であります。

この天智系の芝基皇子-白壁皇子という血筋は、どうも天武系の粛清を警戒して、政治にはかかわらなかった節がある。文武両道に秀でた逸材などと世評が高かったりしたら大津皇子のような目にあうぞ、ということだったのでしょう。芝基皇子などは、例の「吉野の盟約」のときの一皇子で、大津皇子とともに誓いを述べたお一人ですから、大津の二の舞はごめんだよ、ということではなかったか。
だから、芝基皇子もそのお子さんの白壁皇子も、まあ歌を詠んだり宴会を催したりすることで韜晦ぎみの人生を送っていた人であります。自分からなんとか皇位を得ようとはあまり思っていなかったんじゃないかと思われます。

さて、一方、天武の血筋を見てみますと、聖武天皇には井上内親王という娘さんがおられます。「いのえ」「いがみ」「いのうえ」と、現代の呼び方はとくにきまってはいないようです。
母は県犬養宿禰広刀自(あがたの・いぬかいの・すくねの・ひろとじ)で、717年に聖武の第一皇女としてお生まれになった。ちなみに藤原不比等の娘の光明の側ですでにご紹介している孝謙・称徳天皇がお生まれになったのは翌年の718年でした。
721年、5歳のときに元正天皇朝の斎宮として卜定(ぼくじょう)されます。斎宮というのはそのときの天皇の御世が終ると退下(たいげ)されるのが暗黙の決まりですが、724年に元正天皇から聖武天皇に譲位されたときも異例の措置として、そのまま斎宮を退下せず伊勢に下向されました。
728年には、やはり聖武と犬養広刀自の間に皇子が誕生します。安積(あさか)皇子といいます。すなわち井上内親王の同母の弟、大伯と大津の関係に同じです。(系図では省略)
井上内親王がこのように伊勢にとどめおかれた理由は、おそらく光明皇后の側で皇子に恵まれないため、第一皇女である井上が孝謙よりも天皇となる可能性があったからだろうと思われます。
また、安積親王は聖武天皇の男子のうち唯一成人された方でしたが、744年に急死されます。17歳の若さでした。おそらく藤原氏による暗殺ではなかったと疑われているそうな。
おそらくは、この弟君である安積親王の喪で、この時、井上は斎宮を退下されたようです。28歳になっておられました。

さてここからが、いよいよ本題です。
この天武の血を引いておられる井上内親王は、斎宮退下後、上のほうでご紹介した天智系の白壁王の妃となられるのでありますね。もちろん白壁が急遽天皇に擁立されるはるか以前、そもそも天皇への野心などこれっぽっちももたない、まあどちらかといえばお気楽な皇子生活を(たぶん)送っておられた時代の妃であります。
最初のお子さんである酒人内親王(系図では省略)がお生まれになったのが754年となっていますから、このとき井上内親王は38歳くらいでしょうか。二人目のお子さんは男の子で他戸(おさべ)親王と呼ばれますが、文献から単純計算すると45歳くらいでのご出産となる。これはちょっとこの時代にはむつかしいという説もあるそうですが、いまはおきます。
(以下次号)

|

« 古代史ノート(4) | トップページ | 青崖さんの俳句 »

j)その他」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23898/41831708

この記事へのトラックバック一覧です: 古代史ノート(5):

« 古代史ノート(4) | トップページ | 青崖さんの俳句 »