翻訳がつくる日本語
国際交流基金「をちこち」no.23の特集「翻訳がつくる日本語」が面白かった。特集の巻頭は鹿島茂、亀山郁夫、鴻巣友季子、三氏の鼎談。
古典的な19世紀の外国文学が新訳で出版されて、けっこうよく売れているのはなぜか。この三人もそうした新訳の訳者でもあるわけだが、やはり読者は小説の語り—ヴォイスというものに飢えているんじゃないか。最近の小説がなんだかムツカシクてつまんなくなっちゃったから、19世紀の小説の勢いのある語りの世界がやはり面白そうだ。しかし、そういう現代の読者の「耳」にはかつての翻訳のヴォイスがもはやフィットしていないのではないか。だから新訳で、かれらの「耳」に届くようなヴォイスで訳してやると、すごくいい反応が返ってくるんだな、なんて真面目な分析と同時に、いやまあ、かつての偉い先生がもうみんな死んじゃったからねえ、なんて苦笑いみたいな話もある。亀山さんも、原卓也や江川卓なんて大物が生きてらしたら、とても怖くて新訳なんか出せませんよ、なんてホンネをもらしていておかしい。ちなみに、この鼎談に出てくる話ではないのですが、『カラマーゾフの兄弟』は、若者言葉では「カラキョー」と呼ばれておるそうですな。まいった、まいった。
鴻巣さんが、「むかしは翻訳で家が建つなんて言いましたね」と言うと、鹿島さんは、そうそうなんて感じでこんな話をしています。
「赤本」の名で親しまれた中央公論社の全集「世界の文学」ではかなり家が建ちました。駒場キャンパスに近い井の頭線沿線や小田急沿線は、文学全集住宅と言われたぐらいで、実際、僕の先生の山田爵*(じゃく)さんが『ボヴァリー夫人』を訳して成城に建てた「ボヴァリー夫人邸宅」がありました。
うーん、この話にはいささか悪意があるような気がするぞ。(笑)
そのほか、この特集の「翻訳は人間関係を表現する日本語の宝庫である」(中村桃子)もなかなか刺激的な話題を提供している。たとえば『風と共に去りぬ』なんかで、スカーレットと黒人の女中が会話する場面なんてのは、スカーレットの方は東京山の手風の女言葉、黒人の方はかならずなまりのきついしゃべり方で訳されている。
「よくってよ。わたしから言っておくわ」
「お嬢様、そら、なんねえだ。おら、旦那さまにしかられちまうだよ」
なんて感じね。(テキトーにつくりましたので実際の引用ではありません)
これって、英語のほうも女中の話すのは文法上の間違いがあったり、発音が異なっているのだとは思いますが、それにしても、それを日本語に訳すときに、東北弁っぽい表現にするとぴったりきまる。ここは大阪や京都や名古屋のなまりじゃダメで、いかにも雪深い地方の方言がふさわしいと感じるのはなぜなんでしょうか。
つまり白人と黒人の支配・被支配の関係が、東京生まれと雪国生まれの人間関係の構図に、うまくパラフレーズして読者に違和感がない(たしかにないよな)とすれば、それってもしかして、かなりちょっとナンではないですかあ、てなオハナシ。(笑)
うーん、これはちょっとおもしろい切り口だね。
*「爵」は上半分が「木」ですが、ココログではこの文字を使うとエラーになりますので、代用しています。命名は祖父の鷗外でありますね。
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コメント
亀山氏の新訳『カラマーゾフの兄弟』は、大量の誤訳が指摘され、週刊新潮の記事にもなっています。(→「ドストエーフスキイの会」HP)
実際、誤訳箇所のほとんどは原・江川両先生が正しく訳されているところです。先人の訳のみならず原文との照合も怠っているようです。
どんな話をされたのか、気になるところです。
投稿: アオン | 2008/07/03 23:21
「本の雑誌」の7月号でも、青山南氏がアメリカの「カラマーゾフ」新訳のことを書いていましたね。なんでも、ロシア出身のアメリカ人の主婦が夫が読んでる英訳を覗いて、そのあまりに間違いだらけの訳に怒り心頭に発して、一念発起、ロシア語から英語への正確な逐語訳を夫に渡し、夫はそれを英語でリライト、さらに妻がその夫の英語を原文とつきあわせて点検—というようなプロセスでこつこつ仕上げていったらしい。ベストセラーだそうですが、うーん、英語読むの好きな人は亀山新訳よりこの新英訳を狙えでしょうか。(笑)
投稿: かわうそ亭 | 2008/07/04 22:51
“それにしても、それを日本語に訳すときに、東北弁っぽい表現にするとぴったりきまる。ここは大阪や京都や名古屋のなまりじゃダメで、いかにも雪深い地方の方言がふさわしいと感じるのはなぜなんでしょうか。”・・・これは、主観の問題でしょうが、わたしには東北弁っぽい表現が《ふさわしい》とはどうも思えないし、かなり以前からの紋切型の――差別無意識肯定型の、とまでいわないまでも――常套手段ではないかとおもうのですが、いかが。。。
ところで、「カラキョー」と「プロリン」の差はどうでしょう。「若い」学生ではなくあの大塚久雄氏がこうした略語?を使っておられることに一驚した記憶がありますが。
投稿: かぐら川 | 2008/07/05 22:58
はは、たしかに「ふさわしい」という言い方は、ふさわしくなかったか。
まあ、わたし自身もどっぷりそういう見方に染まっているのは確か。
こういう紋切型、常套手段はかなり以前からのものでしょ、というのはそのとおりだと思います。わたしの直感では江戸期にまでさかのぼるんじゃないかと思う。その後、演劇、落語、映画、テレビドラマなどで全国的に再生産されたお約束が、下働きの住み込み使用人は「あいや、だめだでば」式の東北弁的言い回し、えげつない商売人は「もうかりまっか」式の浪花弁、慇懃無礼な老舗の主人は「へえ、そうどんなあ」の京言葉なんてステレオタイプですね。そう決めつられては、そこの言葉をつかう人はこれを嫌だと感じるのも無理はない。
「プロリン」ですか。まあこれはさすがに略さないと全部言うのがめんどくさい。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』ですからねえ。(笑)
投稿: かわうそ亭 | 2008/07/06 22:43