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2008/07/10

古代史ノート(3)

667年、都を大和から近江大津に遷した天智は、翌668年正月に即位、第38代天皇となる。先帝、斉明が九州の地で崩じたのが661年。この間、皇太子のまま実質的な政務をとっていたわけです。いわゆる称制というかたちですね。

ところがそれから三年ばかりで天智は病重篤となり、弟の天武に譲位しようとしますが、天武は天智に大友皇子があることを理由に、これを固辞、出家して吉野に入った—ということになっていますが、これはまあ、このあとの壬申の乱で天武が勝ったあとの天武の命による歴史編纂の記述ですから、あまり信用できない。
いずれにしても、この直後に天智が四十六歳あまりで崩ずるとただちに跡を継いだ大友皇子に対して、天武は叛旗をひるがえし(壬申の乱)、大友を討って第40代天皇の位につくのであります。(673年)
天智の娘である持統はこの乱にあたっては、夫の天武の側にあって吉野にも従った。天武即位後は皇后となる。

ということは、この天武と持統の間に生まれた草壁皇子が皇太子の最有力候補になるのは当然でありますね。

679年、天武は持統や皇子たちと立てこもって天智方と戦った吉野に巡幸します。
付き従ったのは皇后である持統、自分の皇子である草壁、大津、高市(たけち)、忍壁(おさかべ)の四人の皇子と、天智天皇の皇子であるところの川嶋、芝基皇子の二皇子。
この六人の皇子に対して、千歳の後まで事なきことを誓わせるという、天武政権の一大イベントであります。
まず草壁皇子が、われわれはみな異なる腹から出た兄弟ではあるが、今後は同じ腹から出た兄弟のようにお互いに助け合って天皇に従ってゆきます、もしこの盟に違うようなことがあればわが身と子孫はたえてしまうであろう、てな誓いをした、ト。
のこる皇子もみな同じように誓いをおこなうと、天武は襟をひらき6人を抱いて、わたしもおまえたちを同じ母から生まれた皇子としていつくしむことにする、もしこれを違えたら直ちに命失せるだろうと述べ、また皇后である持統もこれにならった、ということになっておりますな。これが「吉野の盟約」ですが、まあなんとも、くさい芝居であります。(笑)総裁選挙後の自民党の親分衆の握手みたいなモンでありましょうが、こっちのほうが言うまでもなくもっと陰惨で迫力はあるな。

このイベントは、おそらくは持統による草壁を皇太子にするための儀式でしょうが、この皇子たちのなかでは、おそらく大津皇子(持統の姉である大田皇女と天武の子)がどうやらいちばん出来がよかったふしがある。
『懐風藻』に、
状貌魁梧にして器宇峻遠、幼年より学を好み、博覧にしてよく文をつくる。壮に及びて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。
とあり、『日本書紀』には、
長ずるに及び弁にして才学あり、尤も文筆を愛す。詩賦の興るは、大津より始まれり。
なんて書かれている(そうです)。

まあ、こうなるとこの大津皇子の運命はもはやきまったも同然である。ここで、アホのふりして持統に対して無害な人物ですよと見せるほどの器量があればよかったのしょうが、若いということはそういうことができないということでもある。
天武が686年に五十六歳で崩ずるとただちに大津皇子に謀反の嫌疑がかかる。
追い詰められた大津は伊勢の斎宮となった姉の大伯皇女に会いにゆき、大和にかえり、そして死を賜ることになりますね。
これは萬葉集でもっともよく知られた逸話のひとつですから、くわしい説明は省き、歌のみを掲げる。

わが背子を大和へやると小夜更けて暁露に我が立ちぬれし
大伯皇女(105)

二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ   (106)

見まく欲り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに    (164)

うつそみの人にある我や明日よりは二上山をいろせと我が見む   (165)

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