茂吉の昭和八年
小池光の『茂吉を読む 五十代五歌集』(五柳書院)から。
『白桃』は昭和八年、九年の作歌を集めた歌集で、茂吉は五十一歳。刊行は昭和十六年で、茂吉は五十九歳になっている。茂吉の場合、作歌時期と歌集に編んで上梓する時期の間が離れているのが特徴らしい。
この『白桃』の場合は、五十代のはじめにつくった歌を五十代の終りにまとめているような塩梅になる。
「白桃」は「はくとう」「しらもも」ではなく「しろもも」である。
ただひとつ惜しみて置きし白桃の
ゆたけきを吾は食ひをはりけり
この歌についての白桃については、弟子の永井ふさ子との恋愛にからめる見方もあるそうですが、どうなんでしょうね。深読みするとたしかにずいぶんエロチックな歌ではあります。
それはさておき、この歌集には「時々感想断片集」という23首があるそうで、小池氏は昭和八年の東京朝日新聞のマイクロフィルムを埼玉県立図書館で見ながらいくつか発見があったことを書いておられる。とくにこの一連は時事にからめた歌なので、年表はもとより、新聞の三面記事や写真を見ながら当時の世相や東京の街の雰囲気を想像して読むと面白いとのこと。
この年は、1月から大塚金之助や河上肇が検挙され、2月には小林多喜二が築地署に留置中に特高の拷問で虐殺されるなど、マルクス主義者への弾圧が激化した。奇しくもマルクスの死後50年にあたっていた。3月にはドイツではナチスの国会議事堂放火事件からヒットラーが全権を掌握、ナチスの独裁が確立。日本は国際連盟を脱退した。4月、京大滝川事件と暗い世相に入っていく時期にあたっている。河上肇の転向声明は7月7日の新聞、社会面のトップを飾った。
茂吉の歌—
先驅者歿後五十年にして幾たりか
マルチリウム氣味に死せるものあり獄にゐるは苦しからむとおもへども
獄より出でて街ゆくらむかわが心に何のはずみにかあらむ
河上肇おもほゆ大鹽平八郎おもほゆある個人らの思想の轉向といふことが
手柄らしくあからさまになりぬめでたや
蛇足ながら多少解説。
「マルチリウム」は殉教(Martyrium)。ここに気味などという言葉がつくところに悪意があるな。ちなみに茂吉は、マルクス全集をドイツ語で読んでいるとか。ただし、論争上の必要からで、マルクス主義に対するスタンスはこの歌だけでも明らかではありますね。
二番目の「獄より出でて」の歌には「××博士出獄」の詞書がある。もちろん河上肇のことだが、出獄は誤り。(実際の出獄は昭和十二年)おそらく7月の転向声明の紙上の写真を見て出獄したものと勘違いしたものか。茂吉の歌からは、たとえば三番目の大塩平八郎との連想などに顕著だが、河上肇にはどこかほのかな敬意のようなものも感じられる。
しかし、四番目の歌などには、そういう共感めいたものは皆無で悪意、痛罵、冷笑といった言葉が思い浮かぶ。この年、獄中の共産党幹部佐野学(31)、鍋山貞親(33)をはじめ検挙されたコミュニストの多くが転向したのであります。
こんな歌もある。
こがらしのおとを戀ひつつ立ちいづる
吉井勇は寂しきろかも
昭和八年の東京朝日新聞には「歌の伯爵吉井勇氏 朗らかに家庭解消『悲劇のない離婚』で危機を打開 夫人は職業戦線へ」なる見出し。
吉井勇もその放蕩は知られるところだが、その夫人、徳子も夫に負けず自由な外出生活の享楽ぶりであった。これを不満とする吉井勇の手記「こがらしの記」によりふたりの離婚は時間の問題と見られていた。
小池氏のコメント。
新聞は『悲劇のない離婚』をスマートに創作しているが、そんな綺麗事が世にありはしないことは、吉井勇と交遊のある茂吉にはむろん十二分にわかっている。「夫人の自由な外出生活の享楽ぶり」に苦悩するのはまた茂吉自身の苦悩でもあった。「寂しきろかも」もむしろ茂吉自身の感慨である。
スキャンダル「ダンスホール事件」で、ほかの多くの金持ちの婦人連中と一緒に青山脳病院院長夫人の名前が新聞紙上に出て、茂吉と輝子が別居することになるのは、この昭和八年の暮のことでありました。
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