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2008/07/16

古代史ノート(6)

白壁皇子は前回に述べたように、天皇への野心はもっておられないか、あってもそうとは見せず、酒とバラの日々で無害な皇子を演じて見せて身の安全を図っておられたわけですけれども、世間というのはそういうご本人の意向とは別のようで、こんな童謡(わざうた)が都に流行したといいます。

葛城寺の前なるや 豊浦の寺の西なるや 桜井に白璧(しらたま)しずくや 好き璧しずくや 然かすれば国ぞ昌(さか)ゆるや 吾家(わぎへ)ら昌ゆるや

葛城寺の前、豊浦の寺の西の桜井のなかに白い玉が沈んでいる。あれをとろう。そうすれば、国も栄える、われらの家も栄える。といった意味。
やがて、誰言うともなく、この桜井の「井}は井上内親王、白璧の「白」は白壁皇子のことだといううわさが立った。あるいは、こういうのはしかるべき勢力がこっそりとそういう世論を仕立てていくのかもしれませんが、白壁皇子と井上内親王のご夫妻を天皇皇后にすれば国がうまく治まる、という期待が高まっていたというのであります。

前回までの系図を参照していただけば明らかなように、このお二人の結婚は、天武と天智の両方の血の結合でもあったわけですね。

なお『集英社版日本の歴史4天平の持代』(栄原永遠男)などによれば、これは当時の有力貴族の合意による即位であり、皇位を天智系にすることで有利になるグループと、天武系にとどめようとするグループとの落としどころではなかったか、という見方もあるようです。

このときの左大臣は藤原永手(北家)で右大臣が吉備真備であった。参議には式家の藤原宿奈麻呂(良継)がいた。右大臣の吉備真備は光仁天皇即位後七日ほどで高齢を理由に辞任していますので、なんとなく勢力関係はわかるような気がしますね。ところが左大臣の永手も翌年の771年に急死したため、良継が内臣という議政官トップのポストにつき、弟の百川も参議に抜擢されます。ということで、この式家の兄弟がここから数年は政局を動かしていくことになるようです。

まあ、こうして白壁皇子がはからずも第49代の光仁天皇として即位され(770年)、井上内親王が皇后になられたことは、ある意味では、予定調和のハッピーエンディングみたいな感じがありますね。このとき、光仁天皇はすでに62歳。井上内親王は54歳であった。お二人のお子さんの他戸親王も、771年に東宮に立たれました。めでたし、めでたし・・・・かと思ったら、ここからが奇怪きわまるのであります。

772年に宮中で重大事件が発生。

なんとこの皇后が光仁天皇を呪詛して死に至らしめ東宮(他戸親王)を位に就けようとした事実が判明したというのであります。つまりは、そういう自白を皇后の侍臣と女官がしたのですね。

井上内親王は前回書いたように伊勢の斎宮を長くつとめた女人ですから、たしかにこういう巫女がかったことに連想は行きます。天皇の命により、皇后はただちに廃され、宮中から退くよう申し渡されます。ほどなく皇太子であった他戸親王も廃されました。さらにしばらくして光仁天皇のお姉さん(難波内親王)が老齢でなくなるとこれも、井上内親王の呪詛によるものとされて、井上内親王と他戸皇子は大和国宇智郡に幽閉され、775年4月27日にお二人同時になくなられた、ト。毒殺といわれておりますそうで。

常識的に考えて、これは謀略でしょうね。

井上内親王にはほとんど動機がない。光仁天皇は即位した時点ですでに62歳である。息子の他戸はすでに後継者として公式に立太子されている。なんでいま天皇を呪詛する必要があるか。 まして、光仁天皇の姉なんてまったく利害関係のない、しかも政治的にも無力な老女のひっそりした死である。たまたま、そのとき亡くなられたのを呪詛にみたてたことは明白です。

この筋書きを書いたのは、藤原百川だということになっています。百川は、光仁天皇の皇子のひとりである山部親王(のちの桓武。以下桓武と呼ぶ)とすでに通じていたのでありますね。

のちの桓武の時代のはなしですが、百川のせがれである緒嗣(おつぐ)が29歳の若さで参議に抜擢されたとき、桓武は「緒嗣の父なかりせば、あに帝位を践むを得んや」とのたもうたそうであります。語るにおちるとはこのことか。

平安末期から鎌倉初期に成立した歴史物語「水鏡」には、光仁天皇と皇后である井上内親王が将棋で賭けをして、天皇が冗談で、わしが勝ったら別嬪さんを、あんたが勝ったらいい男を賞品にもらうことにしようとおっしゃったところ皇后が勝って、約束どおり若い男を所望した。いや、だってありゃ冗談だよ、って天皇がおっしゃってもお聞きにならないので、こまっていたところ、百川がそのとき36歳ばかりの男盛りの桓武を井上に差し向けるように言ったとあるそうですね。

光仁天皇はなにせ60代のじいちゃんだし、井上内親王は、堂々と若いのがほしいわね、と主張するようなおばはん(いや失礼)ですから、そういうお二人の微妙な関係につけこんで百川という男は謀略をめぐらしたのではないか、と疑われているらしい。

前回の最後のほうで書いた井上内親王が45歳ばかりで他戸親王を生んだのは遅すぎるという説(角田文衛)とからめて、岩佐美代子さんは『内親王ものがたり』(岩波書店)のなかで、こんな風に書いておられる。

四十五歳での出産は遅すぎる、というのがこの論の根拠ですが、あながちそうとも言えないと思います。おそらく井上内親王はこんな高齢出産にも堪える、健康でエネルギーに満ちた女性だったのでしょう。その、いつまでも若々しい皇后に対する老天皇の引け目が、あの賭け事の折の軽口の約束となり、勝気な皇后の要求に困った天皇の弱みにつけ込んで、百川の謀略になったと思われます。皇后は聖武天皇の皇女であるのに、天皇は天智天皇の皇孫、つまり血統的には一ランク下である、という事も、二人の力関係に微妙な影響を与えていあたかもしれません。老齢で単純な天皇、キャリアがあり意志の強い皇后、まだ少年の東宮。この三者を陥れようとするなら、標的はおのずから皇后に定められましょう。

恨みをのんで死んだ井上内親王はもちろん怨霊となり、平城京に祟りをなしました。言い伝えでは龍に姿を変えられたとありますから、お怒りのほどと、同時にその冤罪であることが当時の人々にははっきりと見えていたのであろう。百川もこの怨霊にとり殺されたことになっておりますね。桓武の長岡京遷都、平安京遷都も、この井上内親王の祟りを恐れてのことであったという側面もあるようです。皇后廃位後28年目の800年、井上内親王は名誉回復、皇后位に復しました。吉野皇太后と尊称された。

さて、長々と書いてきたが、天智と天武の血の争いはここに幕を閉じる。天武系は井上内親王で絶え、天智系の桓武がこれ以降血統を伝えることになるわけです。

なお、桓武のお父さんは系図にあるように光仁天皇ですが、お母さんは高野新笠といいます。『古代史おさらい帖』森浩一(筑摩書房)に、

高野新笠の父は渡来系の和乙継(やまとのおとつぐ)で母は土師眞妹である。つまり渡来人と日本人との結婚で誕生したのが桓武である。

と書かれておりますね。

天智系とか天武系とかいいますが、もしこのお二人が舒明と皇極という父母を同じにする兄弟であったとすれば、まあ、そんなのどっちでも同じでは、という気がしないでもない。ここまで因縁がもつれたのは、まあ、王権というものはそういうものだということかもしれませんが、わたしのような素人からみても、もしかしてやはりこのお二人は血統の異なる王朝を代表されていたのではないかしらねえ、なんて思えるのではありました。

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コメント

この話も中々面白いですね。
言うまでもなく百川らの陰謀でしょうけど、井上内親王側が天武系の主流意識に甘んじて無用心だったのに対し、非主流の山部親王側がしたたかだったのでしょう。こういう主流、非主流の逆転劇は政治はもちろん、企業内部の派閥争いでもしばしば見られます。
『レッドオクトーバーを追え』の最後の場面で、ショーン・コネリーのロシアの潜水艦長が「ときどき小さな革命があるのはヘルシーなことだ」と言っています。井上内親王事件は「小さな」というには少々残酷かもしれないが、我が王朝も小さな革命を繰り返すことでヘルシーに生き延びてきたのでしょう。

投稿: 我善坊 | 2008/07/17 13:50

たしかに、たしかに。(笑)


ところで、ご存知のことかも知れませんが、この『レッドオクトーバーを追え』のラミウス艦長の台詞についてはちといわくがあります。
スクリプトは、

Jack Ryan: When the dust settles from this,there's going to be hell to pay in Moscow.

Captain Ramius: Well, perhaps. Maybe something good will come from it. A little revolution,now and then,is a healthy thing,don't you think?

という風になっています。映画の字幕に脚注はたぶんついていなかったと思うのですが(笑)、おそらくアメリカ人の観客の一部はここでクスリと笑ったはず。
このロシア人の大佐の意見は、たぶんネタがあり、微妙に言い回しや、ワーディングは違いますが、独立戦争の歴史に興味のある人にはそれがなんであるかはすぐにわかる、という設定だろうと思います。

1787年、トマス・ジェファーソンが当時いたパリからジェームス・マディソンに出した手紙というのがあります。
Shays' Rebellion — a sometimes-violent uprising of farmers angry over conditions in Massachusetts in 1786 — prompted Thomas Jefferson to express the view that "a little rebellion now and then is a good thing" for America. Unlike other leaders of The Republic, Jefferson felt that the people had a right to express their grievances against the government, even if those grievances might take the form of violent action.

くわしくはこちら↓

http://www.earlyamerica.com/review/summer/letter.html


なお、この作品、トム・クランシーの原作は翻訳で読みましたが、こういうくだりが原作にあったものかどうかは、いつものことながら手許に本がないのでわかりません。めんどくさいから、しらべるほどのことでもないし。(笑)

投稿: かわうそ亭 | 2008/07/17 18:11

つまらぬ”知ったかぶり”に、思わず面白い話をお聞かせいただき有難うございました。
この手の小説は映画化が決ると読むほうは棚上げにしてしまうのですが、「レッドオクトーバー」だけは慥か翻訳で読みました。でも小説のほうにこの件りがあったかどうかは、私も憶えていません。
ラミウス艦長はS.コネリーが演じるだけあってなかなかの知識人で、この場面の少し前にもコロンブスの言葉を引いて煙に巻くシーンがありました(台詞そのものは忘れましたが)。ちょっと臭い(が、楽しい)台詞はS.コネリーの得意とする処で、ジェームス・ボンドではそれが充分には活かされませんでしたね。やはりこの役者はアフター・ボンドに限る。

投稿: 我善坊 | 2008/07/17 23:14

この井上内親王の娘を主人公にして、山中智恵子が書いたポルノがあるのですよ。娘は桓武に嫁いだ酒人内親王。
彼女は井上内親王が廃后になった時に、別れも告げずに斎宮になりに伊勢に行き、そこで斎宮として過ごすのですが、そこで彼女に仕えた少年を連れ帰ります。その少年を寵童にした桓武との3人での情交を書いてます。かなりハードコアです。山中智恵子もすごいなあと感心しました。それはそれとして、この頃の讒言だとか、幽閉だとか、毒殺だとかいろいろ暗い部分にはぞっとしますね。

投稿: rei | 2008/07/25 02:18

へえ、それは知りませんでした。
晩年の山中さんは財産を盗まれるというご不幸もあり、また発表される内容も困惑を誘うようなものがあったように聞いたことがありますが、あるいはそういうもののひとつなんでしょうか。うーむ・・・

投稿: かわうそ亭 | 2008/07/25 22:48

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