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2008年8月

2008/08/28

読んだ本を忘れる

メモ代わりに「ブクログ」というサービスをつかっている。(サイドバーの「本棚」でこのブログとリンクしています)

一冊本を読み終わると、こにISBNの番号を入れてやる。すると自動的に読書録ができあがるという仕組みである。評価や自分の覚えも書ける仕様だが、そういうのはめんどくさいので使っていない。わたし、このサービスを2004年の10月28日から使っています。それ以降の3年と10ヶ月くらいの読書録になっているわけですね。
このシステムでは、重複登録はできないことになっていて、かりに以前読んだ本を入れようとすると「登録済みです」というメッセージがかえってきます。

――と、いうところまでがマクラですが、じつは最近、わたしにとっては憮然とするようなことが立て続けに起った。

まずは図書館で借りた『丸谷才一批評集・第一巻 日本文学史の試み』(文藝春秋)。わたしはたしかにこれに収録されている「日本文学史早わかり」はなにかで読んだと知っていた。しかし、この著作集で読んだのではなかったと思い、他の文章も読みたかったので数日がかりで読み終えて、いつもどおりブクログにISBNを打ち込んだら「登録済みです」と出てきた。
驚いた。2006年3月にたしかに読んでいた。その年の「3月に読んだ本」にも載せている。ついでながら自分のルールとして、このブログの「読んだ本」には、はじめから終わりまできちんと読んだ本だけ載せています。一部でも飛ばし読みした本はここには入れないことにしているのでありますね。だから、たしかにわたしはきちんと読んでいたはずです。しかし、そのことを忘れて、また同じ本を最初から最後まで読んで、しかもそれにまったく気づかずにいたことになります。しかし、まあ、先に書いたように「日本文学史早わかり」は再読だと知りながら読んだわけだから、それほどショックはなかった。

ところがつづいて同じようなことが起った。今度は数ヶ月前に古本屋で求めた安東次男の『芭蕉』(中公文庫)であります。なにしろこれは絶対に初見だと思って読み始め、そして、ずいぶんムツカシイ内容だったがやっとこさ読み終えた本だったから、ショックは大きかった。

え、これ読んでんのかよ、オレ。
で、たぶんすごく苦労して読んだ(だって、今回もすごく苦労したんだから)はずなのに、読んだという記憶さえ残らないまでに完璧に内容を忘れているのかよ、オレ。
それも10年も前に読んだ本だというのならわからんでもないが、ほんのニ年ばかり前に読んだ本の中味まですっかり忘れてしまうようでは、なんのために本を読んでいるのか——、わたしがしばし憮然としたのも無理はないでしょう。

いや、なにもいよいよボケがはじまった、とまでは思わないのですが、読書のありかたをずいぶん反省するきっかけになりました。

おまえは本を読んでいるとは言えないのかも知れんよ、と。

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2008/08/25

英単語の暗記法

英単語の暗記法で、最近、これはけっこういけるかもしれないと思った発見がある。
ただし、こういうのは、たまたま自分にだけ当てはまることで普遍的なことではないかもしれないし、あるいはみんなに有効だとしても、それはすでによく知られた方法で、なにをいまさら発見などと大仰な、なんてことにすぎないのかもしれない。
だからまあ、ぼそぼそと小声で言っているのだと思って読んでいただければ結構です。

2795831853_e7d333cac0 きっかけは脳のはたらきについての本だった。(小声にしては出るところが大きい(笑))
こまかいところは端折って要点を言うと、はじめからバイリンガルとして育った人は、日本語と英語とでは、脳の違う部位を使っているのに対して、日本語を第一言語、英語を第二言語としているようなタイプの人の場合は英語を読んだりしゃべったりする場合も、日本語のときと同じ部位をつかっているのだそうです。
わたしも中学生のときにはじめて英語を習って、だんだんと憶えてきたくちだから、これはなんとなく納得できる。本人の意識としては、英語をまるごと英語として理解しているつもりでも、脳の中では英語を日本語と同じかたちで情報処理しているのだと思われます。

ところで、みなさんは受験生の時代をふりかえってですね、英単語をどのように暗記してこられただろうか。
英単語とそれに対応する日本語を機械的に暗記するのではなく、短文をまるごと憶えてしまうのがいいよ、とは多くの参考書にも書かれていましたよね。じっさい、そうやって憶えたものもある。ビートルズの歌詞なんかで憶えた英単語がそうであります。
だけど、いくらなんでも何十万という単語を覚えるために、何十万という短文を暗記してしまえ、とは無茶だとわかる。
結局、知らない単語は、ギリシア語などの語源的なかたちを経験的に憶えて、それで類推しながら少しずつ増やしていくことになりますが、こういう使用頻度があまり高くなかったり、あるいはちょっと敷居の高いエッセイや論文みたいな文章にだけ出てくる単語は、なかなか頭に残らないものであります。
そういうときにどうやっていますか、ということであります。

じつは、わたしはこれまで、手で書いて憶えようとしていました。
メモ用紙にボールペンなんかで何度も同じ単語を書きなぐるのですね。
ところが、これって、冷静にふりかえってみると労力の割には(指にペンだこはできるし、手はくたびれるし)あんまり効率がよくない。そのときは頭に入ったつもりになっているのですが、数日後にはすっかり忘れてもとの木阿弥。

で、ふと思った。
こういう「手で覚える」式の発想というのは、これは漢字を憶えるときのやり方を踏襲しているのではないかしら。
漢字というのは、画数が多くて見た目はややこうしそうなものでも、実際に何度か紙に書いてみると、わりと簡単に憶えてしまうものですよね。その字を電話なんかで相手に説明するのはむつかしいが、ペンをもらうとあたかも手が憶えているかのようにすらすらと書けたりする。

つまりわたしが、これまでやっていたのは、漢字という日本語の文字を憶えるときに使用しているであろうところの脳の部位を、英語という外国語の単語を憶えるときに無理やり使おうとしていたのではないか。とくに漢字はもともとは図形パターンですから、これを記憶のなかに焼き付けようとするときに使う脳の部位は、たぶんそういう情報処理に向いたところだと考えるのが正しいような気がします。
しかし、英単語と言うのは、外国語であると同時に表意文字で、単語そのものの図形パターンを憶えるようなものではない。

では、英語を母語とする人はどうやって英単語を暗記するのであろうかという設問は、つまるところスペリングの暗記ということになります。だって、よほどむつかしい言葉でなければ意味やその言葉のニュアンスは母語だから覚える必要がないんだもの。
アメリカの子供たちがスペリングの確かさを競うスペリング・ピー(SPELLING BEE)というコンテストがありますよね。あれ、もちろんわたしは実際に見たことはないのですが、たしか子供たちは頭の中でアルファベットを並べて、マイクに向かって発表していたような気がします。
たとえば「subsequently」なんて言葉が出てきたら、かれらは「エス、ユー、ビー、エス、イー・・・・」なんてかたちでこれを思い出そうとする。

つまり、わたしが言いたいのは、もしかして英単語と言うのはそういうふうに暗記するときに使用される脳の部位を活用するのが、日本人にとっても効率がいいのではなかろうか、というものでした。
わたしたちは、英単語を憶えるときには、スペリングを正しく覚えるということより、その単語がもつ意味を憶えることを重視していると思いますが、むしろスペリングを、アメリカ人の子供が暗記大会のために覚えるようなかたちで憶える真似をしたらどうだろうか、というわけ。
知らない単語が出てきたとしますね。たとえばそれが「juxtaposition」(並列)とか「equilibrium」(均衡)とかであったとする。(これ今日のわたしの実際の話)
このときに、メモにこれを何度も書きなぐったりはしないで、ばかみたいだけど、律儀に「ジェー、ユー、エックス、ティー・・・」とか「イー、キュー、ユー、アイ・・・」というかたちで頭に焼き付けようと努めるのですね。すると、不思議なことに、その単語の意味や概念もなんでかわからないけど一緒に憶えてしまっているのであります。

――というのが、まあわたしの最近の発見なんですが、これって錯覚か思い込みなんでしょうか。
しかし、べつに英単語を必死で憶えにゃならんような年齢をはるかに過ぎたいまになって、これがうまいやり方だったと知ってもねえ。うーん・・・(笑)

註)ファンクショナルMRI(fMRI)による脳の画像資料の出所は JT生命誌研究館の下記の解説から。くわしい内容はそこをお読み下さい。わたしの読んだ本とはちょっと切り口が違っていますが、意味は基本的に同じ。
(こちら)

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2008/08/16

ランダムウォーク閉店

R_walk うかつな話だが、先日からランダムウォークのRSSがリンク切れになっていたのでなんか変だなあと思っていた。
今日になって、「あっ!もしかして」とようやく気づいた。調べてみたら、やっぱりつぶれていたのだな。

今月のはじめに京都に行く用事があったので、久しぶりに洋書漁りでもしようと思っていたのだが、そのときはたまたま少し時間が遅くなったので寄らずに帰った。あのとき店まで行っていたら、シャッターの貼り紙を見ることになったわけだ。

ネットであちこちのぞいてみると、ランダムウォークの閉店の背後には、洋販の経営破綻があり、芋づる式に、インターカルチュラル・グループ、洋販ブックサービス、青山ブックセンター(ABC)、ブックオフなどというキーワードがあつまる。よく読むに、どうも穏やかではないね。
いくつか記事をリンクしておくので興味ある方はどうぞ。

三月記(仮題): 「ランダムウォーク京都寺町店」の遺跡?

洋販の倒産 - 本屋のほんね

洋販、青山ブックセンターが破綻。ブックオフが支援。 - 波打ち際の考察


青山ブックセンター再び - yaso editor's talk

なるほど洋書の業界はそんなことになっていたのかとぼんやり考えた。ただの客の立場で考えると、ネット書店はたしかに便利だが、街にいい本屋がなくなるのは寂しい。この寺町のランダムウォークは3階建てで、一番上の階にバーゲンセールのコーナー(写真)があった。京都で時間があるときは、ここに行くのが楽しみであったのに。残念。

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2008/08/13

不快でも規制すべからず

今回のエントリーは、(いつのもことながら)話の筋が見えにくいと思うので、先に結論を書いておきます。
ストリートビューは規制すべからず。

日本でのサービスがはじまったグーグルのストリートビューについては問題視する声も多い。
しかし、ざっと見た感じではこれをあきらかな違法行為として告発するようなトーンはあまりないように思う。
「車道から見える景色を撮りましたが、それがなにか?」と言われれば、それは文句をつける筋合いのものではないわなと、みんな引き下がっているようでありますね。

しかし、ポイントはたぶんふたつあって、ひとつは「量は質に転化する」ということ。車道から見えるものを個人が数枚写真に撮ることは違法ではないということと、ストリートビューが実現しちゃったことはあきらかに質の違う事象であるということはおさえておく必要があるだろう。

もうひとつは、この技術とサービスを規制するということはいいのだが、その場合、特定の選ばれた少数だけがある技術を独占し、一般の人間は使えないようにすることが、結局みんなのためだというロジックをどのレベルまで認めるべきかということだと、わたしは思う。

ストリートビュー規制論で説得力があるのは次のような意見だ。

なるほど、いまだってもし相手の住所地番を知っていれば、現地に行ってどんな感じの町に住んでいるのか、あるいはその人の家を外から見ることはできるだろう。しかし、ふつうそんなことはしないのは、品位や礼儀もあるだろうが、そこまでするのがめんどくさいからである。なにもそこまでしなくても、と普通は思う。ところがこのストリートビューはなにしろグーグルマップで住所を入力すればその人の家の周辺や(運がよければ、あるいは悪ければというべきか)その人の家そのものが居ながらにして画面に現れるので、敷居が極度に低くなるのね。そうやって、このサービスさえなければ知られることのなかった自分の住環境が人に知られてしまうじゃん。違法じゃないかもしれんが、わたしは不快だ、気持ち悪い——

しかし、これは、こういう技術が可能であることをすでにわたしたちは「見て」しまったわけだから、要するに、一般の人がこれを利用するのは嫌だと言ってるだけの意味しかない。逆に言えば、特定の人ならいいですと認めていることになる。だって、ここまで情報の非対称性が極端だと、仮にグーグルが、わかりました、あのテクノロジーはもうすべて破棄しましたと言ったって、あるいはグーグルが実際に破棄したったって、別のカネとコネに不自由しない組織がやるにきまっている、とわたしたちにはわかっているから。
とすると、おそらく問題はその特定の人をあなたは信用しますか、という問題になるはずだ。

あるいは規制すべきだという人は、おそらく二種類あって、この技術自体はいいのだが、せめてそれはクルマがびゅんびゅん走っている大きな通りだけにして、路地みたいなところはやめてよという人と、いやなにしろ一般の人が利用できるサービスとして公開されていることが「気持ち悪い」わけだから、全部やめてくれという人に分かれるだろう。(たぶん大半は前者だとわたしは思う)
しかしここでも問題は同じで、なるほど、みんなが嫌だっていうから二車線の道路以外は全部見れないようにしました、とグーグルがアナウンスしたら、みんな、ああよかったよかったとなるんだろうか。
結局、ふつうの人が見れないところも、ほんとうは見れるんだよね、ということはみんなわかっているので、特定の人が使うことはかまわないか、あるいは、もうだれも使っていませんよと言ってくれさえすればとりあえずそれでいいということになるのではないかなあ。ここでの特定の人たちというのはまあ端的に言えば、政府ということになるね。

しかし、わたしはそれがいいことだとは思わない。
わたしの考えを言えば、これは万人に公開を続けるべき技術だと思う。好き嫌いではない。これを規制すること、政府だけがすべてを見ることができ、一般国民はだめだけんね、というやり方は、政府にとって「ごっつぁんです」というだけのことに過ぎない。しかし、政府は合法的に特定の集団に(宗教であれ思想であれ)コントロールされうるものである。そんなに信用してやるようなものではない。国民にとって政府とは、できるだけ性悪説で疑って、最後の最後に信頼するしかない、そういうものである。

特定少数の人間だけがあるテクノロジーを独占するというのは、軍事技術(核、毒ガス、細菌など)やある種の生命科学については、これを認めるにわたしはやぶさかではない。しかし、このストリートビューはそういうテクノロジーとは位相が違う。支配の便利な道具にはなるが、万人がアクセスすることで人類の絶滅につながるようなものではない。
ゆえに、規制にはわたしは反対。

さてこの技術の次に向かうのはどこだろうか。以下はあまり冗談のつもりで書いているわけではない。
グーグルがトヨタにこんな話をしているかも。
ねえ、すべてのクルマに360度のカメラアイを付けて、GPSと連動させて走らせましょうよ。ストリートビューはリアルタイムになって、クルマはストリートビュー情報のフィードバックを受けて安全な自動走行ができるんじゃない。これからはクルマを街全体のセンサーにするんだよ——。

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2008/08/11

The Dark Knight

Screencapture_2

いやあ、すごい映画だった。
「ダークナイト」は、クリストファー・ノーラン監督の新しいバットマン映画なんですが、単なる娯楽映画のつもりで小学生くらいのお子さんと観に行くのは考えものであります。

この映画、主役はバットマンではありません。いや、もちろんストーリー上はクリスチャン・ベール(バット・マン)が主役ですよ。でも実質的に、この映の主役は、ヒース・レジャー(ジョーカー)であると断言して間違いがないでしょう。

わたしの見るところ、この映画、構造が三重底になっています。
一番底は、とりあえず、かろうじてではあるけれども、善が悪に勝ったような体裁をとっている表向きの結末ですが、もちろんこれは、小学生だってそんなのウソじゃん、とわかるような体のもの。
したがって、二番底は、善は悪に勝てない。なぜなら善というのはつねにニセモノだが、悪にはホンモノがありうるから、というなんとも強烈なメッセージ。壊し、燃やし、殺す。なにかの目的のためにそうするのではない。壊し尽くすこと、燃やし尽くすこと、殺し尽くすこと、それ自体が目的でありそれ以外の目的をもたないという人間の疎外された心の行き着く場所があるという直感に対して、そうさそれが真実なんだよという囁き。それが二番底になっています。
三番底は、たしかにそれが真実であっても、善は善を行うもののなかに、悪は悪を行うもののなかに在る、という、これもまたひとつの人間の知恵である。「徒然草」に「狂人の真似とて大路を走らば、則ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人也。驥を学ぶは驥のたぐひなり。舜を学ぶは舜の輩也。偽ても賢を学ばむを賢といふべし」(八五段)とあることが思い浮かぶ。

しかし、この映画の問題点は、三番底に行く前に二番底の結論の圧倒的な説得力に観客であるわたしたちがこころを揺すぶられるところにある。そして言うまでもなく、それは28歳でこの世を去ったヒース・レジャーの、ほとんど呆然としてしまうほどの演技力がもたらしているものであります。
ということで、どうしても、この映画でわたしたちが受ける印象は、善は悪に勝てない、それが現世の真実なんだ、それをいまわたしたちは日々の不条理な犯罪でいやというほど教えられているのだ、というものになってしまう。
ジョーカーの台詞から——

See, I'm not a monster...I'm just ahead of the curve.

ハリウッドがこんな映画をつくっちゃっていいのかね、とわたしは思う反面、時代はもう娯楽作品にもここまで表現を許すところに行き着いたのかという驚きもあります。わたしはこの映画、傑作と言うになんらためらいはありません。

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2008/08/10

恋の隠し方

2008_0810 今度出た日文研の光田和伸さんの『恋の隠し方 — 兼好と「徒然草」』(青草書房)はすごくいいですよ、とある方に教えていただいたので、BK1のポイント(去年のハリポタ7書評分の3千円)で購入した。たまたま今日の朝日新聞の書評にも出ておりましたね。
たしかにこれはたいへん面白い。

「徒然草」は高校生のときに受験用の小さな版形の本(文庫本よりさらに小さかったように思う)で読んだだけである。あれはどこのなんというシリーズだったんだろう。古文の副教材みたいな本だった。それもたぶん姉のお下がり。(笑)
もとより、立派な本ではないが、「徒然草」と「枕草子」と「方丈記」はこれで拾い読みをした。「徒然草」はけっこう面白くて、全部は読んでいないと思うが、あらかた読んだような記憶がある。
今回、光田さんが引いているところも、ああそういえば、ここ読んだなあ、と思い出したりしたが、たかだか十七歳の頃のわたしがどんな感想を抱いたかは思い出せない。

「恋の隠し方」という題名は、吉田兼好が「徒然草」のなかに自分の愛—結ばれることのなかった女人との恋の始まりから、その人の死を目前にした別れまでを短編小説のように、こっそりと忍ばせていますよ。ほら、この段とこの段をこんな風につないで、そこにこんな当時の男女関係の常識をいれてもういちど見直してごらんなさい、ほらね。なんて感じの内容で、なるほどそういう手があったかと新鮮な驚きに打たれますな。

以前、このブログで上田三四二の『徒然草を読む』(講談社学術文庫)を取り上げて、
「もし一瞬一瞬を死の側から照らして、それを愛惜し、時間そのものを無限に微分していくならば、人は一瞬という時間の中にどれほどの時間でも折り畳んでいくことができる、というのが上田が徒然草から引き出した、時間論なのである。」という記事をかいたけれど、それは、いまはこの世にいない、かつて心から愛した人を愛惜するという記憶の方法論に通じるものかもしれませんね。

本書には、この秘められた兼好の悲恋をみごとに再構成してみせる論考以外にも、食べ物の話、東西論、狂気について、など現代のわたしたちの社会にも通じる鮮やかな切り口があって、わたしはとても感心した。
なんでも本書は、この出版社の「古典ミステリー」という企画の第1弾だそうで、第2弾は『あなたは「ほんとうの芭蕉」を知っていますか?』、この秋発売だとか。「学者が書く、初めての芭蕉〝隠密〟説」と巻末の広告にありました。はは、こっちも楽しみでありますね。

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2008/08/07

富士日記

武田百合子の『富士日記』(上中下/中央公論社)を通読する。
昭和39年の7月から昭和51年の9月まで。
傑作の誉れ高く、また多くの人に愛された作品だから、若いときからそのうちに読もうと思っていたのだが、こういうのはどうも縁のものであるらしく、ついにいままで手に取ることがなかった。
日記の最後は昭和51年9月21日、武田泰淳を病院に送る前日、赤坂のアパートである。一番最後の文章を書き写す。

私と花子、起きて明朝を待つ。向かいの丘の新築のマンションに、いつまで経っても灯りが煌々とついている部屋が二つあって、部屋の中の椅子や道具まではっきり見えている。人が立ったり歩いたりするのも見える。眠くなりそうになると、その部屋をみつめて夜が明けるのを待った。夜中ずっと雨が降って、風もつよくなった。朝になると風はやんで、小ぶりの雨だけになった。

村松友視の『百合子さんは何色—武田百合子への旅』には、この翌日の病院搬送の様子がくわしく書かれているが(たしかこのとき村松氏は「海」の編集者で、武田百合子が中央公論社に応援を頼んだときに遣わされた一人だった)このまま泰淳は帰らぬ人となった。

この『富士日記』の初出は、昭和51年の7月23日から9月21日の日記。「海」の12月号に「富士日記—今年の夏」の題で掲載され、その反響の大きさから、武田夫妻が富士の山荘を建てた昭和39年から遡って連載された。

最初から、ゆっくりゆっくり読んで行くと、はじめは一日三度の献立メモや買い物メモ(トマト六個二百円、豆腐二丁百八十円、豚肉百グラム百十円・・・)が、単調に思えるのだが、これが不思議な通奏低音のように感じられ、くせになる。そういう一見単調な日常の雑事にからめて、地元の人たちとの交流や家まわりの手入れ、交通事故、愛犬の死などがところどころにあらわれる。やがて大岡昇平一家が近所にやってきて、しばらくはこの武田と大岡の交遊なんてところで、あはは、と笑って楽しくてならないのだが、やがて武田が糖尿から脳血栓を患う下巻の後半から、読書はかなしみに覆われる。

昭和50年7月15日から日記は翌年の7月23日まで飛んでいる。
この間の頁に武田百合子が「附記」という文章を書いている。その一部。

日記をつけなかった山の暮しの日々には、どんなことがあったろう。いつの年とも同じように、雪が消え、ものの芽が吹き、桜が咲き、若葉となる。待ちかねたように山へ来る。(中略)
七月に入ると嬉しそうに言った。「さあ、今年もうるさい大岡がやってくるぞ」「大岡のやつ。もう来てるかな。一寸行ってみてきてくれ」。大岡さんがしばらくみえないと「どうぞ遊びにきて下さいと言ってこい」などと——やっぱり、こんな風に暮らしていたのだ。(中略)
言いつのって、武田を震え上がるほど怒らせたり、暗い気分にさせたことがある。いいようのない眼付きに、私がおし黙ってしまったことがある。年々体のよわってゆく人のそばで、沢山食べ、沢山しゃべり、大きな声で笑い、庭を駈け上がり駈け下り、気分の照り降りをそのままに暮らしていた私は、何て粗野で鈍感な女だったろう。

わたしは、昭和50年の夏あたりから、涙はこらえても、心のなかではエンエン大声を出して泣きながら読んだよ。
しかし、武田百合子は、「何て粗野で鈍感な女だったろう」なんて言うけど、もちろんそれは間違っている。
いつかわたしが死を間近にして「いいようのない眼付き」をするようになったとき、そばにいてもらいたいのは、やはりそういう人だと思うんだなあ。

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2008/08/06

好きな本

いつも本は図書館で借りて読む主義だが、さすがに洋書の場合は図書館の本でというわけにもいかないので買って読むことになる。

そうして読んだ洋書の中で、とくに愛着のあるのは1996年に出た、マーガレット・アトウッドの『ALIAS GRACE』(Doubleday)である。
最近、『またの名をグレイス』という邦題で岩波書店から上下二巻で出版された。朝日新聞の書評は阿刀田高が担当していたが、うーん、あんまりうまくないね、この人。おっ、これ読みたい、という気持ちにならんもの。

Atwood_o_2 もっとも、読後、これはすごい傑作だと思った記憶だけはあるが、作品の細部まではわたしも憶えていないので、感想めいたことを書くつもりはない。
書こうと思ったのは、なんでこの本に愛着があるかということで、傑作であったという理由の他に、この本の装釘がたいへん美しいからである。
写真の上がラッパーをかけた状態、下がラッパーを外した状態。ラッパーで鉄格子に入った女の顔は、ラッパーを外すと豊かな深みのある肖像画になってあらわれます。アトウッドの作品の手法を装釘として見事に表現していると思う。

洋書のハードカバーでは、小口をわざと裁断せず、ぎざぎざになっている状態のものがあるが(あれ好きなんだよね)この本もそのタイプ。頁の紙質もはんなりと柔らかめでこういう本で読書ができるのはほんとうに幸せな時間なんでありますね。
本は要は中身だろ、中身の文章を読むんだから、装釘やら紙質なんて意味ないじゃん、という意見にも一理あるが、経験は、読書とはそういうもんではないことをわたしたちに教えていますな。

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2008/08/02

カズオ・イシグロの恐怖小説

Unconsoled2

『The Unconsoled』Kazuo Ishiguro(Faber and Faber)を読み終える。
小さな文字がびっしりつまったペーパーバックで535ページだから、けっこう時間がかかった。読み始めたのはいつだったかなあ、鞄に入れて主に帰りの通勤電車の読み物として一日に数ページづつ読んでいったのだが、おそらくここ3ヶ月くらいは、これにつきあったような気がする。
そういう意味では、なんとなく愛着の持てる作品なんだけど、もし、これをひとにオススメするかといえば、答えは全然「ノー」でありますね。

もし、あなたが、すでにカズオ・イシグロのいくつかの作品に親しんでいなければ、おそらくこれは不幸な読書体験になる。わたし自身も、本書を読んでいる間は、幸せな気分とはほど遠かった。フラストレーションがたまる一方で、カタルシスはまったく得られない。
では、なんでそんなものを読んでいたのか、と聞かれるとわたし自身もよくわからない。
たぶん、本書を読もうと読むまいとわたしが不幸であることはあまり変わらないからでありましょう。
ただ不思議なのは、不快なのに読むのをやめることはできないのね。

本書の語り手である「わたし」はミスター・ライダーという世界的に有名なピアニスト。中欧の小さな都市にやってきてコンサートをひらく予定になっているらしい。マエストロにしては「わたし」はひどく謙虚で、ホテルの老いたポーターのような人物の長々とした話も嫌がらずに傾聴する。

おお、なんという親切で思いやりに満ちた天才。(だが、このディーセントな物腰、かえっていやらしくないか、と読者は思わないでもない)

聞けば老人には、小さな感情の行き違いから、たがいに口をきかなくなってしまった娘があるという。
住まいのことでいまとても悩んでいるようなんです。もしあなたが声をかけてくれたらどんなに気持ちが晴れるでしょう。なに、ほんの一言、二言、こんにちわ、いいお天気ですね、お嬢さん、なんてことだけでいいんです。わたしたちのような普通の人間にとって、あなたのような偉大な芸術家と言葉を交わす機会があるというのは、たいへんな名誉なんですよ。それがどれほどわたしたちにとってすごいことか、たぶんあなたには想像もできないでしょう。
なにそんなことなら何でもありません。ちょうど散歩がてらにカフェにでも行くつもりでしたから、おっしゃるように、もしお嬢さんがいらしたら、ご挨拶させていただきましょう。

ところが、カフェにいる女はお嬢さんというような感じではない。小さな坊やを連れている。話しかけたら、なんだか話がおかしなほうにむかっていく。ああ、そういえば、この女はもしかしたら「わたし」の妻で、男の子は「わたし」の息子だったかもしれないなあ。そういえば、むかし三人家族で暮らしていたような記憶が戻ってきたぞ。(えぇ?)でも「わたし」はなにしろ超有名なピアニストで世界中を飛び回るようになったから、ずいぶん二人はさびしい思いをしていたんだなあ・・・・・

なんて感じのオハナシで、以前感想を書いた『わたしたちが孤児だったころ』と同様の、「正気を疑わざるを得ない主人公=語り手」ものの系列であります。読んでいくうちに、ああこれは夢だ、それも、ものごとが自分のコントロールを離れてヌルヌルと気持ち悪く展開していくいやな夢だ、と思う。夢なら、たぶんいやな汗をたくさんかいているだろう。

それにしても、読めば読むほど不思議な小説である。
次から次に、ほんの些細な好意を求める人が現れて、主人公/語り手は、親切心から手を貸してやろうとするのだけれど、その「仕事」をやり終えないうちに、次の「仕事」がふりかかる。
ちょうどそれは、大きな虫眼鏡をのぞきながら、世界を見ている人の視界のようでもある。とりあえず、いま見ている部分はおそろしいほどにくっきりクリアに見えて、そこで全力で自分にかけられた期待にこたえようとするのだけれど、つぎの瞬間、違うところに虫眼鏡が移動すると、それまでのことは置き去りにして、また別のことに全力で取り組むことになる。仕事のできないサラリーマンの典型みたいな話だが、こういう必死でやっているのになにひとつ片づかなくて自分の仕事が錯綜し、もつれ、積み上がっていく恐怖というのは、あらゆる人間にとってもっとも恐ろしい状況という気もする。

だから本書には幽霊も殺人(やや近い出来事はあるが)も出てきませんけれども、一種の恐怖小説といえなくもない。
仕事がうまく行かないときに脂汗を浮かべる、そのエッセンスのようなものをわざわざ抽出して味わいたいという方はあまりいないでしょうから(しかもこれがじつにリアルに追体験出るしろものなので)やはりわたしはあんまりオススメしません。

でも、矛盾したことを言いますが、わたし的には、これけっこう買いです。嫌でたまらんのに、すんげぇ面白かった。(笑)
同好の方は、はたしてどれほどあるだろうか。

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2008/08/01

7月に読んだ本

『日本のいちばん長い夏』半藤一利(文春新書/2007)
『流転—前登志夫歌集』(砂子屋書房/2002)
『句集 牡丹』細見綾子(角川書店/1996)
『柳葉譜—安永蕗子歌集』(沖積舎/1982)
『会うまでの時間 自選歌集』俵万智(文藝春秋/2005)
『古道具中野商店』川上弘美(新潮文庫/2008)
『マイ・バック・ページ—ある60年代の物語』川本三郎(河出書房新社 /1988)
『内親王ものがたり』岩佐美代子(岩波書店/2003)
『本当の名前を捜しつづける彫刻の話』伊井直行(筑摩書房 /1991)
『アメリカ臨床医物語—ジャングル病院での18年』中田力(紀伊国屋/2003)
『おどるでく』室井光広(講談社/1994)
『最初の恋、最後の儀式』イアン・マキューアン/宮脇孝雄訳(早川書房/1999)
『ひとたばの手紙から—戦火を見つめた俳人たち』宇多喜代子(角川文庫/2006)
『句集 忘年』成田千空(花神社/2000)
『グリーン・ノウの子どもたち』ルーシー・M・ボストン/亀井俊介訳(評論社/1988)
『日本の行く道』橋本治(集英社新書/2007)
『お言葉ですが…〈10〉ちょっとヘンだぞ四字熟語』高島俊男(文藝春秋/2006)
『皇子たちの鎮魂歌—万葉集の“虚”と“実”』小松崎文夫(新人物往来社/2004)
『歌集 藍月』安永蕗子(砂子屋書房/1982)
『求めない』加島祥造(小学館/2007)
『怨霊の古代史—藤原氏の陰謀』堀本正巳(北冬舎 /1999)
『茂吉を読む—五十代五歌集』小池光 (五柳書院/2003)
『丸谷才一批評集・第一巻 日本文学史の試み』(文藝春秋/1996)〈再読〉
『セメント・ガーデン』イアン・マキューアン/宮脇孝雄訳(早川書房/2000)
『富士日記 (上)』武田百合子(中央公論社/1994)
『歌集 ニュー・エクリプス』加藤治郎(砂子屋書房/2003)

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7月に見た映画

ニライカナイからの手紙
監督:熊澤尚人
出演:蒼井優、平良進、南果歩、金井勇太

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