富士日記
武田百合子の『富士日記』(上中下/中央公論社)を通読する。
昭和39年の7月から昭和51年の9月まで。
傑作の誉れ高く、また多くの人に愛された作品だから、若いときからそのうちに読もうと思っていたのだが、こういうのはどうも縁のものであるらしく、ついにいままで手に取ることがなかった。
日記の最後は昭和51年9月21日、武田泰淳を病院に送る前日、赤坂のアパートである。一番最後の文章を書き写す。
私と花子、起きて明朝を待つ。向かいの丘の新築のマンションに、いつまで経っても灯りが煌々とついている部屋が二つあって、部屋の中の椅子や道具まではっきり見えている。人が立ったり歩いたりするのも見える。眠くなりそうになると、その部屋をみつめて夜が明けるのを待った。夜中ずっと雨が降って、風もつよくなった。朝になると風はやんで、小ぶりの雨だけになった。
村松友視の『百合子さんは何色—武田百合子への旅』には、この翌日の病院搬送の様子がくわしく書かれているが(たしかこのとき村松氏は「海」の編集者で、武田百合子が中央公論社に応援を頼んだときに遣わされた一人だった)このまま泰淳は帰らぬ人となった。
この『富士日記』の初出は、昭和51年の7月23日から9月21日の日記。「海」の12月号に「富士日記—今年の夏」の題で掲載され、その反響の大きさから、武田夫妻が富士の山荘を建てた昭和39年から遡って連載された。
最初から、ゆっくりゆっくり読んで行くと、はじめは一日三度の献立メモや買い物メモ(トマト六個二百円、豆腐二丁百八十円、豚肉百グラム百十円・・・)が、単調に思えるのだが、これが不思議な通奏低音のように感じられ、くせになる。そういう一見単調な日常の雑事にからめて、地元の人たちとの交流や家まわりの手入れ、交通事故、愛犬の死などがところどころにあらわれる。やがて大岡昇平一家が近所にやってきて、しばらくはこの武田と大岡の交遊なんてところで、あはは、と笑って楽しくてならないのだが、やがて武田が糖尿から脳血栓を患う下巻の後半から、読書はかなしみに覆われる。
昭和50年7月15日から日記は翌年の7月23日まで飛んでいる。
この間の頁に武田百合子が「附記」という文章を書いている。その一部。
日記をつけなかった山の暮しの日々には、どんなことがあったろう。いつの年とも同じように、雪が消え、ものの芽が吹き、桜が咲き、若葉となる。待ちかねたように山へ来る。(中略)
七月に入ると嬉しそうに言った。「さあ、今年もうるさい大岡がやってくるぞ」「大岡のやつ。もう来てるかな。一寸行ってみてきてくれ」。大岡さんがしばらくみえないと「どうぞ遊びにきて下さいと言ってこい」などと——やっぱり、こんな風に暮らしていたのだ。(中略)
言いつのって、武田を震え上がるほど怒らせたり、暗い気分にさせたことがある。いいようのない眼付きに、私がおし黙ってしまったことがある。年々体のよわってゆく人のそばで、沢山食べ、沢山しゃべり、大きな声で笑い、庭を駈け上がり駈け下り、気分の照り降りをそのままに暮らしていた私は、何て粗野で鈍感な女だったろう。
わたしは、昭和50年の夏あたりから、涙はこらえても、心のなかではエンエン大声を出して泣きながら読んだよ。
しかし、武田百合子は、「何て粗野で鈍感な女だったろう」なんて言うけど、もちろんそれは間違っている。
いつかわたしが死を間近にして「いいようのない眼付き」をするようになったとき、そばにいてもらいたいのは、やはりそういう人だと思うんだなあ。
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コメント
2008/Sept21/11:55pm
富士日記毎日読んでいます。淡々と書かれているがドラマティックなところがある。殿様武田泰淳に仕える、妻百合子。日本的な構造のなかに、女の覇権が感じられる。やはりこんなシッカリした女房を妻にした泰淳先生は洞察の深い人物である。
投稿: Kishimitsu Hada | 2008/09/22 12:04
御意。(笑)
投稿: かわうそ亭 | 2008/09/22 21:48