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2008/08/02

カズオ・イシグロの恐怖小説

Unconsoled2

『The Unconsoled』Kazuo Ishiguro(Faber and Faber)を読み終える。
小さな文字がびっしりつまったペーパーバックで535ページだから、けっこう時間がかかった。読み始めたのはいつだったかなあ、鞄に入れて主に帰りの通勤電車の読み物として一日に数ページづつ読んでいったのだが、おそらくここ3ヶ月くらいは、これにつきあったような気がする。
そういう意味では、なんとなく愛着の持てる作品なんだけど、もし、これをひとにオススメするかといえば、答えは全然「ノー」でありますね。

もし、あなたが、すでにカズオ・イシグロのいくつかの作品に親しんでいなければ、おそらくこれは不幸な読書体験になる。わたし自身も、本書を読んでいる間は、幸せな気分とはほど遠かった。フラストレーションがたまる一方で、カタルシスはまったく得られない。
では、なんでそんなものを読んでいたのか、と聞かれるとわたし自身もよくわからない。
たぶん、本書を読もうと読むまいとわたしが不幸であることはあまり変わらないからでありましょう。
ただ不思議なのは、不快なのに読むのをやめることはできないのね。

本書の語り手である「わたし」はミスター・ライダーという世界的に有名なピアニスト。中欧の小さな都市にやってきてコンサートをひらく予定になっているらしい。マエストロにしては「わたし」はひどく謙虚で、ホテルの老いたポーターのような人物の長々とした話も嫌がらずに傾聴する。

おお、なんという親切で思いやりに満ちた天才。(だが、このディーセントな物腰、かえっていやらしくないか、と読者は思わないでもない)

聞けば老人には、小さな感情の行き違いから、たがいに口をきかなくなってしまった娘があるという。
住まいのことでいまとても悩んでいるようなんです。もしあなたが声をかけてくれたらどんなに気持ちが晴れるでしょう。なに、ほんの一言、二言、こんにちわ、いいお天気ですね、お嬢さん、なんてことだけでいいんです。わたしたちのような普通の人間にとって、あなたのような偉大な芸術家と言葉を交わす機会があるというのは、たいへんな名誉なんですよ。それがどれほどわたしたちにとってすごいことか、たぶんあなたには想像もできないでしょう。
なにそんなことなら何でもありません。ちょうど散歩がてらにカフェにでも行くつもりでしたから、おっしゃるように、もしお嬢さんがいらしたら、ご挨拶させていただきましょう。

ところが、カフェにいる女はお嬢さんというような感じではない。小さな坊やを連れている。話しかけたら、なんだか話がおかしなほうにむかっていく。ああ、そういえば、この女はもしかしたら「わたし」の妻で、男の子は「わたし」の息子だったかもしれないなあ。そういえば、むかし三人家族で暮らしていたような記憶が戻ってきたぞ。(えぇ?)でも「わたし」はなにしろ超有名なピアニストで世界中を飛び回るようになったから、ずいぶん二人はさびしい思いをしていたんだなあ・・・・・

なんて感じのオハナシで、以前感想を書いた『わたしたちが孤児だったころ』と同様の、「正気を疑わざるを得ない主人公=語り手」ものの系列であります。読んでいくうちに、ああこれは夢だ、それも、ものごとが自分のコントロールを離れてヌルヌルと気持ち悪く展開していくいやな夢だ、と思う。夢なら、たぶんいやな汗をたくさんかいているだろう。

それにしても、読めば読むほど不思議な小説である。
次から次に、ほんの些細な好意を求める人が現れて、主人公/語り手は、親切心から手を貸してやろうとするのだけれど、その「仕事」をやり終えないうちに、次の「仕事」がふりかかる。
ちょうどそれは、大きな虫眼鏡をのぞきながら、世界を見ている人の視界のようでもある。とりあえず、いま見ている部分はおそろしいほどにくっきりクリアに見えて、そこで全力で自分にかけられた期待にこたえようとするのだけれど、つぎの瞬間、違うところに虫眼鏡が移動すると、それまでのことは置き去りにして、また別のことに全力で取り組むことになる。仕事のできないサラリーマンの典型みたいな話だが、こういう必死でやっているのになにひとつ片づかなくて自分の仕事が錯綜し、もつれ、積み上がっていく恐怖というのは、あらゆる人間にとってもっとも恐ろしい状況という気もする。

だから本書には幽霊も殺人(やや近い出来事はあるが)も出てきませんけれども、一種の恐怖小説といえなくもない。
仕事がうまく行かないときに脂汗を浮かべる、そのエッセンスのようなものをわざわざ抽出して味わいたいという方はあまりいないでしょうから(しかもこれがじつにリアルに追体験出るしろものなので)やはりわたしはあんまりオススメしません。

でも、矛盾したことを言いますが、わたし的には、これけっこう買いです。嫌でたまらんのに、すんげぇ面白かった。(笑)
同好の方は、はたしてどれほどあるだろうか。

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コメント

かわうそ亭さま
私の好きな作家をとり上げていただきありがとうございます(って、ひとりよがりですね。)原文でお読みなのが私とは大きく異なる点ですが、この小説の雰囲気をよく思い出させてくれる文章でした。確か、訳本のタイトルは『充たされざる者』だったのではないでしょうか。訳者はどなただったでしょうか、土屋政雄さんではなかったと記憶しますが。
7月はずいぶん多くの本をお読みでしたね。私はこのところ良い小説に巡り合わず、新書本など短いものばかりでお茶を濁しています。風聞にて、マーガレット・アトウッド『またの名をグレイス』のことを知りました。自力で発見した本ではないのですが、そろそろ今年の小説(年賀状記載用!)に出合わなくては、と焦っているところです。
最後になりましたが、暑中お見舞い申し上げます。

投稿: Wako | 2008/08/03 17:45

こんにちわ。毎日、暑いですね。

カズオ・イシグロは面白いですね。わたしはまだ処女作の『A Pale View of Hills』と第2作目の『An Artist of the Floating World』を残していますので、そのうちに読んでみようと思っています。いつになるかわかりませんけれど。
ところでアトウッドの『またの名をグレイス』ですが、これ1996年にdoubleday版のハードカバーが出たときにすぐ読みました。原題は『ALIAS GRACE』。紛うことなき傑作です。絶対にオススメ。
このブログのタイトルバナーの写真(我が家の本棚に本を移し替えときに撮ったものがベースになっているのですが)の左側の山の上から二番目に写っているのが『ALIAS GRACE』です。この本、装釘がちょっと凝っていましてね、今度、ご紹介しましょう。

投稿: かわうそ亭 | 2008/08/03 22:36

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