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2008年9月

2008/09/30

藤原良経のこと

樋口芳麻呂校注『王朝秀歌選』(岩波文庫)の索引から、藤原良経の項目を引く。

藤原良経(ふじわらのよしつね)〔摂政太政大臣・後京極摂政太政大臣、後京極摂政前太政大臣〕元久三年(一二〇六)没。三十八歳。後法性寺関白太政大臣兼実の二男。
(中略)
建仁二年(一二〇二)摂政、元久元年(一二〇四)従一位太政大臣。中御門摂政・後京極殿と呼ばれ、式部史生秋篠月清・南海漁夫・西洞隠士とも号した。和歌を俊成、漢詩を藤原親経に学び、定家とも主従関係にあって親しく、新古今集に結実する新風和歌を育成する土壌としての役割を果たした。和歌所寄人の筆頭で。新古今集仮名序を草した。
(後略)

 み吉野は山も霞みて白雪の
 ふりにし里に春は来にけり

『新古今集』全二十巻の巻頭は、摂政太政大臣すなわち良経のこの歌からはじまる。
言うまでもなく、その御代の勅撰集の巻頭に据えられることは歌人としての最高の栄誉であるが、この人の場合は、新古今編纂のときにはすでに氏の長者であり、摂政、太政大臣という臣下としての最高位にいたわけで、まあ、時の権力者だからそれで巻頭になってんじゃねえの、と見られがち。
しかし、この良経さんの歌人として実力はなかなかどうして相当のものであるという評価もある。
『新古今和歌集一夕話』*1(新潮社)において百目鬼恭三郎は、この歌人、政治家についてこんな風に書いている。

良経はこのほか、『新古今集』では、仮名序を後鳥羽院に代わって草するという栄誉も与えられている。こちらのほうは、あるいは、政治的な考慮が入っていたかもしれない。が、巻頭歌のほうは、それにつづく八首の立春の歌とくらべてみると、やはりこの歌しかなかったとしかいいようがないのである。つまり、当然の実力であったということだ。とかく良経は、当時の歌壇のパトロン的存在で、後鳥羽院と定家という二人の天才の間をつなぐ人物にすぎなかった、という風にみられがちで、彼の歌才は不当に低く評価されるきらいがある。

良経の歌風は、この巻頭歌に典型的にみられるように、長高体という堂々とした、平明ながらたけたかい味わいがあると後鳥羽院などにも評価されているそうですが(『後鳥羽御口伝』)、百目鬼恭三郎はこの本において、むしろ悲しみに満ちた述懐歌に着目してこの人物のスケッチをしている。

そもそも関白兼実の二男であった良経が九条家の惣領となったのは長男である兄が若くして急死したためであった。良経本人も病弱だったらしいし、死をつねに意識して生きている人間にとっては、人生のかなしみや、人生のはかなさが親しいものであるというのは古今を問わない。たとえ、位人臣をきわめた政治家であってもそれはかわらないだろう。定家の『明月記』には、この良経が夫人の死にあって、にわかに邸から逐電、出家しようとしたが、山崎あたりでつかまり、ようやく思いとどまったという事件のことが書かれているそうであります。

百目鬼が紹介している良経の述懐歌をいくつか。 

厭ふべきおなじ山路にわけきても
花ゆゑ惜しくなるこの世かな

花もみなうき世の色とながむれば
をりあはれなる風の音かな

寂しさや思ひ弱ると月見れば
こころの空ぞ秋深くなる

秋はなほ吹きすぎにけり
風までも心の空にあまるものかは

われながら心のはてを知らぬかな
捨てがたき世のまた厭はしき

おしなべて思ひしのことの数々に
なほ色まさる秋の夕暮

われかくて寝ぬ夜の涯をながむとも
誰かは知らむ有明のころ

再び、百目鬼の文章を引く。

「このつきつめた悲しみは西行の在俗出家めいた遁世にはつゆ感じられない。世にありながら良経はなまじいの出家以上に世を捨てていたのだ」という塚本の評(前掲書)*2は当を得ていよう。が、その良経も中年にさしかかって、ようやく生をまっとうする気になったのか、中御門京極に広壮な邸宅を造営し、曲水の宴を盛大に張ろうとしてしていた矢先、一夜のうちに急死したと、叔父の慈円の『愚管抄』に記されている。建永元年三月七日のことで、良経は三十八歳であった。

*注)

  1. 『新古今和歌集一夕話』の一夕話は「ひとよがたり」と読む。江戸期の国学者尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』の叙述の方法にならったものとの説明がある。
  2. 塚本邦雄『藤原俊成・藤原義経』日本詩人選

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2008/09/26

江戸期の和歌と俳諧

与謝野鉄幹、大正十二年(1923)六月三十日付、渡辺湖畔宛の書簡より。

小生この春以来、慶応にて鎌倉末期の新派たる為兼系の歌(伏見、後伏見、花園三帝、永福門院、儀子内親王、従二位為子等)を講じて、それがあまりによく我々のうたと類似しをる点のあるに驚き、今更古人の努力に敬意を増し候。為兼ハ歌論家にして、その作ハ弟子たる数家に及ばざれども、その見識は一頭地を当時に抜きをりしに候。しかも為世系の保守的勢力に圧倒されて明治に及び候こと、よきものも用心せざれば亡ぶと存じ候。

江戸中期、後期の歌壇の様子については、いささか文学史的な予備知識が必要となるようだ。歌道の家ということでは俊成、定家に遡る御子左家から嫡流の二条家のほかに冷泉家と京極家に分かれたわけであるが、勢力としては二条家がもっとも力があった。上記の鉄幹の「為世系の保守的勢力」というのもおそらくは二条派を意味しているのだと思う。

この二条派は室町時代に、ふたつの流派に分かれたそうですね。ひとつは細川幽斎から古今伝授を受けた京都の公家などに勢力を持つ堂上派。もうひとつは同じく幽斎から古今伝授を受けた松永貞徳を始祖とする地下派。この二派の対立がまずある。

江戸時代の歌壇は京都、大坂、江戸が主な拠点となるわけですが、江戸では、地下派の北村季吟がいわば幕府の宗匠のような役割をした時代もあり、またたとえば八代将軍吉宗は冷泉家を贔屓にして、その近臣の成島道筑(成島柳北の先祖)を冷泉家に師事させたりして、冷泉家の復興に力を貸しているなど、京都が貴族の和歌で大坂や江戸が地下の和歌というような単純な見方はできないようです。

しかもここに、賀茂真淵という万葉集に価値を置く国学派のグループが登場する。さらに蘐園派、荻生徂徠の一派やら、十八大通の一人である村田春海なんて人物もからんでくるのですが、さすがにこうなるとわたしも頭の中がごちゃごちゃになってしまうのでこれ以上はやめておきますが、そういう江戸時代の歌壇の対立するスクールが、しかし、一点これだけは共通して嫌い、断固排撃したのがどうやら京極派という存在であったらしいのですね。

この話は、前回書いた『此ほとり 一夜四歌仙評釈』にも出てくるのですが、香川景樹の新風に対して、江戸の村田春海が、これらの歌は京極為兼卿の詠みぶりに似て、厭わしい、これではまるで俳諧ではないか、なんて批判したというのであります。
ところが、夜半亭蕪村一派は、どうやらこの京極派に対する二条派や国学派からの悪口をよく知っていて、むしろその悪口を契機にして京極派の和歌に親しみ、これを積極的にかれらの俳諧の中に取り入れたふしがある、というのですね。

うーん、このあたりは面白いね。しかもだ、明治になると、冒頭に引用した与謝野鉄幹のような京極派再評価が生まれてくる。これはある意味では、蕪村たちの詩的なセンスがやはり近世の人々より現代人のそれを先取りしていたという見方もできるかもしれないなあ。

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2008/09/24

此のほとり(承前)

『此ほとり 一夜四歌仙評釈』の雰囲気を紹介するために適当な箇所を探すのだが、もともと連句という形式が、任意の一句を解するのには前句を引かざるをえず、その前句も、さらにその前句を語る必要があって、なかなか容易ではない。
丸谷才一がその書評(『ウナギと山芋』に収録の「萩すすき」)に用いたのは四歌仙其三の発句から初裏の二句までで、とくに最後の几董による「高きに登り物思ふ身の」という一句については、著者中村幸彦の従来の註釈に逆らっての独創的な読みがあることを称揚する。たしかにここは面白い。

別のところを少しだけ紹介しよう。四歌仙其一の初裏一から七まで。

 さよ更けて弓弦鳴せる御なやみ   嵐山

  我もいそじの春秋をしる     几董

 汝にも頭巾着せうぞ古火桶     蕪村

  愛せし蓮は枯てあとなき     樗良

 小鳥来てやよ鶯のなつかしき    几董

  さかづきさせば逃る県女     嵐山

 若き身の常陸介に補せられて    蕪村

個々の句のわたりについて中村の語っているところ(10頁ばかり)を要約するのはつまらない。最後の二句、県女(あがため)と常陸介(ひたちのすけ)にかかる箇所を見てみよう。ちと長いが、このすぐれた評釈がどういうものかを知るためには、この程度の引用はやむを得ない。

補せられては、「ふせ—」とも読むが、近世風に読んでおく。官職に命ぜられること、補任である。常陸介は後述するが常陸の国司の次官即ち地方官の一つである。王朝では、地方官の任命は正月に行われて、その式を県召(あがためし)と称した。その日は、正月九日から十一日まで。十一日から十三日の間に行った時代もあった。よって県召は正月の季語(『滑稽雑談』のその条など)で、この句は春の句である。各国国司の庁には、守、介、掾、目(さかん)の四等の官があって、介は次官である。ただし、上総、常陸、上野の三か国は、親王の任国と定まっていて、常陸守に選ばれた親王は、その地方へ行かないのが常であった。守即ち国司又は受領(ずりよう)の不在の時には「権ノ守」なる代理を置く制度もあるが、この三国には権ノ守も置かないことになっていたので、実際の政治の責任は、次官である介が持ったのである。それでこの三国で、守と云う時は次官のこと、本当の国司を大守と呼ぶこともあった。(『古事類苑』・官位部三二)。
一句は、老練の士を補すのが習である常陸介に、今度は違って、若い、それだけ頭も切れ、手腕も確かで人望のある青年官僚が任じられたぐらいの意である。(中略)
今年の春は、優秀で人柄もよい青年の常陸介が颯爽と補任されて来たので、歓迎のうたげを催した。その席で、無骨な東国には珍しい美少女に、気さくに、一盞どうかと差し出した。女は初対面ながら好感のいだかれる今度の介だけに、もったいないやら恥ずかしいやらで、逃げて行った。どっと一座の笑いも起ころうと云うものである、と解される。

本書は1980年の読売文学賞の受賞作(研究・翻訳部門)。読んで損はありません。

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2008/09/23

此のほとり

20080923 『此ほとり 一夜四歌仙評釈』中村幸彦(角川書店)は、丸谷才一の古い書評で知ったが、これが期待に違わぬ面白さ。

安永二年(1773)冬、三年前に夜半亭二世を襲名した与謝蕪村は、筆頭弟子の高井几董(きとう)を編者として「あけ烏」を刊行、蕉風への復帰を高らかに宣言します。
オハナシはこれより少し前の同年九月のことでありました。この夜半亭一派のもとに伊勢の三浦樗良(ちょら)が訪れる。ここに蕪村、几董、樗良がそろいまして、数年前に江戸から京に移り棲み、そのころ死の床にあった長老格の和田嵐山を見舞います。
嵐山これを甚だ喜び、この三人がおのれの枕元で同じ打ち語ってくれるのならば、いっそ歌仙など所望したいと請い願う。かくしてここに一夜四歌仙が見事巻き上がったのであります。

蕪村このとき五十八歳、樗良四十五歳、几董三十三歳、嵐山は生年不詳でこのときの年齢は定かではないが、夜半亭蕪村に「叟」と呼ばれるほどの年であれば、おそらくは七十前後であったかと思われる。すでに死を覚悟した嵐山は、この歌仙興行中ときに力つきて眠りに落ち、また覚めて句を付けたかのようであるが、この老俳人の、死にいどみながらもなお俳諧こそが人生のなによりの喜びであるという、この道にかけた深甚の愛情が連衆の魂に共鳴したのだろう、一夜で巻き上げた四つの歌仙は、翌朝、袂にいれて持ち帰った蕪村が読み返してみても、かつての蕉風の作風に通う上出来のものと思われた。かくしてその年に上梓され、いまのわれわれもまた蕪村七部集のなかでこれを楽しむことができるのである。

中村幸彦の評釈によって現代の読者もまた、蕪村をはじめ、夜半亭三世となる几董も、俳諧行脚で鍛えられた樗良も、俳諧に一生を捧げた嵐山も、連衆の誰もが、唐詩選などの漢詩文から代々の勅撰和歌集だけでなく、源氏物語、徒然草、方丈記、平家物語、太平記などの古典を縦横に渉猟していることを教えられ、また勇気づけられもする。書を読むことのなんという楽しさ面白さかな。

随所にみられる中村の博雅な註釈は、読者を萎縮させるような気配はつゆほどもなく、ひたすら俳諧の世界にひろがる豊かな景色を読者に指し示し、さらに機会があれば各自の探索をうながすような塩梅で、わたしはこんなあたたかな連句の評釈があり得ることにむしろ驚いた。
(この項つづく)

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2008/09/17

チェスと将棋と探偵と

「チェスってのはどうも性に合わないんだよな」草薙は呟いた。
「また始まった」
「大体、敵からわざわざ奪った駒を使えないってどういうことなんだ。駒は戦利品だろ。使ったっていいじゃないか」
「ゲームの根幹にけちをつけてどうするんだ。それに駒は戦利品じゃない。駒は兵士だ。奪うということは命を取るということだ。死んだ兵士を使うことなんてできないだろ」
「将棋は使えるのにさ」
「将棋を考えた人の柔軟さには敬意を表するよ。あれはおそらく、駒を奪うという行為に敵の兵士を殺すのではなく降伏させる、という意味を込めているんだろうな。だから再利用できるわけだ」
「チェスもそうすりゃいいのにさ」
「寝返りというのは騎士道精神に反するんだろ」

  東野圭吾『容疑者Xの献身』

探偵ガリレオのホームズは物理学者の湯川学、ワトスンは刑事の草薙俊平。テレビではワトソン役は、草薙の後輩の女刑事、内海薫に変更されていましたが、まあ、これはこれで悪くない改変でしょう。
記憶では、湯川の研究室にチェスのセットがあることは、これまで語られていなかったような気がしますね。理詰めの天才湯川ですから、当然強い。

ところで本家のホームズはベーカー街221Bで、ワトスンとチェスをしたことがあったかどうか。
あってもおかしくないような気がしますが、『シャーロック・ホームズ百科事典』(マシュー・バンソン編著/原書房)によりますと、「意外なことに、正典の中にはホームズがチェスをするとは書かれていない」とあります。へえ、そうなんだ。でも、おかしいのは、この記述のあとに、こんなふうに書かれていること。——「そのころ、同じ腕前の相手を探すのは難しかったのだろうか」。
この項目を担当した人の(当然チェスに愛着があったはず)、いかにも無念でならない感じがよく出ておりますね。(笑)

草薙がぼやくように、将棋とチェスは、ルーツはおそらく同じなのだろうが、かなり違ったゲームであります。
チェスが8×8の64マスであるのに対して、将棋は9×9の81マス。駒の種類や動きもやや異なる。ふたりの会話にあるように手駒を使えるか使えないかというのも、大きな違いだ。
盤面から除かれた駒はもう復活しないということは、終盤のゲームは双方のキングと、一つ二つの駒だけが残るというような、見た目にはシンプルな展開になることが多い。キング同士が直接対決するような譜面は将棋の場合はあまりないはずだが、チェスでは別に珍しいものではない。

映画「ボビー・フィッシャーを探して」でも、大会の決勝戦のエンドゲームはまさにこういう盤面になっていて、ジョシュの師匠のパンドルフィーニはテレビ・モニターを見て叫ぶのでした。
「よし、お前の勝ちだ。見えるまで動くな」
この時点で、パンドルフィーニが読んだ手筋は12手詰めでした。なんとまあ。
しかし、プロの世界で、このくらいを読み切るのはまあ当たり前なんでしょう。

ちょっと前に、NHKの番組「トップランナー」で羽生善治と森内俊之のふたりを取り上げたのがあったが、あれはじつに面白かった。
将棋では一方が「負けました」と宣言して、その対局が終了する。羽生にしても森内にしても、「負けました」という言葉を発するときの全身のたたずまいがいかにも男らしい。勝ったときよりも負けたときのたたずまいにひかれるというのは、まあ、これまたわたしの感傷には違いないが、あれはうつくしいものだなと思ったな。
チェスの場合は、自分のキングを倒して負けを宣言する。たいていは無言である。これもまたここにそのプレーヤーの品格があらわれる一瞬でありますね。

自戒。負けて思わず「くそぉ」と叫ぶようでは。(笑)

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2008/09/16

ボビー・フィッシャーを探して

DVDでスティーヴン・ザイリアン監督の「ボビー・フィッシャーを探して」を見る。
ストーリーはいまひとつだが、とにかくこの作品は映像が美しいですな。
とくに冒頭のチェスに雨があたるシーンは印象的だ。こんな美しいゲームは見たことがない。
CGによってあらわにされたのっぺらぼうの絵をわたしたちは見せられすぎている。この作品を見ると、映画というものが、もともと光と影からなっている立体的なものであることをあらためて思い出す。

撮影はコンラッド・L・ホール。

なにしろ陰影に富んだ奥の深い映像なので、よく眼を凝らして見るといろいろ面白い細部がみつかる。
2862422880_35e0f8761f たとえば主人公が森の中で拾うナイトの駒だ。ほとんど影になって、ちらっとしか見えないが、たぶん、あれは大英博物館に収蔵されたルイス島のチェス・ピースのレプリカだと思う。わたしも一組持っている。
ワシントン・スクウェアでストリート・チェスの真剣師をやっている男(ローレンス・フィッシュバーン。マトリクスのモーフィアスね)が、野球のボールとそいつを交換しようという手つきをしてみせるシーンがあって、その夜(ジョシュの7歳の誕生日である)父親のプレゼントの野球のミットをかたわらに、ベッドの中でジョシュは懐中電灯でこのナイトを照らして、いつまでも見飽きないというシークエンスにつながる。そうか、少年は野球のボールよりチェスピースを選んだんだな、とわかるのだが、これが映画の基調となっていることは言うまでもない。

ジョシュの母親をジョアン・アレン(ボーン・シリーズのCIA管理官のパメラ)がやっていて、とてもいい雰囲気をだしている。少年の師匠を引き受けるブルース・パンドルフィーニ役にはガンジーでアカデミー賞のベン・キングズレー、と脇をしめる役者も重量級。ちなみにパンドルフィーニはナショナル・マスターで『ボビー・フィッシャーの究極のチェス』の名著がある。

ところで、おかしいのはこの映画、カメオでトニー・シャループ(名探偵モンクさん)が出ているのでありました。父親がはじめて息子をNYのチェス・クラブの支部につれて行く場面で、7歳の子供と対局してあっさり負ける男の役。これまた印象的な映像の美しい箇所でさすがにうならされる。

Screencapture

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2008/09/10

右城暮石の俳句

Koe 古本屋に『右城暮石句集 声と声』(近藤書店)があったので買って帰る。
右城暮石(うしろ・ぼせき)は大正の終りから、「倦鳥」(主幹松瀬青々)によった俳人だが、戦後は「天狼」(戦前の新興俳句の流れをくむ)に加わった。
簡単な略歴を記す。

 1899年生
 1918年大阪電燈入社
 1921年「倦鳥」入会
 1946年「風」同人
 1949年「風」を辞して「天狼」同人
 1952年「筐」(かたみ)創刊
 1956年名称を「運河」にあらため、主宰
 1971年蛇笏賞
 1995年歿

「運河」は1991年に茨木和生氏が継がれたそうですが、わたしが買った『右城暮石句集 声と声』はこの「運河」創刊30周年を記念して1985年に限定三百部で復刊されたもの。
復刊本なのできれいな状態でありました。序文は山口誓子が書いていますが、その書き出しはこうなっている——

右城暮石氏は「倦鳥」と「天狼」の接木作家である。「倦鳥」を台本として、それに「天狼」を接ぎ。自己を進めた作家である。

おそらくこれにつきているのだろう。
誓子の解説にならって、わたしもこの句集から、「倦鳥」時代のものと、「天狼」に加わって以降のものから気に入った句を抜いてみた。どこか懐かしく、せつないような気分にさそわれる。いい俳人だなあ、と思う。

  短夜の波は波より起り來る
  蜆蝶秋日の土に落ちつかず
  雪のあと四五日濡れて山社
  何の苦もなささうに死に金龜子
  葛城の麓まで雪の大和側
  打水の土凹ませて炭運ぶ
  よき道へ上りてほつと春の雨
  何かありし跡輪になつてはこべ萠ゆ
  春の蚊の低きへ飛びて見失ふ

  息にくもる特急白き椅子カバー
  蜻蛉の死にても臭ひあらざりき
  綿虫を指さす誓子掴む三鬼
  氣が遠くなる春山のてつぺんは
  颱風を充ちくるものゝ如く待つ
  濁流に入りし藁塚須臾に消ゆ
  便所の扉石で押へて吉野さむし
  丸裸にて幼な児の海を享く
  虹の輪や家鴨の番を犬がして

縦書きにした方が、読みやすいと思うので、画像にしたものも下に載せておきます。

Ushiro_1_2

Ushiro_2



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2008/09/09

日本語を知らない俳人(承前)

もうひとつ、さらにむつかしい問題がありまして、この『日本語を知らない俳人たち』でさかんにやりだまにあげられているのが、助動詞「き」の連体形「し」の用例です。
こちらのほうは、正直なところ、わたしはあんまり感服できないのですが、一応どういうことか簡単に書いておきましょう。

ポイントはたぶん二つあって、ひとつはこの「き」は過去のことを言い表すための助動詞なんですが、目睹(もくと)回想の助動詞であるということ。すなわち過去に自分が実際に体験したことを言ってます、ということが作り手と読み手の了解事項になっていますよ、ということである。
もう一つは「き」は時間的にはっきりと過去に属する事実を述べる語で、今やりおえた、今なになにした、というような完了をあらわす語ではないということであります。

ここで著者は面白い例をあげている。今度は歌であります。

 海峡に出でし月かも荷役終え
 草に尿をしつつ仰げば      近藤芳美

 天の原ふりさけ見れば春日なる
 三笠の山に出でし月かも     安倍仲麻呂

どちらも「出でし月かも」ですが、近藤の歌は、立ち小便しながら見上げたら、ああ月が出ているという感じのことを言おうとしているように思えます。
ところが仲麻呂の歌は違いますね。蘇州の地でいま見上げているこの月、ああ、これは故国の三笠の山に三十年も前に出たあの月だ、あれと同じ月なんだよなあ、てな感じの詠嘆を読者は共感しなきゃいけない。つまりこの「出でし月」は今の月ではなく、はっきり遠い昔の月を言っているのでありますね。
そして、「き」の用例はもちろん仲麻呂のほうが正しいので、近藤の歌は、あえてこの文脈で読み取ろうとすれば、「もうずいぶん昔のことだが俺は海峡に月が出たのを見たことがある。いまこうして荷役を終えて草に小便をしながら夜空を仰ぐと、むかし見たあの月を思い出すぜ」てな解釈になるのでありましょう。しかし、近藤の歌を読んだ印象は、どうもそこまで時制的に入り組んだことを詠んでいるように思えない。やはり「海峡に出た月だ」を文語にしたときの誤り(「海峡に出づる月」または「海峡に出たる月」とすべき)と見るのが妥当な感じがします。

さて冒頭、わたし自身はこれらの指摘には、あんまり感服できないと書きました。これは考えてみたのですが、どうやら、理屈ではないんですね。「正論」が往々にしてうとましいという感覚に近い。(笑)

はい、はい、すみませんね、不勉強で——

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2008/09/08

日本語を知らない俳人

あんたは日本語を知らないね、なんて言われたら、どんな人でもむかっとくる。
ましてや、結社の主宰で俳句を教えていますなんて人ならば、これは聞き捨てならぬといきり立つかもしれない。

『日本語を知らない俳人たち』池田俊二(PHP研究所)には、間違った実例が満載なので大いに笑えるのだが、この笑いはいうまでもなく、「ひとごと」だからの話で、実際にもし自分の俳句がここにとりあげられていたらちょっと困るだろうなあと思う。

「俳句の世界が、永年にわたって日本語をなめ、でたらめに扱いつづけてきた弊風」「大抵の俳誌は似たりよったりです。中にはもっとひどいのもあります」などと書きました。
しかしそれは私がそう感じたというだけのことに過ぎません。そこで、いったい現代の俳人たちがどれほど日本語をでたらめに扱い、間違いをやらかしているのか、統計のようなものをとってみたくなりました。

――ということで、著者は、俳人協会編『季題別現代俳句選集』(平成五年発行)を使う。この本、俳人協会の会員全員に春夏秋冬および新年の五句の提出を求め、季題別に並べたものだそうな。7千445人の方がこれに応じたそうですから、各人五句で3万7千225句が掲載された本であります。はじめはこれを全部あたる意気込みだったけれど、さすがにこれは大変なので、結局、「春の部」の7千445句だけを調べた。
で、結果は(少なくとも著者の観点から)あきらかに文法的な間違いがあるのが104句あった、ト。比率としては1.4パーセントくらいですね。
ただし、たとえば「寄せる」なんて言葉はもし文語で書けば「寄する」としなくてはいけないわけですが、句の全体の調子があきらかに文語調でなければ、作者がわざと口語的な効果を狙っている可能性もなくはないので、こういうのは間違いにはカウントしていないのだそうです。だから、こういう表記まで入れると、間違いの比率はぐんとはね上がるはず。

実例を見ていくと、まあ、わたし自身がしょちゅう間違えるので、偉そうなことは言えないが、かなりおそまつな旧仮名の誤りや、文語調なのに口語的な活用形になっているといういかにも素人くさいものなどがありますけれども、断然多いのが、動詞の連体形と終止形の混同でありますね。

これ実例を見てもらうのが一番いい。
本書の実例を転記するのは、作者に気の毒なので(いいかげんうんざりしておられるであろう)とりあえず、ためしにわたしがつくってみます。こういうの。

  たとふれば急流へ落つ椿とも

あ、もちろんこれ、「落椿われならば急流へ落つ」鷹羽狩行のぱくりです。(笑)
さて、どこがおかしいのでしょうか?

もしいまの自分をたとえるならば、それは急流に落ちる椿であることよ、なんて感じの気分。(笑)
すなわち作者は、「落ちる椿である」ということを言いたいのであります。
であれば「落つ椿」、はたしてこれ、「落ちる椿」となりますか、どうですか。
もし椿という名詞(体言)を修飾するつもりであれば、ここは動詞の活用形は当然、連体形である。すなわち「落つる椿」としなくてはならない。
「落つ」という活用形は、鷹羽狩行の「落椿われならば急流へ落つ」のように終止形である。したがって掲句の場合、はい、「落つ」で切って読んでくださいねと言いつくろうならばともかく、作者の意図が上記のようであるならば、

  たとふれば急流へ落つる椿とも

とするのが正しい。もしこのかたちで中八になるのがいやならば「流れに落つる」とか「早瀬に落つる」という具合に推敲することになるでしょうね。

ということで、著者によれば、俳人がやらかす文法上の間違いで、もっとも多いのがこのパターン――動詞の連体形と終止形の混同であるというのですね。これは大いに思い当たるところあり、でありますが、さてこれをどう考えるか、なかなかむつかしい。

(この項つづく)

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2008/09/04

ジェイン・オースティンの読書会

J_a_bookclub_3   『ジェイン・オースティンの読書会』カレン・ジョイ・ファウラー(白水社/2006)は面白かったけれど、ほんとうはジェーン・オースティンの六つの長編小説をきちんと読んでいないと、にやりと笑うところを読み過ごしてしまうはずなので、おそらくわたしは十分に楽しんだとは言えないんだろうなあ、と思う。

「一般文学読者にジェーン・オースティン文学を解説することは、ある意味では簡単だともいえる」とは中野好夫のコメント(『自負と偏見』訳者解説)である。というのは、彼女の作品はつまるところ『Sense and Sensibility』、『Pride and Prejudice』、『Mansfield Park』、『Emma』、『Northanger Abbey』、『Persuasion』の6作品にかかっており、他の作品はほとんど問題にする必要がないこと。またこれらの六作品についてもほとんど優劣のない(読者の好みはとうぜん異なるにしても)ものだから、ということであります。

つまり言葉を変えて言えば、この六つさえ読んでいれば、たとえ相当にうるさ型ぞろいの「読書会」であっても、大いばりで出席できるということになるのでありますね。ということで、この『ジェイン・オースティンの読書会』という長編小説は、六作品をモチーフにして、ジェーン・オースティンの読書会を毎月一回開催することにした六人(五人の女に男一人、ただし女ひとりはゲイだけど)の人生模様とまあ当然、恋の成り行きが語られるという洒落た趣向になっていて、さらに作者はもともとSF畑の出身だということもあって、わたしも読書の入り口がそうだったもんだから、よけいこの作品にはぐっとくるところがあるんだなあ。
ジェーン・オースティンの六作品を全部読んだら、もういちど本書を読んでみるといいかもしれない。すくなくともP&Pの読書会の章は、にやにやと楽しむことができたので、たぶんほかの章(それぞれ作品ごとの章があるのね)も同じような趣向があるはずだと思う。

ところで、本書にはいろいろ「おまけ」がついていて、そのひとつがジェーン・オースティンに対するいろんな作家のコメント。とくにおかしいのが、マーク・トゥエインで、この人、とにかくオースティンが嫌いで仕方がなかったのね。こんな発言があるそうです。

『自負と偏見』を読むたびに、彼女の死体を掘り起こして脛骨で彼女の頭蓋骨をひっぱたいてやりたくなります。

わたし、これはもしかして、同じ作家として、ここまで面白い小説を書かれてしまったことが悔しくて、なんていう褒め言葉かしらと首を傾げたんですが、本書のべつのところにやはり マーク・トゥエインの言葉が引用してありまして、それによれば——

この図書館にはジェイン・オースティンの本もまた、一冊もない。それだけで、ろくに本のないこの図書館が、そこそこましな図書館になっている。

はは、こりゃ、ほんとに大嫌いなんだ。(笑)

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2008/09/01

8月に読んだ本

『The Unconsoled』Kazuo Ishiguro(Faber and Faber/2005)
『いち・たす・いち (脳の方程式)』中田力(紀伊国屋/2001)
『富士日記 (中)』武田百合子(中央公論社/1994)
『「邪馬台国」はなかった』古田武彦(朝日新聞社/1971)
『富士日記 (下)』武田百合子(中央公論社/1994)
『恋の隠し方 — 兼好と「徒然草」』光田和伸(青草書房 /2008)
『斎藤慎爾全句集』斎藤愼爾(河出書房新社/2000)
『後鳥羽院 第二版』丸谷才一(筑摩書房/2004)
『密林の骨』アーロン・エルキンズ/青木久惠訳(ハヤカワ文庫/2008)
『宮廷の春秋—歌がたり女房がたり』岩佐美代子(岩波書店/1998)
『容疑者Xの献身』東野圭吾(文春文庫/2008)
『生物と無生物のあいだ』福岡伸一(講談社現代新書/2007)
『14歳からの哲学—考えるための教科書』池田晶子(トランスビュー /2003)
『勝っても負けても 41歳からの哲学』池田晶子(新潮社 /2005)
『コーカサス国際関係の十字路』廣瀬陽子(集英社新書/2008)
『養老孟司・学問の挌闘—「人間」をめぐる14人の俊英との論戦』(日本経済新聞社 /1999)
『芭蕉』安東次男(中公文庫/1979)〈再読〉
『自負と偏見』J.オースティン/中野好夫訳(新潮文庫)

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8月に見た映画

ダークナイト
監督:クリストファー・ノーラン
出演:ヒース・レジャー、クリスチャン・ベール、マイケル・ケイン、マギー・ギレンホール、アーロン・エッカート、ゲイリー・オールドマン、モーガン・フリーマン

ダイ・ハード4.0
監督;レン・ワイズマン
出演:ブルース・ウィリス、ジャスティン・ロング、ティモシー・オリファント 、マギー・Q

ノーカントリー
監督:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン
出演:ハビエル・バルデム、ジョシュ・ブローリン、トミー・リー・ジョーンズ、ケリー・マクドナルド

バットマン ビギンズ
監督:クリストファー・ノーラン
出演:クリスチャン・ベール、マイケル・ケイン、リーアム・ニーソン、ゲイリー・オールドマン、モーガン・フリーマン、ルトガー・ハウアー、ケイティ・ホームズ

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