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2008/09/26

江戸期の和歌と俳諧

与謝野鉄幹、大正十二年(1923)六月三十日付、渡辺湖畔宛の書簡より。

小生この春以来、慶応にて鎌倉末期の新派たる為兼系の歌(伏見、後伏見、花園三帝、永福門院、儀子内親王、従二位為子等)を講じて、それがあまりによく我々のうたと類似しをる点のあるに驚き、今更古人の努力に敬意を増し候。為兼ハ歌論家にして、その作ハ弟子たる数家に及ばざれども、その見識は一頭地を当時に抜きをりしに候。しかも為世系の保守的勢力に圧倒されて明治に及び候こと、よきものも用心せざれば亡ぶと存じ候。

江戸中期、後期の歌壇の様子については、いささか文学史的な予備知識が必要となるようだ。歌道の家ということでは俊成、定家に遡る御子左家から嫡流の二条家のほかに冷泉家と京極家に分かれたわけであるが、勢力としては二条家がもっとも力があった。上記の鉄幹の「為世系の保守的勢力」というのもおそらくは二条派を意味しているのだと思う。

この二条派は室町時代に、ふたつの流派に分かれたそうですね。ひとつは細川幽斎から古今伝授を受けた京都の公家などに勢力を持つ堂上派。もうひとつは同じく幽斎から古今伝授を受けた松永貞徳を始祖とする地下派。この二派の対立がまずある。

江戸時代の歌壇は京都、大坂、江戸が主な拠点となるわけですが、江戸では、地下派の北村季吟がいわば幕府の宗匠のような役割をした時代もあり、またたとえば八代将軍吉宗は冷泉家を贔屓にして、その近臣の成島道筑(成島柳北の先祖)を冷泉家に師事させたりして、冷泉家の復興に力を貸しているなど、京都が貴族の和歌で大坂や江戸が地下の和歌というような単純な見方はできないようです。

しかもここに、賀茂真淵という万葉集に価値を置く国学派のグループが登場する。さらに蘐園派、荻生徂徠の一派やら、十八大通の一人である村田春海なんて人物もからんでくるのですが、さすがにこうなるとわたしも頭の中がごちゃごちゃになってしまうのでこれ以上はやめておきますが、そういう江戸時代の歌壇の対立するスクールが、しかし、一点これだけは共通して嫌い、断固排撃したのがどうやら京極派という存在であったらしいのですね。

この話は、前回書いた『此ほとり 一夜四歌仙評釈』にも出てくるのですが、香川景樹の新風に対して、江戸の村田春海が、これらの歌は京極為兼卿の詠みぶりに似て、厭わしい、これではまるで俳諧ではないか、なんて批判したというのであります。
ところが、夜半亭蕪村一派は、どうやらこの京極派に対する二条派や国学派からの悪口をよく知っていて、むしろその悪口を契機にして京極派の和歌に親しみ、これを積極的にかれらの俳諧の中に取り入れたふしがある、というのですね。

うーん、このあたりは面白いね。しかもだ、明治になると、冒頭に引用した与謝野鉄幹のような京極派再評価が生まれてくる。これはある意味では、蕪村たちの詩的なセンスがやはり近世の人々より現代人のそれを先取りしていたという見方もできるかもしれないなあ。

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