日本語を知らない俳人(承前)
もうひとつ、さらにむつかしい問題がありまして、この『日本語を知らない俳人たち』でさかんにやりだまにあげられているのが、助動詞「き」の連体形「し」の用例です。
こちらのほうは、正直なところ、わたしはあんまり感服できないのですが、一応どういうことか簡単に書いておきましょう。
ポイントはたぶん二つあって、ひとつはこの「き」は過去のことを言い表すための助動詞なんですが、目睹(もくと)回想の助動詞であるということ。すなわち過去に自分が実際に体験したことを言ってます、ということが作り手と読み手の了解事項になっていますよ、ということである。
もう一つは「き」は時間的にはっきりと過去に属する事実を述べる語で、今やりおえた、今なになにした、というような完了をあらわす語ではないということであります。
ここで著者は面白い例をあげている。今度は歌であります。
海峡に出でし月かも荷役終え
草に尿をしつつ仰げば 近藤芳美
天の原ふりさけ見れば春日なる
三笠の山に出でし月かも 安倍仲麻呂
どちらも「出でし月かも」ですが、近藤の歌は、立ち小便しながら見上げたら、ああ月が出ているという感じのことを言おうとしているように思えます。
ところが仲麻呂の歌は違いますね。蘇州の地でいま見上げているこの月、ああ、これは故国の三笠の山に三十年も前に出たあの月だ、あれと同じ月なんだよなあ、てな感じの詠嘆を読者は共感しなきゃいけない。つまりこの「出でし月」は今の月ではなく、はっきり遠い昔の月を言っているのでありますね。
そして、「き」の用例はもちろん仲麻呂のほうが正しいので、近藤の歌は、あえてこの文脈で読み取ろうとすれば、「もうずいぶん昔のことだが俺は海峡に月が出たのを見たことがある。いまこうして荷役を終えて草に小便をしながら夜空を仰ぐと、むかし見たあの月を思い出すぜ」てな解釈になるのでありましょう。しかし、近藤の歌を読んだ印象は、どうもそこまで時制的に入り組んだことを詠んでいるように思えない。やはり「海峡に出た月だ」を文語にしたときの誤り(「海峡に出づる月」または「海峡に出たる月」とすべき)と見るのが妥当な感じがします。
さて冒頭、わたし自身はこれらの指摘には、あんまり感服できないと書きました。これは考えてみたのですが、どうやら、理屈ではないんですね。「正論」が往々にしてうとましいという感覚に近い。(笑)
はい、はい、すみませんね、不勉強で——
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コメント
こんばんは。
この論争は『俳句界』2007年11月号にも登場しました。
それを取り上げた週刊俳句の記事(五十嵐秀彦)はこちらです↓↓↓
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/11/200711.html
五十嵐さんは池田氏の論を「時間の停止した文法の教室空間のようなもの」と結論しています。
歴史的用例を挙げての反論に、「それは誤用」と、歴史・伝統に拠って立つはずの池田氏が切り返すのは、民族誌的用例を挙げての疑問・反論に、「それは例外」と、民族誌的事実に拠って立つはずの人類学者が切り返すにも似て、ちょっと信頼できなくなります。
文法・誤用
規律・逸脱
世界(言語活動)は、前者だけで成り立つものでないことは自明。正誤を論じるだけなら、それこそ「教室」でやればいい話、とも思ってしまいます。
投稿: tenki | 2008/09/11 00:06
やたら「ゴヨウダ、ゴヨウダ」というのは捕物帳でもあんまり頼りにならない捕り方ですからねえ——というのは冗談ですが、この「き」「し」の誤用問題は、ちとどんなもんかいな、とわたしも感じました。
投稿: かわうそ亭 | 2008/09/11 21:25