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2008/09/08

日本語を知らない俳人

あんたは日本語を知らないね、なんて言われたら、どんな人でもむかっとくる。
ましてや、結社の主宰で俳句を教えていますなんて人ならば、これは聞き捨てならぬといきり立つかもしれない。

『日本語を知らない俳人たち』池田俊二(PHP研究所)には、間違った実例が満載なので大いに笑えるのだが、この笑いはいうまでもなく、「ひとごと」だからの話で、実際にもし自分の俳句がここにとりあげられていたらちょっと困るだろうなあと思う。

「俳句の世界が、永年にわたって日本語をなめ、でたらめに扱いつづけてきた弊風」「大抵の俳誌は似たりよったりです。中にはもっとひどいのもあります」などと書きました。
しかしそれは私がそう感じたというだけのことに過ぎません。そこで、いったい現代の俳人たちがどれほど日本語をでたらめに扱い、間違いをやらかしているのか、統計のようなものをとってみたくなりました。

――ということで、著者は、俳人協会編『季題別現代俳句選集』(平成五年発行)を使う。この本、俳人協会の会員全員に春夏秋冬および新年の五句の提出を求め、季題別に並べたものだそうな。7千445人の方がこれに応じたそうですから、各人五句で3万7千225句が掲載された本であります。はじめはこれを全部あたる意気込みだったけれど、さすがにこれは大変なので、結局、「春の部」の7千445句だけを調べた。
で、結果は(少なくとも著者の観点から)あきらかに文法的な間違いがあるのが104句あった、ト。比率としては1.4パーセントくらいですね。
ただし、たとえば「寄せる」なんて言葉はもし文語で書けば「寄する」としなくてはいけないわけですが、句の全体の調子があきらかに文語調でなければ、作者がわざと口語的な効果を狙っている可能性もなくはないので、こういうのは間違いにはカウントしていないのだそうです。だから、こういう表記まで入れると、間違いの比率はぐんとはね上がるはず。

実例を見ていくと、まあ、わたし自身がしょちゅう間違えるので、偉そうなことは言えないが、かなりおそまつな旧仮名の誤りや、文語調なのに口語的な活用形になっているといういかにも素人くさいものなどがありますけれども、断然多いのが、動詞の連体形と終止形の混同でありますね。

これ実例を見てもらうのが一番いい。
本書の実例を転記するのは、作者に気の毒なので(いいかげんうんざりしておられるであろう)とりあえず、ためしにわたしがつくってみます。こういうの。

  たとふれば急流へ落つ椿とも

あ、もちろんこれ、「落椿われならば急流へ落つ」鷹羽狩行のぱくりです。(笑)
さて、どこがおかしいのでしょうか?

もしいまの自分をたとえるならば、それは急流に落ちる椿であることよ、なんて感じの気分。(笑)
すなわち作者は、「落ちる椿である」ということを言いたいのであります。
であれば「落つ椿」、はたしてこれ、「落ちる椿」となりますか、どうですか。
もし椿という名詞(体言)を修飾するつもりであれば、ここは動詞の活用形は当然、連体形である。すなわち「落つる椿」としなくてはならない。
「落つ」という活用形は、鷹羽狩行の「落椿われならば急流へ落つ」のように終止形である。したがって掲句の場合、はい、「落つ」で切って読んでくださいねと言いつくろうならばともかく、作者の意図が上記のようであるならば、

  たとふれば急流へ落つる椿とも

とするのが正しい。もしこのかたちで中八になるのがいやならば「流れに落つる」とか「早瀬に落つる」という具合に推敲することになるでしょうね。

ということで、著者によれば、俳人がやらかす文法上の間違いで、もっとも多いのがこのパターン――動詞の連体形と終止形の混同であるというのですね。これは大いに思い当たるところあり、でありますが、さてこれをどう考えるか、なかなかむつかしい。

(この項つづく)

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