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2008/10/04

今泉みね『名ごりの夢』

『福翁自伝』より、福沢諭吉が咸臨丸で渡米するいきさつの箇所を引く。

艦長木村摂津守という人は、軍艦奉行の職を奉じて海軍の長上官であるから、身分相当に従者を連れて行くに違いない。それから私は、どうもその船に乗ってアメリカに行ってみたい志はあるけれども、木村という人は一向知らない。去年大阪から出て来たばかりで、そんな幕府の役人などに縁のある訳けはない。ところが幸いに、江戸に桂川という幕府の蘭家の侍医がある。その家は、日本国中蘭学医の総本山とでも名を命(つ)けて宜しい名家であるから、江戸はさておき日本国中蘭学社会の人で桂川という名前を知らない者はない。ソレ故、私なども江戸に来れば何はさておき桂川の家には訪問するので、度々その家に出入りしている。その桂川の家と木村の家とは親類—ごく近い親類である。それから私は、桂川に頼んで、「如何して木村さんの御供をしてアメリカに行きたいが、紹介して下さることはできまいか」と懇願して、桂川の手紙を貰って木村の家に行ってその願意を述べたところが、木村では即刻許してくれて「宜しい。連れて行ってやろう」とこういうことになった。

桂川家は幕府の奥医師の家柄で、幕府公認の蘭学医である。
福沢が出入りしていたときの当主は七代目の桂川甫周(ほしゅう)という。奥医師というのは位が高く、参議、納言と肩を並べる。旗本も道で駕籠にあえばわきによけないければならないとされたくらいであるが、家禄は二、三百俵と豊かではない。しかし将軍の脈をみる役目である以上は威儀も張らねばならず、人も大勢扶持するので内情は苦しい。生活はいたって質素、桂川には乞食の子もくれないほどの貧乏と冗談にいわれた。しかし代々の学者の気風はそういうことには恬淡、家には蘭学を志す若者がごろごろ食客風にたむろしていたのだそうな。福沢もそういう一人であったわけだ。

ところが乞食もくれないはずの桂川甫周の嫁は、旗本のなかでも大変な金持ちの御浜奉行の木村又助の娘にきまった。器量よしで、画や俳諧をよくし(号は琴川)、武芸にも通じた久邇(くに)である。だれもがはじめは本当にしなかった。なんであんな貧乏学者の家に木村の娘が嫁ぐことがあろうか、というわけだ。

この縁談、じつは将軍のお声がかりであった。
「又助、娘を桂川に、仲だちは余だ」と上様じきじきのお達しであった。

内情が苦しく、食客めいた学問を志す若者もふくめてやたらといろんな人間がごちゃごちゃした桂川家にきた久邇はしかしよくこの学者の家になじんだ。夫婦仲もまことによかった。ただおしむらくは、安政二年(1855)に二十八歳の若さで亡くなった。
桂川甫周との間に二人の娘を得た。長女は夭逝したが、次女、みねが昭和十二年まで長生きをした。東洋文庫に今泉みね『名ごりの夢—蘭医桂川家に生まれて』という聞き書きが残る。これが、なかなか面白い本でありました。

なお木村摂津守は久邇の弟である。すなわち、著者、今泉みねにとっては母の弟だから叔父さんにあたる。咸臨丸の艦長としてサンフランシスコに渡ったときに、随行の人々の支度や米国で見苦しいことのないようにと木村家の私財を投じたことを司馬遼太郎の本で読んだ記憶があるが、御一新のあとは新政府への仕官に最後まで肯んじなかった。貧困に陥ったというほどではなかったかもしれないが、維新前の身上をすべてうしない、福沢が経済的な支援をしていたのでなかったか。

『名ごりの夢』に書かれている、福沢諭吉の桂川家での勉学の姿。

福沢さんのおなりは一番質素で、木綿の着物に羽織、それに白い襦袢をかさねていらっしゃったように覚えています。刀かけのあるちょうど二十畳ぐらいのお座敷で、父の前にまじめに足をきちんとかさねて話をきいていらっしゃる時、私は福沢さんの足袋の穴を見つけて、松葉を十本ばかりたばにして突つきましたが、話に熱心にききいっていて、動くにはうごかれずだいぶお困りのようでした。私のこのいたずらには皆さんがお困りになって、桂川の松葉攻めといえば、洋学者仲間に有名になっていたそうでございます。

おちゃめでいたずら好きのお姫さまだが、ご多分にもれず幕府の瓦解後はいいようのない苦労を重ねた。しかし、昭和の御代まで生きて、八十歳でこの本の口述をしたとき幼い日々の記憶は美しい。東洋文庫の解説は金子光晴。その一節—

『名ごりの夢』を口述した、今泉みねという、八十何歳かの老女のなかに、若い日の記憶が色褪せもせず、かくまであざやかに—たとえ、それが刻明に正確でなかったにしろ、生きながらえていたことは、キューリアスという以上に、なにか〝人間の信頼〟につながることのような気がする。

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