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2008年11月

2008/11/29

マキューアン『土曜日』

Satday イアン・マキューアンの『土曜日』(新潮社)は、100年後あるいは200年後に、まだ文明と言うものが存在していれば、おそらく21世紀初頭という時代がどんなものであったのか、そのときの人々の意識は、そのときの世界は人々にどのように映っていたのかを鮮やかに伝える重要な小説のひとつになるだろう。
いや、これは正確な評価ではないかもしれない。こういう言い方の背後には、われわれの文明がおそらくはこのままのかたちでつづいていくことはないだろう、われわれはまた暗黒時代をむかえることになるのではないか、というかすかな怖れがひそんでいる。

本書の主人公ヘンリー・ペロウンは、ロンドンの中心部に4階建ての邸宅を有する有能な脳神経外科医である。最高度の専門職の代表といってもいいだろう。かれの2003年のある土曜日の未明から翌日の未明までのほぼ24時間を克明に描いている。その日、ロンドンはブッシュ、ブレアのイラク開戦に反対する人々で埋めつくされていた。(ということは、この日はおそらく2月15日ということになる)

明け方に浅い眠りの表層に浮き上がったとき、ふと覚醒してしまうことはだれにもよくあることだ。ペロウンが未明に目覚めたのもそういうかたちだった。となりで眠る弁護士の妻の、自分と同じように貴重な睡眠を奪いたくないので、ベッドから出たかれは静かに窓外を眺める。もう眠りには戻れないだろう。公園を見下ろすかれの屋敷から夜勤帰りの看護婦とも思える女が二人歩いていたりする。そのときだ。はじめは明けきらぬ黒い空を染める赤い彗星かと思った。巨大な飛行機が中央部から火を噴きながらヒースローへの最終アプローチをつづけているのをペロウンは目撃する。ニューヨークの911の映像が脳裡を過ぎり、機内の乗客のパニックを想い、コクピットで行われているであろうプロらしい緊急時の手順を思い浮かべる。単なる事故なのか、それともイラク開戦を前に予告されていたテロなのか。いずれにせよ、すでに関係する空港や警備や非常事態に対応する機関は動き出しているだろう。かれにいまできることはなにもない。
このように主人公の一日はすべりだす。なめらかな加速感。その読書の感触は、クローム鍍金仕上げの高級車や優美なリニアジェットを思わせる。(乗ったことないけど(笑))情動的な要素を、まるで不純物のように濾過して、合理的で知的な要素で小説ははじめうちは構成されている。やがて、ここに異質なものが、不合理で野蛮なものが不協和音を上げながら侵入してくるのだが――

ペロウンが自宅でシャワーを浴びながら考えること。

ペロウンは流れ出るシャワーの下に踏み込む。四階からポンプで運ばれてくる強力な水流だ。現在の文明が崩壊し、かつてのローマ人と同じ役割を担った者たち(それが誰であろうと)がついに姿を消して新たな暗黒時代が始まったときには、このシャワーは真っ先になくなる贅沢のひとつだろう。泥炭の焚火を囲んでうずくまった老人たちが、信じがたい顔をしている孫たちに語って聞かせるのだろう——冬のさなかに熱い清潔なジェット水流の下に裸で立ったこと、香りのついた菱形の石鹸のこと、髪の毛を実際よりも艶っぽく見せるためにすりこむ琥珀色や朱色をした粘性の液体のこと、ローマ人のトーガなみに大きなタオルがラックの上で温まっていたことを。
p.182

この空想は、現在の快適な生活様式を満喫しながら、しかしどこかでこれが続くはずがないという不安と重なっている。
この小説の主題を、西側先進国の理性とムスリムの原理主義という関係に還元してしまうことは、あまりほめられた読み筋ではないといわれるかもしれない。まあ、たしかにそうだろう。われわれの不安はもうすこし深く複雑である。
(注意、本書にはムスリムはほとんど登場しない。かれらの宗教に関する直接的な言及もない。だから、この小説をそういいう文脈で読もうとしているのはわたしのまったくの恣意である。念のため)
しかし、わたしにはマキューアンはここで、現代の世界をあえて単純に切り取って、いまの文明の基となる理性が世界の一方にあり、またこの理性を破壊し否定する心性が他方にあることを、ある意味では露骨に描いているように思える。

人間にとって、死をものりこえるつよい動機は何だろうか。
そういうものを、あるいは信仰とよぶのだとすれば、摩天楼に航空機を突入させながら「神は偉大なり」を絶叫する者たちに対して、われわれがカウンターパートに置くことのできるものがあるのだろうか。

長い一日の終わり近く、さほど困難なものではないが、しかし、かれにとって意味のある脳外科手術を行いながらペロウンはこう思う。

最近のめざましい進歩にもかかわらず、この丁寧に保護された一キログラムそこそこの細胞がどのように情報を暗号化し、どうやって経験や記憶や夢や意図といったものを保持するのかは明らかにされていない。だが、自分が生きているうちには無理でも、いずれは暗号化のメカニズムが解明されることをペロウンは疑わない。DNAの中にある生命再生産のデジタルコードが解き明かされたように、脳の根本的な謎もいつの日か封印を解かれることだろう。けれども、その日が来ても、驚異の念は失せることがあるまい。単なる濡れた物質が人間の内面に思考というシネマを作り、視覚と聴覚と触覚を総合して現在の瞬間という鮮烈な幻想を生み出し、その中心にはもうひとつの華麗な幻想である自我というものが幽霊のごとくに漂っているという不思議さ。物質がどのようにして意識を持つのかが解明される日は来るのだろうか?自分には満足ゆく説明を夢見ることさえできないが、説明がつく時は必ず訪れるだろう——科学者と研究施設が存在する限り、何十年という時間を掛けてさまざまな説明が洗練され、意識についての厳然たる事実として受け入れられるようになるだろう。その過程はすでに始まっており、この手術室からほど遠からぬ実験室でも営々たる努力がなされている。長い旅路がいずれは完結するであろうことを、自分は確信している。これこそが、自分が抱く唯一の信仰だ。この世界観には崇高なものがある。
p.309

わたしは、歴史の中でかりに滅ぶことになるものであっても、このペロウンのもつ世界観を共有する。究極の唯物論、無神論でありながら、同時に「信仰」でもあるこの世界観にはたしかに崇高なものがあるとわたしは思う。
「神は偉大なり」を叫ぶことは、生きている限りしたいとは思わない。願わくば、われらの子孫もそうであれと願う。

訳は小山太一。上記の引用であきらかなように見事な翻訳。

土曜日 (新潮クレスト・ブックス)

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2008/11/26

Dragon Illusion

Dragon_illusion 子供のころ、少年雑誌の付録でいろんなペーパー・クラフトをつくって遊んだという人は多いだろう。そういう方に、ちょっと子供時代の工作を思い出すたのしいおもちゃをご紹介。
目の錯覚を利用したこちらのおもちゃ、無料配布されていますので、カラー・プリンターとはさみとテープがあればものの10分もあれば完成。(こちら)
作り方は簡単ですが、肝心なのは頭のところ、展開図に書かれている山折と谷折の指示を間違えないようにご注意。片目をつぶって見るとまず間違いなく、ドラゴンの視線が追いかけてきます。脳に立体の凹凸を逆に認識させると、両目で見てもこの錯視がおこる。家族に見せたら、ああ、これテレビでやってたわ、ということでしたので、有名なんでしょうが、自分でつくってみるとちょっとの間、遊ぶことができてたのしい。デジカメの動画でみるとどんな感じかわかると思います。

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2008/11/22

ミート・ザ・ペアレンツ

「ミート・ザ・ペアレンツ」とその続編「ミート・ザ・ペアレンツ2」をDVDで見る。
ええと、これはオススメと言ってしまうと、少々具合が悪いかなあ。
あらかじめ、いささか下品なコメディですよ、とお断りしておきますが、けっこう面白くて、わたしは買いです。
監督はどちらもジェイ・ローチ。制作にはどちらもロバート・デ・ニーロが入っていますので、もともとこういうコメディがやりたかったのかもね。「アナライズ・ミー」も悪くはなかったが、こっちのほうが面白いような気がするな。

「ミート・ザ・ペアレンツ」のストーリーはいたって単純で、題名のとおり恋人の両親と会うというだけのもの。お嬢さんをわたしにください、ということで会いに行くのですね、もちろん。
ところが、世の親父というのは誰だって、こういう場面では理性と感情が食い違うものですから、ここに笑いの種が生ずる。しかも、最初から気まずい滑り出しが、不運も重なって、どんどんひどい状況になり、最後は大爆発という予想通りの展開で、まあ、まったく意外性がないところがむしろお手柄、げらげら腹を抱えて笑えるコメディなんであります。

この運の悪い若者にベン・スティラー、親父がロバート・デ・ニーロ。いくらなんでも、こりゃやりすぎだよなあ、という演技なんですけれど、そこはそれ、このあくどさがなんかくせになる。ただし、このあたりの下品な笑いの取り方が不快だという意見もあるようです。たしかにそういう面は否めない。

20081122 「ミート・ザ・ペアレンツ2」は、原題が「Meet the Fockers」といいまして、こんどは双方の家が顔合わせをするという内容。ベン・スティラー演ずる若者の名前が、ゲイロード・フォッカーで、つまりフォッカー家との対面というわけ。
で、まあ、日本人でもこの名前ひどい名前だと思うが、そもそもこの名前のところからして、品のないげらげら笑いが始まっているというわけ。しかもフォッカー家の両親は、ダスティン・ホフマンとバーバラ・ストライザンドなんですが、これだけでもうなんだか、おかしくなるでしょ。役柄がこれまた予想通りのぶっとび方で、もうおかしいったら。
わたし的には、この続編の方がいち押しなんですけれど、これを楽しむためには前作は必見で、要するに順番に見るのが正解ということになります。

あ、ただし、主人公の名前が「Focker」てえくらいですからね、そういうきわどい冗談は苦手だという方はどうぞ無視してくださいませ。(笑)

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2008/11/20

池田澄子さんの「ふたりの父」

20081120 『あさがや草紙』池田澄子(角川学芸出版)は、ベースになっているのは俳句総合誌「俳句」の同名の連載エッセイだが、連載のときの順序をいったん無視し、新聞や結社誌、同人誌などに書かれた別のエッセイなどを織り込んであらたに編集されている。
だから月刊の連載で毎月楽しみに全部読んできたという方でも、再読したという以上の満足を得られると思う。とくに、本書には、この本のために新たに書かれたらしい「未発表」と記された重要な文章もふくまれている。

池田澄子さんについてはこれまで二回、取り上げてきた。(「ここ」「ここ」
その俳句からわたしが思い描いていたことは大筋で間違ってはいなかったと思うが、本書の「二人の父」(未発表)で、ご本人がよりくわしく、重要なことを明かしておられた。すくなくともこの文章にあたるためだけでも、本書を求める意味はあるだろう。

関連する他の文章も交えて、わたしなりにまとめると次のようなことになる。

池田澄子さんの父・清蔵は産婦人科医であったが軍医として招集され、中支に派遣された。このとき池田さんは7歳くらいだったはず。長身痩躯で前髪が額にかかる美男子の父、大学のオケでは第一ヴァイオリン奏者だった父が彼女には自慢だった。
清蔵は漢口の部隊で蔓延した腸チフスに感染し戦病死した。34歳の若さだった。すでに戦争は敗色濃厚で、上官でもあった病院長が遺骨と遺品を別々の便で日本に送ってくれた。恐れていたとおり遺骨を托した船は敵の攻撃を受けて沈没したが、幸い遺品を托した船は無事日本に還りついた。遺品は妻のために中国で誂えた革靴と日記などであった。若い未亡人と三人の子供(池田さんとふたりの弟)は父親の里である新潟にいた。祖父母は健在で、生活に困ることはなかったが、若い母親は絶望し途方に暮れていただろう、と現在の池田さんは記している。
やがて敗戦。父の弟・勝がラバウルから帰還した。マラリヤの薬による後遺症で黄色い顔をしていた。二年後、父の弟である勝と母親は結婚する。家を継ぐための結婚ではなかったと池田さんは記す。結婚と同時に三人の子供の父親になり、その後、さらにやはり医者の息子を戦争で喪った妻の母親も引き取った。
清蔵の親友がのちに池田さんに、「マサルちゃんはキリストみたいなやつだね」と語ったという。(ここを読んで、私は泣いた)

池田さんの文章を少しだけ引く。全体はぜひ本でお読みいただきたい。

私の俳句の中の「父」は、私の父でありながら、父という存在そのものでなければならなかった。更には、亡くなった父は、戦争で可憎(あたら)若くして命を奪われた人々の「一具象」として、私の俳句の中に在らねばならなかったのである。
そのために、私の書いたものの中に父・勝は居ないかのように見える。そのことを、育ててくれた父に対して余りにも申し訳なく思ってきた。父・勝に育てられたことで、私の今があり、その現在の私が、理不尽に若くして死ななければならなかった人たちの、生きて居た証しを書き残したいと願っているのだから。そのことを一度は言葉にしなければならなかった。

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2008/11/19

吉岡実の俳句

『吉岡実句集 奴草』(書肆山田)には、高橋睦郎の「一つの読み」という文章が巻頭に、宗田安正による解題が巻末についている。それによれば、吉岡実は、詩を本格的に書き出す以前、俳句、短歌に熱中していた時代があり、現代詩の世界で名をなしたあとも、終世、さまざな句集や歌集に親しみつづけた。「詩・短歌・俳句の三位一体は吉岡の最晩年までつづいていた」(高橋)。

吉岡の二十歳の時の日記、1939年11月11日の条に、「句作にはげむ。いつか句集〈奴草〉を編みたいと思う」とあるが、実際に「奴草」がまとめられたのかどうかは確認されていなかった。ところが吉岡の没後、遺品のなかに自筆詩集「赤鴉」という、これもまた幻とされていた詩集がみつかり、このなかに「奴草」が収められていたという。

この吉岡が句作にはげんでいた二十歳前後の時代は、市井の運座に出たり、友人と句会を開いたりして修行をしたようだが、俳句作品の発表は日野草城の「旗艦」によった。ただし、草城選の「旗艦作品」の投句欄ではなく、神生彩史選の「輪形陣」と、安住敦選の「珊瑚礁」がその発表の場であった。俳号は皚寧吉、のちに本名でも投稿したとのこと。

「奴草」のなかからいくつか抜いてみる。端正ないい句が多い。
時代背景は戦中、作者の年齢は十代の終りころ、ということを頭においてお読みください。

  春雨や人の言葉に嘘多き
  赤貝のひらく昼なり雨遠し
  蛤の砂吐く夜の寝ぐるしき
  ゆく春やあまき切手の舌ざはり
  枯蓮折れてしづめば雨後の月
  飛魚や舟のゆくてに雲の湧く
  赤とんぼ寝小便蒲団干されけり
  草に消ゆ子らの軍歌や夕蛙
  子を負ふて釣する人や秋の雲
  赤とんぼ娼婦の蒲団干してある
  盥から鼠とび出す夜寒かな
  夕燕酒買ひにゆく姉弟
  冬薔薇や鏡にのこる指のあと
  歯磨粉すこしこぼしぬ鳳仙花

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2008/11/16

「倫理的規律と自己否定」田母神問題をめぐって

航空自衛隊の田母神幕僚長の懸賞論文問題について、新聞やテレビの報道を見て、なにか釈然としないものを感じながら、それが何であるかがよくわからなかった。
まあ、いいけどさ、とやり過ごしていたのは、たぶん、自分なりの考えをまとめるためには、やはり田母神論文なるものを一応は読むべきだろうなあ、と思って、しかしそれがあまり気の乗らないことだったからだろう。
しかし、テレビで見ただけだが、この人物と、これをどうやら叱っているつもりらしい国会議員たちの風貌や言動を見ていると、わたしには命令に従わせるべき軍人に、国民の代表たちが言い負かされているように見えた。一言でいえばたよりない。こんなやつらで、ほんまにだいじょうぶかいな。

今日、村上龍のメールマガジンJMMで、評論家・会社員という肩書きで寄稿している水牛健太郎氏の「田母神論文問題――浮き彫りになる政治とメディアの危機」というエッセイを読んで、ああ、そうだな、これがもやもやのポイントだったんだなと思った。JMMはその公式サイトでメールマガジンに発信したエッセイを毎週掲載しているので、おそらく来週にはメールの購読をしていない人にも読めると思う。

わたしが思うに、この水牛健太郎氏の文章のポイントは、次のようなところではないかと思う。少々長いが引用する。

日本の過去に対する考えは人それぞれであり、国内に大きな世論の分裂を抱えている。しかし、村山談話と言われる一つの立場を政府が国際的に打ち出し、それを基礎として周辺諸国との関係構築を進めてきたことは事実だ。国際政治において、過去の歴史に対する見方は外国との関係構築の基盤となるものであり、現実的な意味を持っている。好むと好まざるとに関わらず、ある一つの歴史観の上に日本の国際的立場が築かれてきた。田母神氏の行為は、そうしたこれまでの積み重ねを危険にさらす。

村山談話に対する異議があったとしても、その議論は、政治の場でなされるべきである。文民統制の対象である自衛隊員は、この議論に公に参加する資格はない。自衛隊員は政治的な意思決定とは距離を置き、自分の職務を着実に果たすことが務めである。現在の政府の立場と異なる意見を公に表明する自衛隊員にも言論の自由は保障されているので、逮捕されることはないが、自衛隊員としての適格性がなくなるので、職を失うのは当然と言わなければならない。

つまり、今回の問題では、田母神氏の主張の具体的な内容の一つ一つが問題なのではない(だから、この文章でも、田母神氏の論文の内容を検討する事はしていない)。
この問題は、国家運営に関する原理原則の問題である。統一された政治意思のもと、海外との関係を構築していくという、国家のあるべき姿をいかに守っていくかが問題とされているのである。

ここで、わたしが思い出したのは、マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』だった。
政治家の職分・責任・倫理と官吏の職分・責任・倫理について書かれたものがあったな、と思った。探してみた。ここの箇所だ。

官吏にとっては、自分の上級官庁が──自分の意見具申にもかかわらず──自分には間違っていると思われる命令に固執する場合、それを命令者の責任において誠実かつ正確に──あたかもそれが彼自身の信念に合致しているかのように──執行できることが名誉である。このような最高の意味における倫理的規律と自己否定がなければ、全機構が崩壊してしまうであろう。

マックス・ヴェーバーがここでいっていることは、もちろん文民統制についてではないし、ここでこれを想起することが、適切なのかどうかもよくはわからない。たぶん、適切な連想ではないだろう。
しかし、わたしなりに考えて言えることは、国会議員は、国民の代表としてこの田母神という軍人を、気概と信念とをもって、叱り飛ばす必要があったということだ。
それは、わたしの大嫌いな政党なんかが言っているように、かれが間違っているとか、思想的に問題があるから、ということではない。そんなことはここでは問題ではない。国家意思という権威に対する服務規律の問題である。

あくまで国に仕えるつもりならば、自分の個人的な思想信条と明らかに異なる見解を政府が出しても、公式にはあたかもそれが自分自身の信念に合致しているかのように仕えなさい。もしそれができないなら(人間としてはそんなことはできないという場合が多いだろう)、もし政府見解は間違っていると公の論文などで批判したいなら、まずその地位を離れてから主張なさい。その地位を保って、しかもその仕える政府の見解を否定するとは、なにごとですか。この点についてあなたは申し開きができるのか。

そういうふうに聴聞が行われたとすると、たとえばわたしが田母神氏ならどうするだろうか。ふたつの道がとりあえず考えられる。

その一。たしかに、その点に限っては、わたしの不心得でありました、と誤りを認めて謝罪する。

そのニ。いいえ、そうは思いません。政府の見解や方針そのものが「正しくない」と信じる場合には、国の高官はあえてその立場に留まれるだけ留まって、良心にしたがい「正しい」と信じる行動をするべきです。かつて第二次世界大戦で杉原千畝がしたように。すべては歴史が判断するでしょう。

後者の場合は、あきらかに確信犯で、現政府への反逆ですから、即刻、懲戒免職にすべきでありましょう。前者の場合も、当然、相当の処分を行うべきである。

そういう議論を、堂々と国会でわれわれ国民にしかと見せて、ありゃ田母神のほうが正論だよな、などという意見が世論になるようなことがないようにするだけの、真に言論だけで立てる政治家は、いまの日本にはいないのかなあ。
いないんだろうなあ。

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2008/11/11

「ESL Podcast」はおもしろい

なにしろ人間がもうすっかり旧式になっているのだろう、なにかにつけて自分が10代のころ(1970年代前半)のことと、いま現在のことをくらべて、ひとりで感慨にふけったりすることがある。おっさんの懐旧談なんか、うっとおしいだけだと思うので、ほんとうは人に話したりすることでもないのだろうけれど。

たとえば、英語で書かれたテクストやリスニングのための材料について。

中学ではじめて英語を習った田舎町の少年にとって、ホンモノの英語に触れる機会というのはとても貴重だった。学校で日本人の先生が、発音のお手本を聞かせてくれても、なんだか信用できなかったし(もっともいまから思うとそうバカにしたものでもなかったような気もする)身近にネイティヴ・スピーカーがいるわけでもなかったので、たぶんこの世代の多くの人がそうしたように、NHKラジオの基礎英語、続基礎英語、英会話なんてプログラムを早朝と、夕方の再放送の二回聞こうなんてがんばったものだ。

ちなみに、わたしがはじめてしゃべったネティヴ・スピーカーというのは、いまから思うとちょっとおかしいのだが、同世代の女の子である。名前は忘れてしまったけれど、シカゴからきたプラチナブロンドのとてもチャーミングな子だった。彼女が日本でホームステイしていたおうちのご主人とわたしの父が知り合いだったので、同じ年頃の男の子がいるから話してごらん、てなことだったのだろう、我が家に連れてきたのであります。もちろん、まだ中学生ですからね、ほとんど会話になんかならなかったし、相手がどうみてもジャネット・リンかマルレーヌ・ジョベールみたいな美少女でしたからね、トトロのカンタくん状態。(笑)

閑話休題。
そんなふうに、英語で書かれたテクストといえば学校の教科書や市販の参考書だし、リスニングの材料としてはラジオ講座の録音くらいしか身近にはなかった。あとは音楽のアルバムを歌詞を見ながら聴くとかね。でも、そんなふうに材料があんまりなかったにしては、あるいはあまりなかったからかえってよかったのかもしれないが、曲がりなりにも、しばらくするとある程度はわかるようになったものだ。

20081111_2 ところで最近、これはいいなあ、と思っている教材をひとつ。
ESL Podcastという。(こちら)
ポッド・キャストでこいつを購読して、iPodで聴いている。過去の放送分もたくさんあるのでそれもダウンロードできる。

BBCやCNNやABCのニューズ番組もいいのだが、わたしのレベルではちとしゃべりが速すぎて、ついていけないことが多い。その点、このプログラムはセカンドランゲージとして英語を独習する人たちを対象にしているので、ゆっくりと明瞭な発音でしゃべってくれるのですね。わたしでもしっかり聞き取れて、トピックの流れについていける。しかも、話題が、なかなか面白くて、ひねりもあり、あきがこない。そしてなにより、すべてただだというのが素晴らしい。
通勤や休日に歩く時間はこのプログラムを聴くことが多いけど、とてもよくできた内容だと思う。

ちょっとした会話をゆっくりパラフレーズしながら噛み砕いて説明し、最後に普通の会話のスピードで聞き取るようにした内容が定番なのだが、別に「English Cafe」という放送のコラム版みたいなプログラムもあって、アメリカの有名な人物をシリーズで紹介するとか、歴史、地理、人文などのアメリカ人にとっては常識だが、あまりきちんと説明されていない(常識ってかえってそういうもんだよね)ことを、ゆっくり丁寧に説明するものもあって、わたしにはこれがとても面白い。

たとえばこんな話題。

ニューヨークっ子はニューヨーカー(New Yorker)。ならシカゴっ子はなんて呼ぶ?ロサンジェルスだったら?
答えは、シカゴアン(Chicagoan)にアンジェリーノス(Angelenos)なんだって。知ってました?こういう呼び方は“demonyms” というのだそうです。きまったルールはないけど、なんとなくみんな覚えてしまうというようなものらしい。

いまの時代、もし子供のときに英語に興味をもったら、英文テクストでもリスニングの材料でも、あるいは生きたネイティヴ・スピーカーでも、好きなだけふんだんに活用することができるのだろうな、とちょっとうらやましいような思いがする。いま、わたしがあのころの年代の少年だったら、もうすこし「出来る」ようになったかなあ、なんてね。

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2008/11/08

しみじみ読むアメリカ文学

20081108 『しみじみ読むアメリカ文学/現代文学短編作品集』(松柏社)を読む。
題名がいささか鼻につくが、言わんとするところはわからないでもない。編者の平石貴樹の「はじめに」から—

なぜなら文学はしかつめらしい教訓ではないし、ましてや政治論文ではないからだ。「それぞれの場所で、みんながんばってるんだなあ」と確かめることによって得られる静かなよろこびやなぐさめというものはあって、人はいつもしみじみ文学を読む。

ということで、わかりやすくてしみじみした短編小説(詩も一編あるが)12編を6人の翻訳者が選んで、それそれにごく簡単な解説も付したというアンソロジーである。この訳者による解説が、長さの制約があったのだと思うが、短いのがかえって功を奏し、簡にして要を得たものになっていて、どれもなかなか面白い。

発行元の松柏社というのはわたしにはあまりなじみのない名前だが、英文学の教科書や英語教育関係の書籍をもっぱらあつかう出版社のようだ。訳者はみな大学の先生のようだから、もしかしたら大学の英文学人脈というようなものがベースにあるのかもしれない。そして、こういうアンソロジーの出来不出来というのは、ほんとうにたくさん読んでいる人が、そのなかから自分のお気に入りを、これ絶対面白いよ、という風に編んでくれているかどうかにかかわっているので、その意味では、本書は十分に合格点が出せる。さすがに専門家の目が利いているという感じ。

ただし、このアンソロジーの収録作品、かならずしも全部が全部「わかりやすい」とは言えないかもしれない。正直なところ、ちょっと「うん?」というものもある。まあ、それはそれで、また、どこかこころにひかかって面白いと言えなくもないのだけれど。

覚えとして、収録作のリストを書いておく。印象深かったものにwineをつけておく。
とくにボールドウィンの「サニーのブルース」はジャズ小説として最高のものだと思う。ル=グウィンとヴォネガットも、こんな作風のものがあったんだな、と意外。これらを知っただけでも本書は値打ちがあったな。

「八〇ヤード独走」 アーウィン・ショー/平石貴樹訳 wine
「立場を守る」 アーシュラ・K・ル=グウィン/畔柳和代訳 wine
「家なき者」 カート・ヴォネガット/舌津智之訳 wine
「大切にする」 アン・ビーティ/橋本安央訳
「二人の聖職者」 リチャード・ボーシュ/本城誠二訳
「中空」 フランク・コンロイ/橋本安央訳 wine
「サニーのブルース」 ジェームズ・ボールドウィン/堀内正規訳 wine
「白いアンブレラ」 ギッシュ・ジェン/平石貴樹訳
「アトランティス そのほか」 マーク・ドウティ/堀内正規訳
「夏の読書」 バーナード・マラマッド/本城誠二訳
「砂漠の聖アントニウス」 ローリー・コルウィン/畔柳和代訳
「最後の記念日」 アースキン・コールドウェル/舌津智之訳 wine

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2008/11/04

ランダムウォーク営業再開

P1010616 京都に住んでる英会話の先生から、ランダムウォークが営業を再開してるよ、という話を聞いていたので、京都に出るついでにのぞいてきた。
やあ、ほんとうだ。
カウンターの女性に、いまどこが経営しているんですかと訊いてみたところ、民事再生法の適用を受けて破産管財人のもとで業務を再開しましたけれど、遠からず最終的には廃業になると思います、とのことであった。それは残念だねと言って、本を買う。

今年8月16日の条で「ランダムウォーク閉店」という記事を書いていますので、関西在住の人や京都に行くついでのある人にしか役に立たない情報ですけれども、遅まきながら以下のとおり訂正しておきます。

3002591296_290dfee333_o 寺町の洋書専門店ランダムウォークはいま営業を再開しています。おそらく在庫のクリアランスと整理が業務の目的なのでしょう、洋書はたぶん全点2割引で買えます。
500円均一の棚の本も2割引ですから、消費税込みでも一冊420円とかなりお得、まとめ買いがおすすめ。
今日買ったの次の5冊。5冊買って二千百円ですから、申しわけないような感じ。

The Best American Magazine Writing 2004
The Best American Mystery Stories 2007
Walt Whitman's Leaves of Grass
Cross (James Patterson)
Limitations (Scott Turow)

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2008/11/03

死者は死んでいない

死者は死んでいません。私たちが生きている以上、それは十分過ぎるほどはっきりしています。死者たちは思考し、話し、行動します。死者たちは忠告したり、望んだり、賛成したり、非難したりすることが出来ます。すべてそれは本当です。しかし、その声を聞かねばなりません。(中略)
死者たちは生きることを望んでいます。彼らはあなたの裡に生きることを望んでいます。彼らは、私たちの人生が彼らの望んだことを沢山実現していくことを望んでいます。かくして墓の中の死者たちの人生は、私たちに戻ってきます。かくして私たちの思考は、今年の冬を越えて来年の春に、若葉が出るまで喜び勇んで跳びはねます。私は昨日リラの木を見ましたが、葉は今にも落ちるところでした。でも、そこにリラの木の芽が出ているのを見ました。

アラン『初期プロポ集』

仕事の上で迷ったり、むつかしい決断をしたり、部下にその判断を伝えたりするとき、かつてのメンターが、わたし自身と重なっているような感覚で、そこにいるのを感じることが最近よくある。わたしがしゃべったり、表情を変えないように感情を制御したりしているのだが、それは同時に、きっとあの人なら、この場面でこんなふうにしゃべったり、顔に出さずにいる態度に違いない、いや、たしかにそんなことがむかしあったはずだ、というような一種の既視感とでもいうような。

仕事を教えてもらった、というようなことはたいしてなかった。
仕事の話より、むしろ学生時代にどんなことを考えていたのか、とか、いま何を考えているのか、というようなことをもっぱら話していたような気がする。
職業生活のなかでその人が体得した知恵のようなものを、どんなふうに複雑な人間関係の中で生かしているか、それを見ておけというような感じだった。べつにそんなことを言われたわけでもなかったけれど。

もうすぐ、今年もその人の命日がやってくる。死んだ人は年をとらないから、毎年、年の差がなくなる。やがてメンターの年を追い抜くことになるのだろう。

迷ったときは、ねえ、こんなとき、あなたはどうやって乗り越えていましたか、と聞いてみる。
答えはある。わたしと一緒にその人が、そうおれのときもそうした、それでいい、それで行くんだと、言っていることがわたしにはわかる。

その人が若いときから担っていた職責の重さも、課された仕事の量も質も、それらとはまったく比べ物にはならないようなポジションで同年齢に近づこうとしている不肖のプロテジェではあるが、わたしが生きてゆくことは、その人がわたしのなかで、生きてやりたかったことをいっしょにすることになるんだとようやく思えるようになった。
五年前にお別れを言ってから、ずいぶん長い時間がかかった。あいかわらず、君は手がかかるな、とわたしのなかであなたが言った。

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2008/11/01

10月に読んだ本

『夕映え—森明歌集』(ふらんす堂/2002)
『花神帖』鈴木漠編(編集工房ノア/2003)
『名ごりの夢—蘭医桂川家に生れて』今泉みね(東洋文庫・平凡社)
『東方綺譚』ユスナール/多田智満子訳(白水社/1980)
『The Annotated Pride and Prejudice』Jane Austen/David M. Shapard(Alfred a Knopf/2007)
『流水抄』井本農一(角川書店/1980)
『伊勢集の風景』山下道代(臨川書店/2003)
『占領と改革—シリーズ日本近現代史 7』雨宮昭一(岩波新書/2008)
『分別と多感』ジェイン・オースティン/中野康司訳(ちくま文庫/2007)
『萩原朔太郎雑志』富士川英郎(藤原書店/1979)
『ただごと歌の系譜—近世和歌逍遥』奥村晃作(本阿弥書店 /2006)
『アメリカの61の風景』長田弘(みすず書房/2004)
『生命とは何か—物理学者のみた生細胞』シュレーディンガー/岡小天,鎮目恭夫訳(岩波新書)
『説きふせられて』ジェイン・オースティン/富田彬訳(岩波文庫/1998)
『つぎの岩につづく』R.A. ラファティ/伊藤典夫、浅倉久志訳(早川文庫/1996)
『コヨーテは待つ』トニイ・ヒラーマン/大庭忠男訳(早川文庫/1993)

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10月に見た映画

ライラの冒険 黄金の羅針盤
THE GOLDEN COMPASS
監督:クリス・ワイツ
出演:ニコール・キッドマン、ダコタ・ブルー・リチャーズ、サム・エリオット、エヴァ・グリーン

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