マキューアン『土曜日』
イアン・マキューアンの『土曜日』(新潮社)は、100年後あるいは200年後に、まだ文明と言うものが存在していれば、おそらく21世紀初頭という時代がどんなものであったのか、そのときの人々の意識は、そのときの世界は人々にどのように映っていたのかを鮮やかに伝える重要な小説のひとつになるだろう。
いや、これは正確な評価ではないかもしれない。こういう言い方の背後には、われわれの文明がおそらくはこのままのかたちでつづいていくことはないだろう、われわれはまた暗黒時代をむかえることになるのではないか、というかすかな怖れがひそんでいる。
本書の主人公ヘンリー・ペロウンは、ロンドンの中心部に4階建ての邸宅を有する有能な脳神経外科医である。最高度の専門職の代表といってもいいだろう。かれの2003年のある土曜日の未明から翌日の未明までのほぼ24時間を克明に描いている。その日、ロンドンはブッシュ、ブレアのイラク開戦に反対する人々で埋めつくされていた。(ということは、この日はおそらく2月15日ということになる)
明け方に浅い眠りの表層に浮き上がったとき、ふと覚醒してしまうことはだれにもよくあることだ。ペロウンが未明に目覚めたのもそういうかたちだった。となりで眠る弁護士の妻の、自分と同じように貴重な睡眠を奪いたくないので、ベッドから出たかれは静かに窓外を眺める。もう眠りには戻れないだろう。公園を見下ろすかれの屋敷から夜勤帰りの看護婦とも思える女が二人歩いていたりする。そのときだ。はじめは明けきらぬ黒い空を染める赤い彗星かと思った。巨大な飛行機が中央部から火を噴きながらヒースローへの最終アプローチをつづけているのをペロウンは目撃する。ニューヨークの911の映像が脳裡を過ぎり、機内の乗客のパニックを想い、コクピットで行われているであろうプロらしい緊急時の手順を思い浮かべる。単なる事故なのか、それともイラク開戦を前に予告されていたテロなのか。いずれにせよ、すでに関係する空港や警備や非常事態に対応する機関は動き出しているだろう。かれにいまできることはなにもない。
このように主人公の一日はすべりだす。なめらかな加速感。その読書の感触は、クローム鍍金仕上げの高級車や優美なリニアジェットを思わせる。(乗ったことないけど(笑))情動的な要素を、まるで不純物のように濾過して、合理的で知的な要素で小説ははじめうちは構成されている。やがて、ここに異質なものが、不合理で野蛮なものが不協和音を上げながら侵入してくるのだが――
ペロウンが自宅でシャワーを浴びながら考えること。
ペロウンは流れ出るシャワーの下に踏み込む。四階からポンプで運ばれてくる強力な水流だ。現在の文明が崩壊し、かつてのローマ人と同じ役割を担った者たち(それが誰であろうと)がついに姿を消して新たな暗黒時代が始まったときには、このシャワーは真っ先になくなる贅沢のひとつだろう。泥炭の焚火を囲んでうずくまった老人たちが、信じがたい顔をしている孫たちに語って聞かせるのだろう——冬のさなかに熱い清潔なジェット水流の下に裸で立ったこと、香りのついた菱形の石鹸のこと、髪の毛を実際よりも艶っぽく見せるためにすりこむ琥珀色や朱色をした粘性の液体のこと、ローマ人のトーガなみに大きなタオルがラックの上で温まっていたことを。
p.182
この空想は、現在の快適な生活様式を満喫しながら、しかしどこかでこれが続くはずがないという不安と重なっている。
この小説の主題を、西側先進国の理性とムスリムの原理主義という関係に還元してしまうことは、あまりほめられた読み筋ではないといわれるかもしれない。まあ、たしかにそうだろう。われわれの不安はもうすこし深く複雑である。
(注意、本書にはムスリムはほとんど登場しない。かれらの宗教に関する直接的な言及もない。だから、この小説をそういいう文脈で読もうとしているのはわたしのまったくの恣意である。念のため)
しかし、わたしにはマキューアンはここで、現代の世界をあえて単純に切り取って、いまの文明の基となる理性が世界の一方にあり、またこの理性を破壊し否定する心性が他方にあることを、ある意味では露骨に描いているように思える。
人間にとって、死をものりこえるつよい動機は何だろうか。
そういうものを、あるいは信仰とよぶのだとすれば、摩天楼に航空機を突入させながら「神は偉大なり」を絶叫する者たちに対して、われわれがカウンターパートに置くことのできるものがあるのだろうか。
長い一日の終わり近く、さほど困難なものではないが、しかし、かれにとって意味のある脳外科手術を行いながらペロウンはこう思う。
最近のめざましい進歩にもかかわらず、この丁寧に保護された一キログラムそこそこの細胞がどのように情報を暗号化し、どうやって経験や記憶や夢や意図といったものを保持するのかは明らかにされていない。だが、自分が生きているうちには無理でも、いずれは暗号化のメカニズムが解明されることをペロウンは疑わない。DNAの中にある生命再生産のデジタルコードが解き明かされたように、脳の根本的な謎もいつの日か封印を解かれることだろう。けれども、その日が来ても、驚異の念は失せることがあるまい。単なる濡れた物質が人間の内面に思考というシネマを作り、視覚と聴覚と触覚を総合して現在の瞬間という鮮烈な幻想を生み出し、その中心にはもうひとつの華麗な幻想である自我というものが幽霊のごとくに漂っているという不思議さ。物質がどのようにして意識を持つのかが解明される日は来るのだろうか?自分には満足ゆく説明を夢見ることさえできないが、説明がつく時は必ず訪れるだろう——科学者と研究施設が存在する限り、何十年という時間を掛けてさまざまな説明が洗練され、意識についての厳然たる事実として受け入れられるようになるだろう。その過程はすでに始まっており、この手術室からほど遠からぬ実験室でも営々たる努力がなされている。長い旅路がいずれは完結するであろうことを、自分は確信している。これこそが、自分が抱く唯一の信仰だ。この世界観には崇高なものがある。
p.309
わたしは、歴史の中でかりに滅ぶことになるものであっても、このペロウンのもつ世界観を共有する。究極の唯物論、無神論でありながら、同時に「信仰」でもあるこの世界観にはたしかに崇高なものがあるとわたしは思う。
「神は偉大なり」を叫ぶことは、生きている限りしたいとは思わない。願わくば、われらの子孫もそうであれと願う。
訳は小山太一。上記の引用であきらかなように見事な翻訳。
土曜日 (新潮クレスト・ブックス)| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
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