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2008/11/20

池田澄子さんの「ふたりの父」

20081120 『あさがや草紙』池田澄子(角川学芸出版)は、ベースになっているのは俳句総合誌「俳句」の同名の連載エッセイだが、連載のときの順序をいったん無視し、新聞や結社誌、同人誌などに書かれた別のエッセイなどを織り込んであらたに編集されている。
だから月刊の連載で毎月楽しみに全部読んできたという方でも、再読したという以上の満足を得られると思う。とくに、本書には、この本のために新たに書かれたらしい「未発表」と記された重要な文章もふくまれている。

池田澄子さんについてはこれまで二回、取り上げてきた。(「ここ」「ここ」
その俳句からわたしが思い描いていたことは大筋で間違ってはいなかったと思うが、本書の「二人の父」(未発表)で、ご本人がよりくわしく、重要なことを明かしておられた。すくなくともこの文章にあたるためだけでも、本書を求める意味はあるだろう。

関連する他の文章も交えて、わたしなりにまとめると次のようなことになる。

池田澄子さんの父・清蔵は産婦人科医であったが軍医として招集され、中支に派遣された。このとき池田さんは7歳くらいだったはず。長身痩躯で前髪が額にかかる美男子の父、大学のオケでは第一ヴァイオリン奏者だった父が彼女には自慢だった。
清蔵は漢口の部隊で蔓延した腸チフスに感染し戦病死した。34歳の若さだった。すでに戦争は敗色濃厚で、上官でもあった病院長が遺骨と遺品を別々の便で日本に送ってくれた。恐れていたとおり遺骨を托した船は敵の攻撃を受けて沈没したが、幸い遺品を托した船は無事日本に還りついた。遺品は妻のために中国で誂えた革靴と日記などであった。若い未亡人と三人の子供(池田さんとふたりの弟)は父親の里である新潟にいた。祖父母は健在で、生活に困ることはなかったが、若い母親は絶望し途方に暮れていただろう、と現在の池田さんは記している。
やがて敗戦。父の弟・勝がラバウルから帰還した。マラリヤの薬による後遺症で黄色い顔をしていた。二年後、父の弟である勝と母親は結婚する。家を継ぐための結婚ではなかったと池田さんは記す。結婚と同時に三人の子供の父親になり、その後、さらにやはり医者の息子を戦争で喪った妻の母親も引き取った。
清蔵の親友がのちに池田さんに、「マサルちゃんはキリストみたいなやつだね」と語ったという。(ここを読んで、私は泣いた)

池田さんの文章を少しだけ引く。全体はぜひ本でお読みいただきたい。

私の俳句の中の「父」は、私の父でありながら、父という存在そのものでなければならなかった。更には、亡くなった父は、戦争で可憎(あたら)若くして命を奪われた人々の「一具象」として、私の俳句の中に在らねばならなかったのである。
そのために、私の書いたものの中に父・勝は居ないかのように見える。そのことを、育ててくれた父に対して余りにも申し訳なく思ってきた。父・勝に育てられたことで、私の今があり、その現在の私が、理不尽に若くして死ななければならなかった人たちの、生きて居た証しを書き残したいと願っているのだから。そのことを一度は言葉にしなければならなかった。

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