イスラームと西洋
よく意味がわからないけれど、気になる言葉というのがある。
たとえば今日読んだ『イスラームと西洋 ジャック・デリダとの出会い、対話』からムスタファ・シェリフのこんな発言。
次に、私たちイスラーム教徒が大事にしている二つの自覚を見てみましょう。第一に、〈存在する〉こととは本質的に言って、神秘と開示という形態で現れる、という自覚です。神秘と開示は、表面的にははっきりあらわれず、いわば姿を隠しているので、そのままの姿でそれを受け入れる必要があります。第二に、切っても切りはなせない同質性と多数性の関係はどうしても無視できない、という自覚です。つまりイスラーム教徒の記憶の奥底で共鳴している数々の主要な動向によって補強されている二つの次元の関係です。
第一の自覚のほうはなんとなくわかるような気がする。違っているかもしれないが、わたしが死んだあとも宇宙は永遠に続くのだろうか、わたしが無になるとはどういうことなのか、というような本質的な疑問に対しては、わたしたちは、なにもわからない、そんなことはわからない、という無力感と絶望におちいるしかない。しかしこれにたいして安心立命できる立場がもしあれば、それは、われわれが得意にしている理性や科学主義よりも、むしろ人間にとって善いもの、高次のものと言えるのではないか、というようなことではないだろうか。
第二の自覚は、これは具体的になにを言っているのか、むつかしい。わたしはこれは寛容ということを言っているのだと読んだ。すべてを同じにすることはできない。かならず多数のもの、多様なもののなかにあるからこそ、逆に同質性というものがあり得る。不寛容で多数性を認めないという運動は先祖の記憶でうまくいかなかったことを、イスラームならほんとうは知っているのだ、というような。それに対して、おまえさんたちはどうだね、歴史の終りとかなんとか言って、西洋のシステムという同質性に世界を染めようとしてはいませんかね、とかなんとか。
そして、まあ、こういう読みでいいのかどうか自信はありませんけれども、これはたしかにそうだなあ、という気もする。
あなたがたのモノにあふれた豊かな世界、これに見習えと偉そうに見せつけている世界というのは、じつは、すべてのものを商品にしてしまった、手に触れるすべてのよきものをカネに換算しているだけの貧しい世界ではありませんかね。人間の本質的な〈存在する〉という驚異につばを吐きかけ、パンとサーカスでその日を送り、最後には生命の真の意味もわからず死んでいくだけの世界に入れて欲しいと、本気でわたしたちが願っているとでも——。
わたしはあんまりうまい反論ができないな。
ま、でもそんなん言うならサウジの王様あたりから、なんとかせえよ、とか?(笑)
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