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2009/01/30

短歌の友人(承前)

昨日につづいて穂村弘のこと。
『短歌の友人』の「読みの違いのことなど」という文章には、1990年に第一歌集『シンジケート』を出したあとに、石田比呂志にこっぴどく批判された話が出ている。
孫引きになるが石田の批判の一部を転記してみよう。石田の文章の初出は「雁」21号、タイトルは「シンジケート非申込者の弁」。

決定的に穂村の歌に欠けているのは具体的な物質感と生活感であろう。私流にもっと言えば、それらの影に息づいているはずの、自己とは何か、人間とは何か、人生とは何かということへの真摯な問いかけの欠如。もののあわれや無常観を根っこにしたところの死生観ではあるまいか。

あるいは——

いや、もしかしたら私の歌作りとしての四十年は、この一冊の歌集の出現によって抹殺されるかもしれないという底知れぬ恐怖感に襲われたことを正直に告白しておこう。本当にそういうことになったとしたら、私はまっ先に東京は青山の茂吉墓前に駆けつけ、腹かっさばいて殉死するしかあるまい。

ははは、言いたいことはよくわかる。
穂村は、これを一読、ショックで頭の中が真っ白になったという。なんで、ただそいつのつくる短歌が気に入らんというくらいのことで、一度も会ったことのない人間に対して、「おまえは人間としてだめだ」てな人格の完全なる否定を言い渡したりできるのよ、このヒトというわけ。ま、それもたしかに。(笑)

しかし、あとになって穂村が冷静にこのときの衝撃——恐怖や怒りや悲しみや混乱と、かれは書いているが——をふりかえってみると、そこには「説明し難い未知の感覚」が含まれていたようだと言うのですね。それは「殆ど喜びに近いもの」だった。

うん、これまたよくわかる。
つまりわたし流にいえば「ざまあみろ」という感覚ね。
だれに対して、あるいは何に対して「ざまあみろ」なのかは、微妙だが、あえていえば石田比呂志の穂村批判にあるような、自己とはなにか、人間とは何か、人生とはなにか、といった大上段にふりかぶった、嵩にかかったような「真摯な問いかけ」の足元をすくってやったような快感とでも言おうか。

ということで、まあ、たしかに「真摯な問いかけ」派に対してバーカとあっかんべえする、サディスティックな快感も捨てがたいのではありますけれど、しかし、それでもやはり、「自分は永遠に死なずにいつまでもここで遊んでいられるような感覚」なんてものはしょせん一時的なものにすぎませんから、アリとキリギリスみたいなオチになるんじゃねえだろうな、ホムラよぉ、という危惧もなきにしもあらず・・・

ああ、やっぱり着地失敗か。(笑)

参考)前に書いたエントリー「穂村弘の短歌」はこちら

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