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2009/01/29

穂村弘『短歌の友人』

2月号の「短歌現代」の短歌時評だったと思うが、たしか小高賢が穂村弘のよさが自分にはよくわからない、だれかきちんと教えてくれないか、なんて感じの文章を書いていた。そこに悪意のようなものは、わたしはあまり感じなかったけれど(ほんとうにどこがいいのかわからないからわからないと書いたのだろう)受け止め方によっては、いまをときめく穂村弘、裸の王様説のような感じにも読めないこともなかったね。

そういえば「短歌研究」の2月号は、穂村弘と吉川宏志の「バトルトーク」の前半で、これもふたりのかみあってないところがなんだか面白かったのだが、やはりいまの短歌の動向を語るとき、穂村弘はどうしてもはずせないのだろうと思ったことだ。

今回、その穂村弘の『短歌の友人』(河出書房新社)を読んだのだが、予想以上に面白かった。
穂村が、この本の何箇所かで重複してとりあげている作品をまずあげてみよう。

電話口でおっ、て言って前にみたいにおっ、て言って言って言ってよ
  東直子

たくさんのおんなのひとがいるなかで
わたしをみつけてくれてありがとう

  今橋愛

たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔
 飯田有子

リモコンが見当たらなくて本体のボタンを押しに寝返りを打つ
斉藤齋藤

こういう作品を前にして、「けっ」と吐き捨てるか、破顔一笑するかは、まあ、私の場合、その日の気分による、としか言いようがないのだが、いずれにしても、こういう傾向の短歌作品がいまの歌壇で一定の勢力をもっているのはたしかなことのようで、その勢力の大将軍が穂村弘である、とひとまず、そういう乱暴なくくりかたをしてみる。
もちろん、上にあげた人たちが穂村弘のエピゴーネン、模倣者であるということではなくて、むしろそういう派閥的なスクールを形成することは、この人たちはあまり得意でもないし、そもそも興味があまりないようにみえる。たまたま、いまの空気を吸っていれば、炭坑のカナリアみたいに窒息寸前になって、こんな詠みぶりに、みんながたまたまなっちゃうんだよね、うんうん、てな感じを穂村弘が客観的に分析して、上の世代に通訳してやっているので、かれがみんなの代弁者になっているということなのだろう。

穂村によれば、いま現在の短歌がどのように詠まれているか、あるいは読まれているかというと、かつての近代短歌、そして戦後の前衛短歌とおおきな断絶があるという。それを穂村はモードという言葉で説明している。ここでいうモードとは、ものの見方、受容の仕方の切り替えのようなものだと思えばいい。まじモード、しゃれモード、てな感じで使うモードであります。

私見では、斎藤茂吉の作品を頂点とする、このような近代短歌的なモードをささえてきたものは「生の一回性」の原理だと思う。誰もが他人とは交換できない〈私〉の生を、ただ一回きりのものとして引き受けてそれを全うする。一人称の詩型である短歌の言葉がその原理に殉じるとき、五七五七七の定型は生の実感を盛り込むための器として機能することになる。

かつて短歌は、こういう大真面目なモードだけで詠まれ、読まれるべきものであった。

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
斎藤茂吉

なんて歌を、穂村は例にあげる。まあ、かならずしもそうとばかりは言えないような気もするが、大筋ではそのとおりだろう。
ところが最初にあげた、いまの短歌がわれわれにかいま見せている風景は、こういう単一のモードとはちょっと違っていて、いろいろなモードの切り替えを自在にして、ふともらした本音に、「なんちゃって」とつけてしまうような感じがある。これを穂村はモードの多様化という見立てをするのですね。そして、へえ、ここまで、ぶっちゃけ、言っちゃっていいのかい、てなことを言ってみせて、わたしたちを唖然とさせる。

すべてがモードの問題に還元されるような感覚を突き詰めるとき、その根本にあるものは死の実感の喪失である。モードの多様化は、自分自身が死すべき存在だという意識の希薄化と表裏一体になっている。私自身を省みても、モードの多様性を受容するスタンスの背後にあるものは、自分は永遠に死なずにいつまでもここで遊んでいられるような感覚だと思う。

この話、うまく着地できないので、もしかして続くかもしれない。

短歌の友人

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