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2009年2月

2009/02/28

すべからく花は折るべし

柏木如亭の『訳注聯珠詩格』(岩波文庫)から。巻之三にこういう詩があります。

金褸衣曲     杜氏

勧君莫惜金褸衣  君に勧む金褸衣を惜しむこと莫れ   

勧君須惜少年時  君に勧む須らく少年の時を惜しむべし

花開堪折直須折  花開きて折るに堪へれば直に須らく折るべし

莫待花残空折枝  花の残するを待ちて空しく枝を折ること莫れ

柏木如亭の訳はつぎのとおり。なかなか味があります。

あなたにお勧め申す 光る糸織物の着物も惜しみたまふな
お勧め申す惜しいと申すは年若のときでござります
花がさいて折かげんならじきに折るがよふございます
すがれになってからむだに枝ばかりを折りたまふな

実際の表記はこれとは異なっております。たとえば、結句をそのまま転記すると次のようになる。カッコ内がルビです。

花残(すがれ)に待(なつ)てから空(むだ)に枝ばかりを莫折(をりたまふな)

杜氏というのは初唐の女で、杜秋娘(としゅうじょう)、金陵(南京)の娼家の娘で十五歳で李錡の妾になり、この詞を唱ったと、これは岩波文庫版の揖斐高の注釈にあります。
なお、これまた同注釈からの孫引きになりますが、佐藤春夫が『車塵集』で、また日夏耿之介が『唐山感情集』で訳詩を試みているそうです。

まず佐藤春夫。

綾にしき何をか惜しむ
惜しめただ若き日を
いざや折れ花よかりせば
ためらはば折りて花なし

つぎは日夏耿之介。

金糸の綾衣は貴い品なれど
惜しむにたりない
少年の時間といふものを
惜しんで下さい
花が咲いて折れるやうなら
折つたがいゝ、
花おちてむなしい枝を
折るに及ばず

美少女にこういう詩を贈られる果報者もあるのかもしれん。うらやましい。(笑)

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2009/02/26

補遺「寝てかさめてか」

ついでながら、伊勢物語のこの段については、円地文子が「なまみこ物語」でものすごいこと(いやこれが国文の常識なのかしらないけれど)を書いておりましたね。ご存知の方には、お見苦しいかもしれませんが、抜粋いたします。

一体巫女は処女として神に仕えるのが習慣になっているが、実際には思いのほか、情事の多いもので、神事に身体の清浄を要求されるのも、女の不浄を厭うというよりも、男の要求に応じうる状態の女を神が好むと見るのが妥当な見解であるかも知れない。
『伊勢物語』の中の「狩りの使い」の件に、業平らしい男が伊勢の斎宮の屋形に伺候して、饗応を受けている中に、斎宮に愛情を求めるようになる。するとその夜半、男の寝ている部屋の御簾の外に女童(めのわらわ)をつれた女の影が透いて見えるので、内へ招じると、入って来たのは斎宮その人であった。業平はそこで斎宮と一夜の契りを込めたが、その翌朝は早朝に出立するので、斎宮と逢う暇もない。そこへ昨夜の女童が文を持って来た。あけて見ると、言葉書きはなくて、一首の和歌が斎宮の手蹟で記されていた。

 きみや来しわれやゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか

これでみると皇女であり、伊勢神宮の斎宮という最高の巫女である貴婦人が自分の方から業平の閨をたずねて来ている。一体『伊勢物語』に描かれているのは、王朝も初期の時代で奈良時代の野生が貴族の行動の中にも可成り残っているのが興味深いのであるが、それにしても、神に仕える貴婦人自身が男の閨を訪ねて来るような積極的な態度は、他の物語には殆ど見られないようである。つまり、巫女というものは神前のほかには男との情交を公認されるとまでは行かないまでも、黙認される形になっていたのではないか。
一方から見れば、巫女に神が憑きうつるという状態も、精神と肉体の極度の緊張、恍惚、飽和という過程を辿るので、その間には性欲の本能も自然に満たされるわけであろう。つまり巫女は神憑りの状態に於いても、一種の性行為を行っているので、彼女達の女性は神によって閉じこめられるどころか、神によって、解放されたと言えるのである。

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テス・ギャラガーと芭蕉(下)

テス・ギャラガーの短編に伊勢物語の歌が引用され、この歌を下敷きにして芭蕉が俳句を詠んだということが書かれている、というのが前回の話。
しかし、ここでわたしが気になったのは、原文はどうなっているのだろうか、ということ。

というのは、この「来る者と去る者」という短編小説の原題は「coming and going」となっているのですが、この題名はもちろん「君や来し我や行きけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか」という歌(の上句)からきているわけで、これをどのように英訳しているのだろうか、と思ったわけであります。「coming and going」という表現ではたぶんないでしょうね。

ちなみにわたしが手元に持っているペンギンの『JAPANESE VERSE』(オーストラリア人の英語の先生から貰った)では、この伊勢物語の歌は次のように英訳されています。

Was it  you who came to me
Or I who went to you -
I know not.
Was it dream or reality,
Sleeping or awake?

まあ、いささか直訳じみているが、とくに不足はないように思う。
「coming and going」はそれぞれ動詞の過去形として使われておりますが、そのままのかたちではない。

ところがですね、ここでもうひとつ気になるのは、「おくの細道」の序文の英訳なんですな。

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。

テス・ギャラガーは、本書のなかでほかにも何箇所か日本文化に触れていますが、どうもその知識はアメリカ人が同じアメリカ人に「zen」や「haiku」を紹介するというレベルではないかと思われる。すくなくとも専門家ではない。
ということで、この作家が、どの英訳のテクストを読んだのかはわからないのですが、たとえばグーグルの書籍検索(目下、日本でも波紋を起こしていますが、その話はまたの機会に)で、上記の「月日は百代の過客」の英訳の本を探すとつぎのような本がヒットする。
『Zen Buddhism, Volume 2』
そして、この本に訳出されている「月日は百代の過客」のテクストは次のようになっております。

Sun and moon are eternal wanderers. So also do the years journey, coming and going. He who passes his life on the floating ship and, as he approaches old age, graspe the reins of horse, journeys daily.

ははあ、ここに「coming and going」が出ていますな。
でも、わたしも英語は達者とはいえないけれども、この訳はどうもうまくないね。
ちなみにドナルド・キーンの訳ではこうなんだそうです。

The months and days are the travellers of eternity. The years that come and go are also voyagers. Those who float away their lives on ships or who grow old leading horses are forever journeying, and their homes are wherever their travels take them.

うん、やっぱりこのほうがいいようですな。

ということで、テス・ギャラガーの原文にあたるほどの熱意はないのですが、この短編のタイトルとなった「coming and going」は、もしかしたら伊勢物語じゃなくて、芭蕉からきているのではないかなあ、なんてわたしは思ったりしているのですね。

そして、さらに憶測に憶測を重ねることになるけれど、この「coming and going」という表現(まあ、そんなにめずらしいものではないけれど)は、レイモンド・カーヴァーがもしかしたら彼女に教えたのではないかしら、なんていう気もするのですね。そのあたりはもちろんぜんぜん自信ないけど。

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2009/02/25

テス・ギャラガーと芭蕉(上)

Owlwoman テス・ギャラガーの『ふくろう女の美容室』橋本博美訳(新潮社)を読んでいるのだが、ちょっと気になる箇所がある。
だがその話のまえに、この詩人、作家(という順番らしいよ)についてご存知でない方もいらっしゃるかもしれないので、それから書いておきますね。
もっともべつにわたしも詳しいわけではない、たまたま、ほかの本を読んで多少の予備知識をもっているというだけのこと。

ブログに移行する前の読書日記2003年2月10日の条。古い記事を使い回して恐縮だが、転載しておきます。

『馬を愛した男』テス・ギャラガー/黒田絵美子訳(中央公論社/1990)を読む。12編の短篇集。冒頭に「レイに」という献辞がある。著者は1979年からレイモンド・カーヴァーと一緒に暮らし始め、88年の6月に結婚した作家。(同8月にカーヴァー死去)
本書のことは、柴田元幸さんの『アメリカ文学のレッスン』で知る。決して難解なところはないのだが、ちょっと風変わりな感性の持ち主のようだ。そういう自分の毛色の変ったところを、世間のなかで生きていくために押し殺すのではなく、素直に表現して行きたいというのが、たぶん小説を書く動機になっているのではないかな。

ということで、この人の短編はレイモンド・カーヴァーとどうしても重なってしまうのですね。じっさいこの『ふくろう女の美容室』という短編集も愛するパートナーを亡くした男や女の喪失感が大きなテーマになっています。

さて、気になる箇所というのは「来る者と去る者」という短編のこの部分。少し長くなるが、パラグラフごと引く。

エミリーは心の中で、町の上空を駆け抜けていった。夫の眠る場所がまぶたにありありと蘇る。東の突端の、町が一望できる墓地。最近掘り起されたばかりの一画。棺が埋まっている土の上には大きな常磐木花輪(リース)が供えられ、花輪に付けられた幅広のベルベットのリボンには金色の文字で、「ナイアル、最愛の夫にして父親」と記されている。暮石を手配し、そこに刻む文言などもすべて決めるにはあと数ヶ月かかるだろうが、彼女にはすでに墓碑銘として心に決めている詩があった。聞くところによると、芭蕉もその昔この歌を下敷きにして俳句をつくったというが、それは、ある女性が初めての逢瀬の後に相手の男性へ送った贈答歌だった。たぶん、エピタフに使うのは上の句だけになるだろうか。

 君や来し
 我や行きけん
 おもほえず

「訳者あとがき」にあるように、この伊勢物語の斎宮から有原業平へ贈られた「君や来し」を下敷きにして芭蕉がつくった句というのは「春や来し年や行きけん小晦日」だと思うが、まあ、これ自体はまったくどうということもない句でありますね。唯一、芭蕉の年代を特定できるもっとも若いときの作品であるというのが重要なくらいで。(寛文二年、芭蕉十九歳頃)

(以下次号)

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2009/02/24

みすずの読書アンケート

「月刊みすず」恒例の読書アンケート特集から気になった本。まあ、読まないだろうなあ、というのもあるけれど、あくまで自分用の覚えとして。

『論争する宇宙』吉村譲(集英社新書)
『老子』蜂屋邦夫訳注(岩波文庫)
『詩の中にめざめる日本』真壁仁(岩波新書)
『死よりも悪い運命』カート・ヴォネガット(ハヤカワ文庫)
『小林秀雄の恵み』橋本治(新潮社)
『聖母像の到来』若桑みどり(青土社)
『グノーシス「妬み」の政治学』大貫隆(岩波書店)
『鉄腕ゲッツ行状記—ある盗賊騎士の回想録』(白水社)
『書を読んで羊を失う』鶴ヶ谷真一(平凡社ライブラリー)
『私の昭和史 戦後篇(上下)』中村稔(青土社)

20090223 ここで、一休み。中村稔の『私の昭和史』は敗戦のところまで読んでいたので、続編をわたしも楽しみに待っていた。ところで、これを推している方が二三人いらしたのだが、そのうちのお一人である永田洋(地学)という方が、ちょっと意味深なコメントを書いておられた。「下巻228頁にある〈業績〉は間違いであって欲しい」というのがそれ。うーん、いったい何のことだろう。

『イロニアの大和』川村二郎(講談社)
『訳注連珠詩格』柏木如亭/揖斐高校注(岩波文庫)
『わたしの戦後出版史』松本昌次(トランスビュー)
『語学者の散歩道』柳沼重剛(岩波現代文庫)
『世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ』ヘレン・モーガン(光文社)
『ベルリン終戦日記』著者匿名/山本浩司訳(白水社)
『渡辺華山』ドナルド・キーン(新潮社)
『谷中、花と墓地』サイデンステッカー(みすず書房)
『博物館の裏庭で』ケイト・アトキンソン(新潮社)
『叛逆としての科学』F・ダイソン(みすず書房)
『中国の民族問題』加賀美光行(岩波現代文庫)
『群島—世界論』今福龍太(岩波書店)

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2009/02/22

吉右衛門句集

新装版の『吉右衛門句集 新装版』(本阿弥書店)を読む。

播磨屋、初代中村吉右衛門(1886ー1954)は、秀山という俳号をもっていたそうだが、指導をうけた虚子に伺いをたてたところ、「矢張り吉右衛門の方がよくはありませんか、吉右衛門が既に芸名なのだから」と言われたので、以後は俳句の実作においても吉右衛門を用いた。

本書は、この吉右衛門の昭和6年から昭和16年までの句をまとめた句集がまずあって、昭和16年に刊行された。これに虚子が、序文を寄せている。上記の吉右衛門で俳句のほうもおやりなさいという助言を与えたこともこの序文に見える。
この句集が払底し、吉右衛門当人の手元にも一冊もなくなった6年後に、勧めてくれる人もあったので再版する運びとなった。再版にあたって、昭和17年以後の作句を加えると同時に、ところどころに配置した短い文章(これがなかなか味がある)を少し入れ替えた。これが、本書の底本で、昭和22年の刊行である。
今回、わたしが読んだ本阿弥書店の新装版は平成19年の刊行で、挨拶として「あとがき」を書いているのは、二代目中村吉右衛門である。

わたしはといえば、田舎者のかなしさ、歌舞伎は敷居が高くて、まったく不案内なのだが、二代目吉右衛門は、お母さんが初代の一人娘の正子さん、お父さんが八代目松本幸四郎ですね。だが、正子さんは二人の男子を生んで一人をお父さんである初代吉右衛門の養子とした。これが二代目吉右衛門ですから、戸籍の上では初代と二代目は親子ということになる。
ちょっと複雑ですが、知り合いにもそういう話を聞いたことがあります。

句集は編年体で編まれておりまして、各年はまた春夏秋冬で構成されている。そしてところどころに随筆がはさまれていることはすでに述べた。面白いのは、冬には必ずと言っていいほど京都の句があることで、これはもちろん顔見世興行があるからでしょう。ちょっとあげてみよう。

冬霧や四条を渡る楽屋入
白粉の残りてゐたる寒さかな
時雨する夜や紫野大徳寺
昼ばてや冬日の残る東山
どこやらで逢ふた舞妓や冬の霧
北山に冬日さすなり松ケ崎
羽子板をおくる舞妓の名をわすれ
清水の坂の途中にしぐれけり

ところで、わたしは歌舞伎のことはよく知らないので、次の句に首をひねった。

秋の蚊を追へぬ形の仁木かな

ただしこれは、たとえ熱烈な歌舞伎愛好者であっても、このままでは句意が伝わりにくいかもしれない。同じようなことは作者も考えたと見えて、ちゃんと随筆がついておりました。
吉右衛門が仁木を勤めたとき、その出を奈落で待っていたときから、一疋の蚊がまつわりついていたのだそうです。

やがてキッカケになって、その蚊も一緒にせり出して来て、大きく見得をするとたんに鼻の頭に止まつた。蚊を追い払はうにも仁木の極つた形で払ふことは勿論、顔もふれず、と云つて口で吹き飛ばすことも出来ず、たうとう我慢をしたまゝ序の舞の長い太鼓の間を、鼻先を蚊に喰はれながら揚幕へ入つた。漸くその蚊を払ひ部屋へ戻つて鏡台の前に立つたら、仁木の鼻は真赤にふくれ上つてゐた。

——と、ここで恥を忍んで告白するが、いくら歌舞伎に無知な私でも、ここまで書いてあれば仁木が伽羅先代萩の実悪、仁木弾正であることくらいはわかる。しかし、わたし仁木を「にき」と読んで、「秋の蚊を追へぬ形の仁木かな」では、下四じゃねえの、なんだかなあ、なんて考えていたのであります。はは、しばらくして、やや、これは「にっき」と読むのか、とやっと気がついた。やっぱり歌舞伎は敷居が高くていけねえ。(笑)

吉右衛門句集

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2009/02/11

おぬしもワルよのお

キヤノンの御手洗冨士夫会長の名前が、大分のコンサルタント会社社長の裏金、脱税事件とのからみで新聞紙上におどっております。キヤノンも本人も事件とは無関係であるとのコメントのようですが、財界総理であるところの日本経団連会長がこれですか、やれやれ。

一昨年の12月に、わたくし「Like A Rolling Stone」というエントリーで、この人物に対する感想を書きましたが、やっぱりねえ、という感じ。政治も経済も現在の「総理」にはちとお粗末な人物が居座っているようですな。

まあ、東京地検特捜部というのは、いろいろと権力内部での暗闘(今回の摘発のゴーサインは当然そのように考えられる)はあるにせよ、「ぐふふふ、越後屋、おぬしもワルよのう」「そういうお代官さまこそ、ふぉふぉふぉ」なんて人たちを、懲らしめるというモチベーションもまったくないわけでもないと思うので、たぶん、今回のこともそういうことなのでしょう。どこまで、捜査が及ぶのかは、国民としては興味深い。

ところで嘘か本当か(本当だと思うけど)、この御手洗という男、こういうことを書かれています。【こちら】

御手洗社長は、30~40代をずっと米国で過ごし、1989年に帰国するまでの10年間、キヤノンU.S.A.の社長を務めた。実際の御手洗社長にはわがままな面があり、米国での社長時代には、秘書は昼前までに、常に、中華、フレンチ、日本料理といった3件の予約をしておかなければならなかったという。その日の気分で選び、2件はキャンセルさせるのだ。

ははは、やっぱ、越後屋かな、この男。

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2009/02/04

茂吉の歌集のこと

先日書いた岩波文庫版の『斎藤茂吉歌集』による第一歌集から第十七歌集までの順番は、基本的に作歌年代を念頭においた編年体になっている。

不明にして、茂吉自身が、第四歌集のなになにとか第十歌集のなになにというように呼んだのかどうか、わたしは知らない。
しかし、この岩波文庫版の作品収録のもととなったのは、岩波の『斎藤茂吉全集』であり、この全36冊の全集第一回配本は1952年で、茂吉は1953年まで生きているので、こういう歌集のナンバリングには茂吉自身の意図があったとみていいのではないかと思う。
もちろん各歌集のなかの歌が単純に時系列に連なっているということではないし、また歌の選び方、配置の仕方も、あくまで文学的な観点からなされていることはいうまでもない。

だが、茂吉にはやはり、自分の人生をすべて自分の歌で覆い尽くしたいというつよい意志があったのではないかと思う。そのひとつの証拠が、作歌時期と歌集発行時期の間隔が、比較的短いものと非常に長いものとがある、という事実である。
下の表にまとめてみた。1から17までの歌集の作歌時期と歌集の発行時期、そしてその間隔がどれくらいあったかを、エクセルにいれてみた。(ただし間隔はあくまでめやすなので実際には最大プラスマイナス1年の幅があるだろう)
一見してわかるように、第三歌集『つゆじも』から第九歌集『石泉』までの七つの歌集の間隔が非常に長い。(黄色の部分)
『つゆじも』などは詠んでから二十五年たってやっと歌集にまとめたことになる。この執念深さはちょっとただごとではない。ここまで時間的な間隔が空いていると、よく言えば記憶の結晶作用がおこるだろうし、悪くとれば、捏造とはいわないまでも、選歌の過程で過去はゆがめられてしまうだろう。だから、茂吉の歌を単純に精神史として解釈するのは間違っているのだろう。

Mokichi1

上記のエクセルの表を、歌集の初版の年月日順で並び替えてみた。どういう操作を茂吉がしたのかが、だいたいわかる。1945年の敗戦より前の茂吉の歌集は6冊。戦後は11冊。しかしその戦後の11冊のうち8冊は、作歌時点は戦前である。
1945年8月15日の敗戦が、この大歌人の一生に与えた意味が見えるような気がする。

Mokichi2

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2009/02/01

1月に読んだ本

『ペルシャ放浪記—托鉢僧に身をやつして』A.ヴァーンベーリ/小林高四郎・杉本正年訳(東洋文庫)
『逆説の日本史〈15〉近世改革編—官僚政治と吉宗の謎』井沢元彦(小学館 /2008)
『くもの巣の小道』イタロ・カルヴィーノ/米川良夫訳(福武書店 /1990)
『日本文学の歴史 (7) 近世篇 1』ドナルド・キーン/徳岡孝夫訳(中央公論社/1995)
『宋詩概説』吉川幸次郎(岩波文庫/2006)
『不惑の楽々英語術』浦出善文(集英社新書/2006)
『ジーヴスと封建精神』P.G. ウッドハウス /森村たまき訳(国書刊行会/2008)
『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』米原万里(角川書店 /2001)
『セレクション歌人33 吉野裕之集』(邑書林/2008)
『漢語の散歩道』一海知義・筧文生・筧久美子(かもがわ出版 /1997)
『人生論集』アラン/串田孫一・編 (白水社/1996)
『煙の殺意』泡坂妻夫(創元推理文庫/2001)
『斎藤茂吉歌集』山口茂吉・佐藤佐太郎・柴生田稔/編(岩波文庫/1978)
『肩胛骨は翼のなごり』デイヴィッド・アーモンド/山田順子訳(創元推理文庫/2009)
『 短歌の友人』穂村弘(河出書房新社/2007)

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