吉右衛門句集
新装版の『吉右衛門句集 新装版』(本阿弥書店)を読む。
播磨屋、初代中村吉右衛門(1886ー1954)は、秀山という俳号をもっていたそうだが、指導をうけた虚子に伺いをたてたところ、「矢張り吉右衛門の方がよくはありませんか、吉右衛門が既に芸名なのだから」と言われたので、以後は俳句の実作においても吉右衛門を用いた。
本書は、この吉右衛門の昭和6年から昭和16年までの句をまとめた句集がまずあって、昭和16年に刊行された。これに虚子が、序文を寄せている。上記の吉右衛門で俳句のほうもおやりなさいという助言を与えたこともこの序文に見える。
この句集が払底し、吉右衛門当人の手元にも一冊もなくなった6年後に、勧めてくれる人もあったので再版する運びとなった。再版にあたって、昭和17年以後の作句を加えると同時に、ところどころに配置した短い文章(これがなかなか味がある)を少し入れ替えた。これが、本書の底本で、昭和22年の刊行である。
今回、わたしが読んだ本阿弥書店の新装版は平成19年の刊行で、挨拶として「あとがき」を書いているのは、二代目中村吉右衛門である。
わたしはといえば、田舎者のかなしさ、歌舞伎は敷居が高くて、まったく不案内なのだが、二代目吉右衛門は、お母さんが初代の一人娘の正子さん、お父さんが八代目松本幸四郎ですね。だが、正子さんは二人の男子を生んで一人をお父さんである初代吉右衛門の養子とした。これが二代目吉右衛門ですから、戸籍の上では初代と二代目は親子ということになる。
ちょっと複雑ですが、知り合いにもそういう話を聞いたことがあります。
句集は編年体で編まれておりまして、各年はまた春夏秋冬で構成されている。そしてところどころに随筆がはさまれていることはすでに述べた。面白いのは、冬には必ずと言っていいほど京都の句があることで、これはもちろん顔見世興行があるからでしょう。ちょっとあげてみよう。
冬霧や四条を渡る楽屋入
白粉の残りてゐたる寒さかな
時雨する夜や紫野大徳寺
昼ばてや冬日の残る東山
どこやらで逢ふた舞妓や冬の霧
北山に冬日さすなり松ケ崎
羽子板をおくる舞妓の名をわすれ
清水の坂の途中にしぐれけり
ところで、わたしは歌舞伎のことはよく知らないので、次の句に首をひねった。
秋の蚊を追へぬ形の仁木かな
ただしこれは、たとえ熱烈な歌舞伎愛好者であっても、このままでは句意が伝わりにくいかもしれない。同じようなことは作者も考えたと見えて、ちゃんと随筆がついておりました。
吉右衛門が仁木を勤めたとき、その出を奈落で待っていたときから、一疋の蚊がまつわりついていたのだそうです。
やがてキッカケになって、その蚊も一緒にせり出して来て、大きく見得をするとたんに鼻の頭に止まつた。蚊を追い払はうにも仁木の極つた形で払ふことは勿論、顔もふれず、と云つて口で吹き飛ばすことも出来ず、たうとう我慢をしたまゝ序の舞の長い太鼓の間を、鼻先を蚊に喰はれながら揚幕へ入つた。漸くその蚊を払ひ部屋へ戻つて鏡台の前に立つたら、仁木の鼻は真赤にふくれ上つてゐた。
——と、ここで恥を忍んで告白するが、いくら歌舞伎に無知な私でも、ここまで書いてあれば仁木が伽羅先代萩の実悪、仁木弾正であることくらいはわかる。しかし、わたし仁木を「にき」と読んで、「秋の蚊を追へぬ形の仁木かな」では、下四じゃねえの、なんだかなあ、なんて考えていたのであります。はは、しばらくして、やや、これは「にっき」と読むのか、とやっと気がついた。やっぱり歌舞伎は敷居が高くていけねえ。(笑)
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