« テス・ギャラガーと芭蕉(上) | トップページ | 補遺「寝てかさめてか」 »

2009/02/26

テス・ギャラガーと芭蕉(下)

テス・ギャラガーの短編に伊勢物語の歌が引用され、この歌を下敷きにして芭蕉が俳句を詠んだということが書かれている、というのが前回の話。
しかし、ここでわたしが気になったのは、原文はどうなっているのだろうか、ということ。

というのは、この「来る者と去る者」という短編小説の原題は「coming and going」となっているのですが、この題名はもちろん「君や来し我や行きけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか」という歌(の上句)からきているわけで、これをどのように英訳しているのだろうか、と思ったわけであります。「coming and going」という表現ではたぶんないでしょうね。

ちなみにわたしが手元に持っているペンギンの『JAPANESE VERSE』(オーストラリア人の英語の先生から貰った)では、この伊勢物語の歌は次のように英訳されています。

Was it  you who came to me
Or I who went to you -
I know not.
Was it dream or reality,
Sleeping or awake?

まあ、いささか直訳じみているが、とくに不足はないように思う。
「coming and going」はそれぞれ動詞の過去形として使われておりますが、そのままのかたちではない。

ところがですね、ここでもうひとつ気になるのは、「おくの細道」の序文の英訳なんですな。

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。

テス・ギャラガーは、本書のなかでほかにも何箇所か日本文化に触れていますが、どうもその知識はアメリカ人が同じアメリカ人に「zen」や「haiku」を紹介するというレベルではないかと思われる。すくなくとも専門家ではない。
ということで、この作家が、どの英訳のテクストを読んだのかはわからないのですが、たとえばグーグルの書籍検索(目下、日本でも波紋を起こしていますが、その話はまたの機会に)で、上記の「月日は百代の過客」の英訳の本を探すとつぎのような本がヒットする。
『Zen Buddhism, Volume 2』
そして、この本に訳出されている「月日は百代の過客」のテクストは次のようになっております。

Sun and moon are eternal wanderers. So also do the years journey, coming and going. He who passes his life on the floating ship and, as he approaches old age, graspe the reins of horse, journeys daily.

ははあ、ここに「coming and going」が出ていますな。
でも、わたしも英語は達者とはいえないけれども、この訳はどうもうまくないね。
ちなみにドナルド・キーンの訳ではこうなんだそうです。

The months and days are the travellers of eternity. The years that come and go are also voyagers. Those who float away their lives on ships or who grow old leading horses are forever journeying, and their homes are wherever their travels take them.

うん、やっぱりこのほうがいいようですな。

ということで、テス・ギャラガーの原文にあたるほどの熱意はないのですが、この短編のタイトルとなった「coming and going」は、もしかしたら伊勢物語じゃなくて、芭蕉からきているのではないかなあ、なんてわたしは思ったりしているのですね。

そして、さらに憶測に憶測を重ねることになるけれど、この「coming and going」という表現(まあ、そんなにめずらしいものではないけれど)は、レイモンド・カーヴァーがもしかしたら彼女に教えたのではないかしら、なんていう気もするのですね。そのあたりはもちろんぜんぜん自信ないけど。

|

« テス・ギャラガーと芭蕉(上) | トップページ | 補遺「寝てかさめてか」 »

d)俳句」カテゴリの記事

コメント

往昔、洋の東西の時空を超えての話、これぞ文芸評論とただただ感心して拝読しました。
『奥の細道』の英訳は、もちろんドナルド・キーンのほうが上ですが、細かいところで恐縮ですが二人とも「舟」にshipを当てているのが、気になりますね。horseに対応するのはboatでは?その方が「漂泊の生涯」という感じが出ます。

千年を往きつもどりつ筒井筒
(過日、能「井筒」を見たときの感想ですが、伊勢物語から思い出しました。無季)

投稿: 我善坊 | 2009/02/27 10:56

いや、どうも冷や汗が出ます。
shipとboatのご指摘はたいへん面白いですね。
ええと、芭蕉の「舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物」という箇所ですけれども、ここ現代の私たちは、すらすら読み進みますが、それっていったいどういう人たちなの、とあらためて、たとえば外国人に訊かれたと仮定すると、正確に答えるのはけっこうむつかしいような気がします。

「馬の口とらえて」というのは、たぶん「馬子」、「馬追ひ」でいいんじゃないかと思います。手元の古語辞典によれば「客や荷を馬に乗せて行くこと。またその人」。
「舟の上に生涯をうかべ」というのが、たぶんふたつに分かれるんじゃないでしょうか。
すなわち、
(1)小さな川舟のように櫓を漕ぐものや、流れに乗って川をくだり、帰りは綱を引いて上るような舟で暮らしを立てている水運関係者。こういうのはなんというのかなあ、「筏師」、「筏守」というのはありますが、江戸時代の言葉でこういう人をなんと呼ぶのか、いまはちょっと思いつかない。たぶん「船頭」でいいんじゃないかなあ。

これに対して、「舟子」という言葉は当時の言葉としてあるようでして、すなわち、
(2)「かじとり」の下で、船を操る水夫。船方、水手(かこ)。
で、ドナルド・キーンたちはここを(2)のような解釈をしたんじゃないかと思うんですよね。だからこの場合はshipじゃないか、ト。

でも、たしかにここは我善坊さんがおっしゃるように馬方に対応するのはやはり(1)の人たちだという気がしますね。傍証として、やはりわたしの古語辞典には、こういう面白い言葉が載っております。「船頭馬方御乳の人」あるいは「馬追ひ船頭御乳の人」。
船頭・馬方は荷物を質にしてゆすり、乳母は赤ん坊を質にわがままを言うことから、弱みにつけ込んで人にものをねだるわがまま者。
うん、やっぱりここは船頭の乗るボートが適当ではないでしょうか。我善坊さんに賛成です。

投稿: かわうそ亭 | 2009/02/27 23:14

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23898/44183565

この記事へのトラックバック一覧です: テス・ギャラガーと芭蕉(下):

« テス・ギャラガーと芭蕉(上) | トップページ | 補遺「寝てかさめてか」 »